27. 変人
随分と広い、それがセリオスの修道院の印象だ。
建物そのものは古めかしく見えるものの、よくよく手入れはされているらしい。気持ちに余裕が出た今、改めて見回すと、窓から入る光を抑えた廊下は、あちらこちらに修繕の跡が見受けられた。
やがて屋外に接する渡り廊下に差し掛かると、その明るさに目が眩んだ。
土の湿った匂いと植物の影に入った時のような、少しひやりとした清涼感のある空気に包まれる。見下ろしたそこは、高低様々な木々が植えられた庭園だった。
どこからともなく微かに響いて聞こえてくる合唱は、先程の少女が言っていたものだろうか。
「修道院自慢の庭園よ」
思わず足を止めていたセリオスに気が付いたエスタは、首だけわずかに振り返るとくすりと笑っていた。
「でも意外だわ」
「何が?」
「セリオスも庭園に見惚れて足を止める事あるのね」
「イムは僕を何だと思ってるの?」
「借りたものをしわしわにしちゃうような、融通と気の利かない機械オタク」
きっぱりと言われて、セリオスも思わず黙った。半ば自分で起こしたばかりの事なだけに、反論もしにくい。
「……やっぱり怒ってるんじゃないか。それはごめんって言ってるだろ。ルーザには後で言うし」
「怒ってるんじゃなくて、私だったら謝られてもちょっと許しがたいなって思ったに過ぎないわ」
責めるような調子に、セリオスもなんだか卑屈な気持ちになってくる。
「別にイムのじゃないだろ」
「あら、私のじゃなかったら同じ事してもいいって事?」
「なんだよそれ、めんどくさいなあ! そうは言ってないだろ」
セリオスはうんざりとして、大袈裟なくらいに溜め息を零した。何となく肩の重さを感じ、首や肩を回しつつそっぽを向いた。先程、少しでも心配をした自分がバカみたいだと、人知れず思う。
本当のこと言っただけじゃない、と。仕方がなさそうなエスタの呟きは無視をした。
「お前たち、お喋りしてないでさっさとおいで」
「はーい。すぐ行くわ、ごめんなさい」
不意にかかったフォルビアの声に、エスタは申し訳なさそうに笑ってそちらに駆けた。残される形になったセリオスだけが、釈然としない。
その頭に、ぽんと軽く手が乗った。
「気にすんなって」
最後尾で静観していたリシュリオが、苦笑しながら追いついた。一先ず行こうと促されて、セリオスもまた、ゆっくりと歩きだす。
「そうは言っても。あそこまで言われないといけない事?」
「ははっ。まあ、当たりは大分強かったな」
不貞腐れてぼやくと、リシュリオは肩を竦めて唇の端をつり上げた。
「けど、理由はなんとなく解るけどな」
歩きながら呟くように告げられて、セリオスは眉を寄せた。
「理由? さっきの事で、僕を馬鹿にしたいだけじゃないの」
「あー……それはそれだけどもな。多分、イムも不安なんじゃねえかなって」
「不安? どこが?」
「さっきの子。セリも気づいただろ」
恐らくエスタに聞こえないようにしたかったのだろう。あくまで小さく告げられた言葉を、セリオスは一瞬、理解が出来なかった。やがて、寄せた眉がさらに皺を刻む。
「何それ。あんなに隠していたのに、僕らが見ちゃった事がそんなに心配って事?」
「違うよ。何でもないフリして全部どうにかしようとしているけれど、いつも不安でいっぱいなんだろうな。それが、守りたい本人を見て、色々思うところがあるんだろ」
「え、そんな繊細な神経してるかな」
「セリに八つ当たりしたくなる程度には、ほとんど無意識に気を揉んでいるんだろうな」
「ホントなにそれ。僕が可哀想」
憮然として唇を尖らせていたら、リシュリオにただ苦笑されていた。
こればっかりは俺は代わってやれないからと言われても、ますます納得がいかなかった。
「イムは俺やルーザを頼りにしてくれているけど、それ以上にセリ、お前の事を信頼しているんだよ」
「え、信頼された結果八つ当たりとか、全く嬉しくないんだけど」
「はは、流石によろこべとは言わねえよ」
でもその内、どういう事か解るさ。そう気楽に言ってのけるリシュリオを、セリオスは胡乱に見ることしか出来なかった。
やがて渡り廊下は終わり、先にガラスの扉を見た。欄干から先に見えた建造物は、ガラスで出来た器のようにも見える。その建造物の中もまた植物に溢れているようで、緑が生い茂っている。
先頭を歩いていたフォルビアに代わり、後ろから追い抜いた修道士が扉を開けた。
湿度を持った温かい空気と生き物の匂いが、こちらに香る。温室のようだ。
同時に、それまで大して聞こえていなかった鳥のさえずりが聞こえて来た。一羽や二羽ではない。羽ばたく音がどこからともなく、いくつも聞こた。
「ここは……」
エスタが思わず呟くと、老婆が応えた。
「普段は人の出入りを許可していない温室さ。野鳥が多く集まるからね」
「ここにアーレンデュラが?」
「そうさね。多分その辺に転がってるよ」
フォルビアは奥に続く経路を辿りながら、肩を竦めた。どういう事だと首を傾げる後続に構わず、院長の老婆はどんどんと奥に向かって行く。
「早くおいで。鳥たちが騒ぎ始めてるから、どうせ来客にあいつはすぐに気が付く」
「そうなの?」
「ま、すぐに解るよ」
招かれるままに、一同はついて行く。
手入れをする為に確保された通路に迫る勢いで、一体の植物は生い茂っている。そのほとんどが身近な植物とは言い難く、どこか遠くからやって来たものなのではないかと容易に想像ついた。
せせらぐ水の音に釣られて草木の向こうに目を向けると、時折水路やため池が見受けられた。きっと本来は、表の庭園のように人が来る場所の予定だったのだろう。それが今では、あちらこちらから聞こえる鳥たちの憩いの場所へと変わっているようだ。
天井をよく見ると、出入り口のように真ん中だけぽっかりと開けられている。そのお蔭で、鳥だけが自由に出入り出来るらしい。
「ここのって、みんな修道院で預かっているの?」
エスタが何気なく尋ねると、フォルビアは首を振った。
「勝手に集まって来たに過ぎないよ。まあ、アレンが勝手に呼んで私物化しているだけさ」
「そういう事ね」
呆れた様子のフォルビアに、エスタだけが頷いた。
中に歩みを進むほど、様々な鳥の声で賑わっている様だ。
掌に納まってしまうような小さな鳥から、抱えるほどの大きな鳥まで。あるいは小鳥やネズミなど、小さな生き物を簡単に捕食してしまうのではないかと思われる、大型のものまでが共存している様は異常だ。
最後尾でセリオスはその光景に目を丸くして、リシュリオだけは考え込んだ様子で腕を組んでいた。
やがて、生い茂っていた植物が不意に開ける。途端に鳥の声が鮮明に聞こえた気がした。
開けたそこには四方に入り口がある、小さな東屋があった。恐らく天井の穴から入る、直接的な日差しを避ける為だろう。風通しを良くするために、壁はどこも足元と天井付近はない。
屋根の下は、本来長椅子が置いてあったのだろう。まるで片づけのされていない書斎机のように、大量の書類が積み上げられている。
一行に驚いた小鳥が、数羽木々の方へと逃げていった。
だがそんな情報も些細なものだと思えるほどに、エスタは驚きに息を呑んでいた。
積み上げられた書類は、よくよく見ると各地の地図のようだ。散らかった区画のその真ん中に、書類に埋もれる様にして転がる姿があった。
眠っているのか、身じろぎ一つしない。長い鈍色の髪はばさりと広がり、近くにいた鮮やかな鳥に突かれて遊ばれている。
伸ばされっぱなしの前髪に表情は解りにくいが、乾いた唇や高い鼻筋は男のもののように見える。
横たわる身体は思いの外大きく見えて、少なくとも背丈はリシュリオと同じくらいではないだろうか。
身に着けた白衣らしきものは、鳥のフンか土や植物の汁か何かにかなり薄汚れていて、はっきり言って清潔感など皆無である。
まさか彼――――あるいは彼女が目的の人物だろうか。信じられない思いでいたエスタの裏付けをするように、フォルビアはずかずかとその姿に近づいた。
「これ、起きないかアレン! いつまで寝ているんだい」
そんな声に、残っていた鳥たちも一斉に逃げ出す。ばさばさと、慌てた風に羽毛が舞って、セリオスは思わず身を竦めた。
そして、まさかという思いを裏付けされたエスタだけが驚きに目を見開いていた。
「え、この人が本当に、アーレンデュラなの?」
「何言っているんだい。何度か会っているはずだろう」
「そうだけど……ええ、でも……」
こんな姿だっただろうか。そうぼやいたエスタにとって、本当に信じられない思いだったのだろう。
エスタは何度も老婆と寝ころぶ姿とを見比べて、悩ましそうに顎に手を添えていた。
「あんたがどれを見て言っているのか知らないけどね、間違いなくこれはアーレンデュラだよ」
「そんな……」
驚愕に目を見開いたエスタに対して、セリオスもリシュリオも互いに見合わせ首を傾げるしか出来ない。
呆れた顔をした老婆の足元で、その姿は身じろぎした。
「……んあ、いんちょう?」
わずかに首を動かして、自分の頭の脇に立った姿を見上げたのだろう。寝ぼけた様子の声は体格に見合わず、声が低めの女のものにも、声の高い男の声にも聞こえなくなかった。
やがて、声の主は他の姿に気がついて、わずかに顔を上げた。かと思うと、ああと嘆息してまた頭を地につける。
「貴女が来ることは聞いていたよ、エスタ」
はっきりと告げられた声は、今度は女のものだった。
その声色に心当たりはあったのだろう。エスタは少しだけホッとした様子で、肩の力を抜いていた。
「……アーレンデュラに間違いないのね」
「そう言えば、この格好で会ったのは初めてだったね」
安心して告げたエスタの言葉に、相手はそうだと言っているだろうと、少しだけ拗ねた様子だった。
だがそれもわずかな間の事だった。億劫そうに身体を起こすと、身体の上に無造作に乗っていた地図の数々がはらりと落ちた。
「それから、初めましてお兄さん方。我が城にようこそ」
前髪に隠され、唇の端だけで笑った姿に、フォルビアだけが呆れた様子で溜め息をついた。
「アレン、挨拶はいい。どうせもう聞いているんだろ。その子の話を聞いてやんな」
「嫌だな、院長。私が知っていても彼らは知らないんだ。なら挨拶するのが礼儀ってもんでしょう?」
くすくすと笑ったアーレンデュラは、立ち上がろうとせずにセリオスたちを見上げた。
「初めまして、私はアーレンデュラ。空賊シュテルのリシュリオさんに、セリオス君? 私は人から頼まれて仕事をしていなくてね。必要だという情報がそろった人の所に、逃げ道を提案しに行く仕事をしているよ」
だから、院長の頼みでも仕事の依頼は受けたくないんだけど。そうへらりと笑って言ってのけた姿に、フォルビアは眉を顰め、エスタは身を固くした。よもや話をする前から断られるとは思ってもみなかったせいだ。
フォルビアは深く溜め息をついていた。
「アレン」
少しくらいは聞く耳を持てと言わんばかりの老婆に、座り込んだ姿はちらりと見上げただけで、口元の笑みは変わらない。
「ヒトのやり方を捻じ曲げようって言うんだ。いくら身内みたいに目をかけていた相手とは言えね、それ相応の対価か納得出来るだけのものを示してもらわないと。例外をつくるとそれだけ周りも煩くなるからね」
そうでしょう? と。尋ねた言葉に、咄嗟に応えられる者はいなかった。
「ならば終わり。私はやる事が残っているんでね。鳥たちが驚いてしまうから、お引き取り頂けると嬉しいな」
ひらひらと手を振って、脇に落ちた地図を拾い集め始めた。その様子から、もう話そうとする気力は見受けられない。
老婆はやはりこうなるかと言わんばかりに肩を竦めて、一同を伺っていた。
どうするか、そんな言葉をフォルビアがかけるよりも先に、エスタは動いていた。すなわち、アーレンデュラが丁度拾おうとしていた地図を、ひったくるように拾い上げた。
あ、と小さな声が上がったのは、一体誰の物だっただろうか。
「西南にあるとある浮空島には、鳥の楽園と呼ばれる島があるそうね」
「……地図を返してくれるかな」
怒る訳でもなく、ただ静かに告げて伸ばされた手から、エスタは距離を取った。
「話してくれる気がないなら返さないわ。その島が、帝国によって危険に晒される可能性があってもいいの?」
正当性はこちらにある。そんな勢いに胸を張ったエスタに、アーレンデュラは肩を竦めていた。
「やれやれ……困ったお嬢さんだ。島の一つや二つ危険に晒されたとして、それがなんだと言うんだい? 私には、まるで関係の無い事だよ」
「沢山の人の命が奪われる事になるわ」
「知った事ではないね。仮に逃げ出したい人がそれで増えるのであれば、私としては有りがたい話さ」
「あなたの情報源が、ここに訪れる鳥たちの噂話からもたらされているって、前に言っていたでしょう? なら、その訪れる鳥が減っては、あなたが困るんじゃない?」
「そんな話はしたかな? 心当たりないな」
どこかとぼけた返答に、エスタは仕方がないと手に力を込めた。
「この紙邪魔ね。ここの東屋もとっても汚いわ。破り捨ててお掃除してもいいかしら、院長?」
もう足元の姿は見えないものとして、紙を両手にした。嘘ではないと紙の端をくしゃりと握り、いつでも破ける様に示したエスタは、隣を見上げて尋ねた。
「ちょっと! 地図は世情の詰まった力だよ?! 情報の塊だよ?!」
「ああ、掃除してくれるなら構わないよ。そういえばここの所放置し過ぎていたからね。鳥臭くって敵わんよ」
「院長?!」
悲壮感たっぷりに上がった声は、無視される。やめて、許可しないでと、小汚い白衣は老婆の足元にいやいやと首を振りながらすり寄った。
エスタに応えたフォルビアは、白い眼を向けて足元を見た。
「お前さん、その恰好の時は本当にろくでもないからね。たまには身なりを整えたらどうだい」
そしたら地図に手を出さないように助言してやるよ、と。半ば脅しのような言葉に、小汚い長髪はがくりと項垂れ屈服した。
「酷い……ああ、何という……」
「その鬱陶しい髪もついでに毟ろうかね」
「毟る?!」
ぐしゃっと頭を抱えた姿は、驚きのあまりに尻餅をついていた。
「アレン、時間の無駄だ。さっさとしなさい」
「ええ、ええ! 解りましたよこの横暴ばばあ! ついでに凶悪少女!」
その地図大事に持っていてよね?! と。慌てて立ち上がりどこかに駆けて行った姿は、木々の向こうにあっという間に見えなくなった。
「院長、ありがとう。話すらさせて貰えないかと思ったわ」
ほっと胸をなで下ろしたエスタは、改めてフォルビアに心から告げた。
「ああ。まあ予測はついていたからね。あんたの脅しが効果的だった、それだけさ」
「まあ……でも、たかが地図でしょう?」
「はは、あんたにしてみればね。重要性は、そっちの空賊の坊ちゃんの方がよく知っているだろう?」
フォルビアに視線を向けられて、リシュリオは肩を軽く竦めただけに留めた。
俺もそれされたら泣くな、と。ぽそりと呟いた言葉はセリオスだけが聞いていた。
「それにしても……驚いたわ。アーレンデュラってあんなだったかしら」
「あれは収集癖を拗らせてるろくでなしの方さ。お前が会ったのは、身なりを整えて仕事する時のアレンさ」
「……着替えでそんな変わる?」
「あれに関しては全く変わるね」
そう、と。引きつった顔で頷いたエスタに、老婆もただ苦笑していた。
「さて、こんな小汚いところで待つもんじゃないね。温室の外れに休息所があるからそちらで待とうかね」
フォルビアの提案に、エスタだけでなくセリオスもまた即座に頷いた。