閑話 欺瞞
昔の話
胸くそ注意です
――――これは数年前の話である。
今日のマレスティナの空は一段と雲が低い。行方を隠すには丁度いいな、と、どこか現実逃避めいて考えながら、男は目の前の怯えた様子の破落戸達に目をくれた。さてどう転がしたものかと思案する背中に、恐る恐るといった様子で声がかけられた。
「テオドルーザさん、すみません」
そんな声に振り返ると、わずかに手を震わせながら物陰から駆け寄ってきた。汚れてしまうからとテオドルーザが手で制すと、少女はどこか落ち着かない様子だった。それもまあ仕方がないかと、意識的に肩の力を抜いた。
「いいよ、別に君一人死んだことにするのは簡単さ。聞いてるよ。故郷に、帰りたいんだろう?」
目に涙を浮かべた少女は、こくりとはっきり頷いた。
「マダム達には感謝しています。でも、……村に残してしまった幼い弟達の事が、今でも心配なんです」
「いずれ帰れるかもしれなくても、か」
「……はい。父さんが……手を出してないか、ずっとずっと気になってて。息を抜く事も出来なくて。私を売ったときのお金では、もう底をついても可笑しくないんです。今回の事でかかったお金は、いずれ必ず払います。なので……!」
涙を浮かべ、今にも泣きそうな姿にテオドルーザは苦笑した。
「大丈夫。いらないよ。君から金銭を受け取るつもりはない。貰ったところで困るし。あー……ただちょっと、君のその髪をもらっていい?」
「そんなもので済むならいくらでも!」
「悪いね。君が生きているって公になると、流石に脱走扱いになるからさ。追っ手までは面倒見てあげられないから、せめて誤魔化すためにもね」
見つかれば、彼女は一体どうなるのか。言うまでもなく身震いした彼女は、決意を固めたように深く息を吐いていた。
「大丈夫です。必ず、私は私を殺して、弟達の元に行きます」
「解った」
彼女の決意した目を覗き込み、テオドルーザもはっきりと頷いた。
やがて、後ろに控えていた男たちを振り返る。
「そういう訳だ。あんた達の仕事は、彼女を地上に安全に送り届ける事だ」
彼女と話していた時と、声色がまるで違う。硬質で、聞くものが思わず身震いしたくなるような冷たさがあった。
だが、言われた男はそれに気が付かない。にやにやと笑い手もみして、先ほど暴力に蹂躙されたことも忘れたかのように、テオドルーザにお伺い立てるように下手に近づいた。
「そうは言っても旦那、少しくらい見返りがあってもいいだろう? 例えばほら、ちょっと味見する権利とか――――あぎゃあっ!」
だがそれは、間違いなく悪手でしかなかった。
男の叫びに、テオドルーザは冷ややかに笑った。
「ああ、悪いね。本当は僕に仕事をさせた駄賃に君の目玉でも貰うつもりだったけど。君が動くから耳が削げてしまったね? これは大変だ」
ぴっと振るい、いつの間にか握っていたナイフの返り血を軽く払う。それだけで、簡単に何かが地に落ちた。男が蹲るより先に、テオドルーザは男の喉笛を抑え込んでいた。
「ねえ、聞くけど。見返りが、なんだって? 五体満足で地上に帰りたくはないかい? 次はその鼻がいいかな? 不細工が見れたものでなくなってしまうね。君たちはただ、彼女を人目につかないように、気をつけて地上に下ろしてくれればいい。それだけ。なんて事もないだろう?」
返り血を浴びようとも、テオドルーザは気にした様子がまるでなかった。
「君たちは僕と敵対した事実を無かった事に出来るし、またこの地で、交易を結び直す事だって出来る。それ以上に、一体何を望むって?」
安い買い物だろう? くすくすと嗤ったテオドルーザの目は、まるで笑っていなかった。頷かなければ、次こそは後悔しても遅い事は目に見えている。
「あまり馬鹿が考えない方が身のためだよ? 君達の生命線を絶つ事なんて簡単だ。それとも今ここで、君等の股にぶら下がってるものを削ぎ落とそうか。それは君らも困るだろう? 本気で言ってないと思うのかい? そこまで嘘だと思うなら、今から始めようか」
物陰からこそりとこちらを伺っていた男の仲間達に、テオドルーザはにこりと笑いかけた。
「ねえ、君達も。命が惜しいと言うならば、互いに互いをきちんと見張りなよ。子どものお使いより簡単だろ? バカな真似をするならば、死んだ方がマシだって目に合わせてあげるよ。地の果てまで追いかけても、必ず」
こんな風にね? 微かに小首を傾げた姿は、ぐちりと落ちた肉片を踏み潰していた。
それはまるで宣戦布告で、守らなければ後悔させるという意思表示の様でもあった。ヒッと一体何人が身を縮めて息を呑んだだろうか。
解ったかと問いかけると、目の前の男は耳があった場所を懸命に押さえながら顔を青くして何度も頷いた。そんな様子に思わずハッと短く吐息をつくと、背中の少女に声をかけた。
「……それじゃ、気をつけて」
流石に顔を向けると怖がられるだろうと思い、背中越しに伝えた。だが、ジャケットの裾を引かれて、顔を向けない訳にもいかない。
「はい。……その、こんな嫌な役割をさせて、ごめんなさい」
「ん?」
「だってきっと、この先ずっとマダム達に何か言われるかもしれないのに……テオドルーザさんを頼る事しか出来なくて……!」
「ああ」
何かと思えばと、ふと笑った。
「別に全く気にしてないよ。その程度」
「でも」
「何人居なかったことにしようとも、今更なのは事実だからね。君もその一人に過ぎないよ」
「そう、ですか」
「そうだよ」
きっぱりと言うと、少女にはどこか残念そうにされた。
「それに、僕が手を貸せるのはここまでに過ぎない。あとは、自分の力で切り抜けるんだよ」
「はい」 彼女ははっきりと頷くと、今度こそ深く頭を下げて礼を取った。「ありがとうございます。お世話になりました」
「お礼はいらないよ。僕は君を辱めて殺した男になるからね」
「マダムたちや、世間がそのように言ったとしても、それでも、私は貴方に感謝したいです。テオドルーザさん」
苦笑が漏れたのは仕方ない。一時の、気の迷いから彼女が感謝を感じているのだと、嫌でも知っていたせいだ。
「早く行きな」
逃げ出した男たちを追いかけて走り去る背中を、テオドルーザは見送らなかった。雑に刻んでしまった髪は、先程の騒ぎの為に血に汚れてしまっていた。
まあいいかと、踏みつぶした耳の残骸を拾って、テオドルーザは大通りへとそのまま向かった。
血みどろの姿で大通りに出てきた彼を見かけた人々は、路地で起きた男たちの騒ぐ声と合わせて憶測が飛び交う。
どうせ騒がれる為にしてるに過ぎないのだから。それが少々周りの目に余っていたとしても、テオドルーザの知ったことではなかった。
* * *
「ルーザ、お前またやっただろ」
「何が?」
血相を変えて部屋の扉を開けたリシュリオに、ルーザは首を傾げた。
適当にマダムに報告を終えて血糊を落とし、自室でコーヒーを飲みながらくつろいでいたところだったので、「君も飲むか」 と尋ねたが、「いらねぇ」 と即座に唸られる。
珍しく入室の許可を求めることなくずかずかと肩を怒らせながら部屋に押し入ってきたかと思うと、険しい表情のまま対面のリシュリオは吐き捨てた。
「マダムのとこの女の子を見殺しにしたって?」
「ああ、その事」
早速噂になってるかと、内心で事の成り行きが思惑通りに運んでいる事に安心していたが、目の前の真剣な表情には少しばかり申し訳なく思った。
「なんか言われた? ごめんごめん。複数に囲まれて庇いきれなかったんだ」
「お前、俺にも嘘つくつもりか?」
「え?」 と声を漏らした時には、ふっと目の前に影が落ちていた。その事に驚いて見上げた途端に、がつっと衝撃を伴って頬を殴られて驚いた。
がしゃ、と。コーヒーがどこかに飛んだのが、他人事のようだった。
「っ、リオ……?」
殴られた痛みもなかなかだったが、まさか殴られると思っていなくてその表情をぽかんと見返した。そこには一発殴ったくらいでは気がすまないと言わんばかりの表情があった。
「お前頼まれたからって、任期残ってる子を逃がしたらしいな?」
「…………誰に聞いたの、それ」
「お前の話に比べたら誰だっていいだろ。お前が悪名を使って周りを動かすのも、島のルールを躱すのも好きにすればいい。けど、俺には嘘を付くな」
「嘘だなんて。君が聞いた噂に間違いないんだって――――」
「うるせぇ!」
御託は聞きたくないと言わんばかりに、リシュリオはまくしたてた。
「お前まだ、血族がそうだったから、身に覚えのない謂れは仕方ないって思ってるのかもしれねぇけどな?! なら俺は、犯罪者のクソを親にもつから、俺も犯罪者だって事でいいんだな」
「リオ、それは違――――」
「だったら! お前も違う!」
言い切る前に怒鳴られて、言いかけた言葉を失った。
「次やったら手足折ってはっ倒す」
「リオ」
話をと思い身体を起こしたらドンっと胸を殴られて、それ以上は話にならなかった。ふらりと背を向けた姿はさっさと部屋を出てってしまい、とりつく島もなかったせいもある。
どこか遠くで乱雑に閉められた扉の音が聞こえて、ようやくああと溜め息をこぼした。殴られた頬が今更のようにジンジンと熱をもって痛む。
そうだコーヒーを片付けなくては。そんな現実逃避にソファから身体を起こして飛んだコップを探すと、壁紙と短毛の絨毯が大惨事だった。
「あー……」
逡巡も束の間、買い換えるかと開き直り、しゃがんで拾ったコップが割れていないことを良しとした。
「違う、か」
思わずこぼれていた言葉に、自分が一番驚いていた。
部屋を片付けてから出ていった姿を探すと、明かりすらつけていない操舵室の座席を倒してふんぞり返っている様に苦笑がこぼれた。窓の外はすっかり暗く、今夜飛ぶ飛行艇からすると見通しが本当に悪いだろう。
「リオ」
「……すげームカつく」
声を掛けると、どこかふてくされた様子の声色に思わず笑ってしまった。
「ごめん。君を騙す意図はなかったんだ」
「お前のそれもムカつくけど。そうさせないと誰かの意識一つとしてまとめられない自分に一番ムカつく」
「レメディスたちに街を任されてから、君はよくやってると思うよ」
「……うっせーよ」
その名前をわざわざ出すなとぼやいたかと思うと、はあと深く溜め息が聞こえた。やがて、リクライニングしていた座席の位置を元に戻していた。
座れと隣を促されて、ルーザも大人しくそれに従った。
沈黙は、簡単に訪れた。
「殴って悪かったな」
沈黙もまた、簡単に破られた。
なんと切り出そうかと考えあぐねていたルーザは、一瞬驚きに言葉を詰まらせてから、ううんと静かに返した。
「こちらこそごめん、リオ。つつがなく終えられたから、まさか誰かが真意に気がついて彼女を連れ戻しているのかと思って、とっさに隠そうとしてしまったんだ」
「……ああ、わかってるよ。そんなことだろうなって想像くらいついてる。ただ、その前にちょっとあって、頭に血が登ってた」
「マダムになんか言われてたの?」
「それは大して気にしてねぇよ。どっちかって言うと、マニエストに煽られた」
「ああ……なるほどね」
好々爺を装って誰よりも腹の黒いあの男なら、自分の謀略なんてまったく意に介さないであろうことは簡単に想像がついた。
「でも。お前がお前を害して平然としているのには、もっとムカついた」
「それは……ごめん」
そんなやり方しか知らなくて。なんて言おうものなら再び殴られそうな予感しかなくて、ただ謝罪に留めた。
「次は相談しろ。俺も力になるから」
「ありがと。でもさ。本当に、僕は気にしていないんだ。君がこうして代わりに怒ってくれるから」
「殴られたいって?」
「わかったわかった。ちゃんと反省するから勘弁してよ」
「……はあ。そうしてくれ」