25. 水都
広大な大地を大河が貫く。その側に、小国アレイットはある。
国の中枢と市場の二つの区域を持つその国には、船と飛空挺の行き来が盛んだ。浮空島群のマレスティナ程ではないにしても、常にエンジンの音が空に響いている。
「はい、空賊シュテルさんですね。入国理由をお願いします」
制服に身を包んだ集翼所の入国管理人は、手元のボードを見る事無く書き込みながら笑みを向けた。手元のリストをいくつか確認するのも忘れない。
リシュリオも同じように友好的に笑った。
「今回は客人一人とその従者一人の輸送とその護衛に来ました。それから市場に出荷希望です」
「畏まりました。出荷希望の方は検疫が入りますので、出荷物は後程あちらに荷卸ししてください。その後に市場へのご案内があります」
入国管理人は先にある巨大な倉庫を指示した後に、反対側にある入場の為の小さな門を示した。
「入国される方についてはあちらからの入場お願いいたします。なお今回シュテルさんが護衛されるという事ですが、空賊の方の中枢へのご入場はご許可致しかねますのでご承知おき下さい」
「存じ上げております。外街への買い付けは可能ですか?」
「そちらは問題ありません。中枢への入場する際にまた別途手続きが必要となりますので、客人の方にはご入場の際は身分証の準備をしていただくようにお伝えください」
「解りました」
「飛空挺を出す際には必ず一度、集翼所の管理の者にお声かけください。それでは、良い時間をお過ごしください。ようこそ、アレイットへ!」
「ありがとうございます」
差し出された手続きに必要な書類の写しを受け取ったリシュリオは、彼が立ち去るのを待ってから肩を伸ばした。
「あー、やっと終わった。これさえなけりゃ良いとこなんだけどなあ」
「お疲れリオ」
荷台を押したルーザは苦笑しながらそれを下した。
「はいよ。じゃあルーザ、後頼むわ」
「了解。そっちもね」
その後ろから、エスタもどこかそわそわとした様子で街を見た。彼女の服装はいつもと変わらず、動きやすさを重視した装いだ。キャスケットにしっかりと髪を隠した姿は少年に見間違う。
「セリオス、いい加減諦めてよ」
「……こんなの聞いてないんだけど」
一方、無理やり手を引かれてげんなりと天を仰いだセリオスは、つばの広い帽子が落ちそうになって、深く溜め息を零した。足元まで広がる空色のワンピースの裾を、邪魔そうに蹴りながら、勘弁してよと項垂れる。
「目的地に入った時に脱いでいいって言ってるでしょ。それまで辛抱してよ」
「絶対無駄な悪あがきだって」
帽子の影でいくら眉を顰めても顔を顰めても、周りにはそれが全く見えない。セリオスを見上げたエスタだけが、気にすることじゃないと首を振った。
「そんな事無いわ。人目の多いところだけでも誤魔化したいじゃない。大丈夫、似合ってるわよ」
「折角だから、全く嬉しくない褒め言葉をありがとう」
セリオスはもう一つ深く溜め息を零すと、緩やかに首を振った。
「もういいよ、早く行こう」
「セリ、あんま気にすんなって」
同じように隣で苦笑したリシュリオを、セリオスは帽子の鍔からじとりと睨み上げる。
「僕としては、なんでこんな女物があるのか聞きたいんだけど」
「ははっ、一つあると役に立つんだよ……って言いたいところだけど、それはルーザの私物だから汚すなよ?」
からからと笑ったリシュリオに言われて、思わず目を見開く。既に立ち去った、遠くの上機嫌そうな背中を見てしまっていた。
どういう事だと詳しく聞きたい反面、聞くのが怖いような気もする。セリオスが恐る恐るエスタの表情を伺うと、彼女もまた、どこか複雑そうな表情をしていた。
「あいつ、本当に何でも出来るからすごいよなあ」
ただ一人、リシュリオだけは自慢そうにしていたので、きっと必要な場面があったのだろうとセリオスは思う事にした。『何でも出来る』と『女装』の言葉の組み合わせに、戦くことしか出来ない。
「それよりイム、案内頼むよ」
「え、ええ。こっちよ」
流石のエスタも動揺していた。
街の中に踏み入ると、真っ先に橋があった。恐らく川から水を引いているのだろう。街の中を網目のように張り巡らされた水路と並行して、通りは形作られる。
水路もまた、交通網なのだろう。小舟が三艘横に並んでも余裕ですれ違えるそこには、ちゃぷりと水音を立てながら櫂を漕ぐ小舟で賑わっている。
その両脇には、隣との隙間が出来ない様に建てられた、レンガの建物に商店が所狭しと並んでいる。
エスタは迷いなく、商店街とも言える通りを下って行く。やがて、水路から離れる様に通りを曲がった。
建物の切れたその先に、大きな水路はない。あるのはどこの街にもある、商店街のような通りだけだ。ただどこまでも、蓋のされた側溝が道を形作っていて、水と離れることはないのだろう。
物流豊かなその商店の数々は、新鮮な肉や魚だけではない。いくつも密接した食堂は互いに腕を競い合っているかのように、美味しそうな匂いにあふれていた。
紡績も盛んのようだ。反物屋が多く軒を連ねている区画では、熱心な商人達が、生地のこだわりを語っていた。
「イムはこの国、良く知ってるの?」
邪魔そうにスカートの裾を蹴りながら歩くセリオスは、帽子の影から物珍しそうにあたりを伺って尋ねた。石畳の街並みに、足音はよく弾む。
何度お嬢さんと呼び止められたかは最早解らない。ただ、帽子に隠した姿がお嬢さんにしか見えていない自覚のないセリオスは、その全ての声に気が付かずにいた。
案内する形で少し前を歩いていたエスタは、特に振り返る事はしなかった。ただ、その声には苦笑が滲んでいた。
「別に、多少来たことがあった、ってだけよ」
「ふうん? 帝国からこんなところまで?」
「そう。息抜きに一日だけ特別にって。その時に、彼女と知り合ったの」
その時を思い出して懐かしんだ様に、エスタはくすりと笑った。
「彼女?」
「そう、逃がし屋の。もしかしたら男性なのかもしれないけど」
本当のところは解らないわ。そうゆるく首を振ったエスタにとって、どちらが真実なのか解らなくても構わないのだろう。
やがて通りの集約する広場に出ると、それまでせせこましく感じた街の空が、途端に開けた。人通りが往来と比べると、幾分か減った様に感じるせいもあるかもしれない。
広場には、この街の象徴のように、噴水があった。丁寧な造りの噴水は、水を現している流れるような模様が彫り込まれている。
広場の一角を占領するように、見上げるほどの巨大な建物が聳える。一際目を引くその建物のせいだろうか。余計に空が高く感じた。
巨大な車輪窓にはめ込まれたステンドグラスと石細工のアーチが緻密に並んでいる様が、一際目を引いて来る。
異国に来たのだと言う実感が、なんだか急に増した気がした。
エスタはその建物を目指していた。
「これって……」
ぽろりと出たセリオスの言葉を、エスタは丁寧に拾う。
「この地が誇る図書館であり、修道院よ」
「修道院?」
「ええ。水陸各地の英知が集まる場所にして、命の源である水を信仰してる場所」
「信仰……か」
自分にはよく解らない感覚だと、セリオスは首を傾げる。エスタもそれについて、特に掘り下げて議論しようとは思わないようだ。
リシュリオに至っては修道院よりも、広場に出ている露店の方が気になっている始末だった。セリオスが振り返って見上げたのを帽子の角度で気が付くと、「信仰云々は俺に聞くなよ?」 と苦笑される。
「信仰してるとしていたら、俺は空だな。自由で気ままで、時々荒れ狂う空。祈る機会がないから、信仰って言うのかは知らないけど」
「リシュリオはすごいそんな感じする」
多分それは、こうして信仰が根付いている地の者にとってはとても失礼なのではないか。よく解らない感覚だとしても、人知れずそう思った。
だからこそ、外に門が開けられている事が不思議だった。
「そんな大事そうな施設に、外の人も入れるの?」
「ええ。でも解放しているのは、わずかな範囲よ。本当に一部分の図書館と、外向けの身廊と、緑が綺麗な中庭だけ」
「そうなんだ?」
「まあ、敷地内に中枢への関所も兼ねている場所があるから、全く隔絶されているって訳じゃないと思うわ。この地の人達も、皆が皆、信仰しているっていうよりも、昔から密接にある習慣の一つ、みたいな物らしいから。外の人にも公共の施設の一つとして、開放してるらしいわ」
「ふうん」
解ったような解らないような。曖昧に頷いたセリオスに、エスタは肩を竦めた。要はマナーに気を付ければ、特に気にしなくていい場所だとエスタは雑に告げる。
何重ものアーチが来た人を迎える、張り出し玄関へと向かって行った。
「え、僕そんな街の人が大事そうにしてるところに、この格好で入るの?」
思わず足を止めたセリオスの訴えは、二人に黙殺された。セリオスが見上げた空は、皮肉なくらいにこれでもかと言う程晴れ渡って、きらきらしていた。
新しい街に浮ついていた気持ちが、少しだけ下がったのは余談だ。
建物の影に入ると、随分暗くなったように感じた。それ以上に、身廊に足を踏み入れた途端に、ふっと視界が暗くなった。
蝋燭と車輪窓から入る色のついた光、そして高い天井にぽつぽつとある明り取りの窓から入る光量では、この広い身廊の内部を照らし出すには全く足りていない。目が慣れるまで、随分と時間がかかった気がした。
「すみません」
エスタは真っ先に動いた。来訪者を出迎えるように壁際にいた姿を見つけたのだ。
その相手は、襟元からつま先まである修道衣のローブに身を包み、表情を隠すベールを被っている。間違いなく修道士だろう。
セリオスがその修道士に気が付いたのは、漸く目が慣れてからの事だった。
濃紺のローブは、ただでさえ見えにくい。微動だにしないその姿は、本当に人なのだろうかと、些か疑いたくなるほどだ。
「私はイムと申します。フォルビア修道院長にお目通し願います」
エスタが告げた名前にぴくりと反応した修道士が、表情の全く見えないベールの向こうから初めてこちらを捉えたのが解った。
「ご用件は」
微かに告げられた声の主は、女の子だろうか。
「アーレンデュラの件です」
「……後ろの方々は、お連れ様ですか」
「ええ。出来れば同席して欲しいけれど、もし居ない方がいいなら、彼らはここで待たさせるわ」
「確認してまいりますので、お待ちください」
小さな声はわずかに膝を折って礼を取ると、滑るように去っていく。石畳にも足音がほとんど響かないので、セリオスだけが思わずその足元を伺ってしまった。
「布か何か貼っている靴だろうな」
リシュリオの言葉に、セリオスは見上げた。
「何で?」
「外の客と足音を分けるためじゃないか? 客なのか修道士なのか」
もしくは刺客か。一際囁いたリシュリオに、セリオスは目を見張った。
表情が見えなくても、セリオスが驚いたのが解ったのだろう。リシュリオは唇の端だけで笑った。
「別段珍しい事じゃない。これだけ立派な建物を構えられるような、古くからある団体だ。信仰の場所以外にも、色々用途はあるんだろうな」
「そうなんだ」
辺りを見回してみると、建物の重々しい雰囲気が威圧してくるような気がした。だからこそ余計に、そうかもしれないと納得してしまう。
「お待たせいたしました。皆さま、こちらへどうぞ」
「お願いします」
そう経たずに戻って来た修道士は、端的に告げると一行を連れ歩く。設置されたカンテラに照らされた廊下を抜け、緩やかな螺旋階段を登った。
なんだか見知らぬ世界に連れていかれているようだ。そんな感覚にセリオスが不安に感じた頃になって、装飾のされたガラス張りの窓が並ぶ明るい廊下に出た。
また目が眩んだ。絶対目を潰しにかかってると、セリオスはそんな事をふと思う。
どうぞと促された扉を、エスタがとっとと叩いた。返事はすぐにある。
「お入り」
「失礼します」
扉を開くと、古い紙と甘めの香の匂いが、微かにふわりと広がった。そこは書斎のようで、奥まった場所には古めかしい木製のデスクがあり、その向こうにあった姿が出迎えた。
「ああ、来たね。じゃじゃ馬娘」
修道士とよく似た修道衣を纏う老婆は、にやりと笑う。大きな違いは、ベールを身に着けていないことだろうか。
多く皺を刻んではいるものの、背筋も高く、矍鑠とした姿に老いた様子は感じさせない。ベールで表情を隠していたら、もしかしたら年齢すらも解らなかったかもしれない。
「フォルビア修道院長、ご無沙汰してます」
エスタは率先して膝を折って礼を取った。そんな彼女に横柄に頷いて見せ、老婆は後続を見やって豪快に笑った。
「はっは! またけったいなツレ達だね? 空賊の坊ちゃんに、一体どこのご令嬢を攫って来たんだい?」
くくくと喉を鳴らして笑う姿に、エスタも苦笑する。
まさか第一声で、そんな事を言われるとは思ってもいなくて、絶句していたセリオスを隠すように、エスタはそっと前に立った。
「彼は……ご令嬢じゃないわ。私が無理言って、この恰好をしてもらっただけよ。人目を誤魔化す以外に、他意はないわ」
「そーかい。着替え持ってんなら隣でも使いな。話はそれからだ」
老婆は顎をしゃくって入り口に控えていた修道士に指示を出すと、修道士はセリオスの元にやって来た。こちらにどうぞと促されて、セリオスも苦い表情のまま「どうも」 とぼそぼそ呟いてついて行くしかない。
「まずは茶の準備でもしようかね。あたしが手ずから入れてやるから、そこに座ってな」
「ご厚意と歓迎、感謝するわ。フォルビア修道院長」
「どうせまーた面倒抱えて来たんだろ? 聞いてやるから、精々哀れっぽく聞こえる言葉でも考えな」
「相変わらず、元気に口の悪いくそばばあみたいで安心したわ」
「減らず口はどっちかね。老体を労わる気があるなら手伝いな」
「最初からそう言って欲しいわ」
仕方なさそうに肩を竦めたエスタは、リシュリオに目配せした。ここで待っているように伝えて、彼女の元に向かう。そこに、リシュリオが口を挟む余地はない。
二人の言い合いは、セリオスが戻って来るまで続いていたようだ。




