11. 白姫
扉を開けると同時に聞こえたのは、さわさわと水の流れる音だった。次に目に跳び込んで来たのは、自然に出来た思われると空洞だ。
ライトの明かりに慣れた目に、そこは随分と明るい。どこまでも高い天井を見上げると、ぽっかりと岩肌が割れて空が見えた。黒々とそびえる壁の向こうに僅かに星も見える空は、天窓のようにも見える。
かつては人の憩いの場でもあったのだろうか。キャンプの名残や何かに使われていた機械などが散見した。それだけを見ると、ユーテスクがいかに栄えていた浮空島だったかが伺えるかのようだ。それらも、人の出入りがなくなったことで自然と自生したらしい植物に、随分と埋もれてしまっている。
不意にどこからともなく羽ばたきが聞こえた。
「ファーロ」
エスタが手を広げて腕を差し出すと、抱えるほどの大きな鳥が降り立った。
本来の羽毛の色は恐らく濃い茶色だろうか。鋭い嘴や力強い脚は、食物連鎖の上位に位置しているに違いない。
恐らく夜目も利いているのだろう。大きな目が、じっと用心深く初対面のセリオスを伺ってくる。
「待たせてごめんね。守っててくれてありがとう」
エスタがその羽毛に頬を寄せると、ファーロと呼ばれた大きな鳥もそちらに首を向けていた。
賢い鳥なのだろう。エスタにきちんと応えている様にセリオスは舌を巻く。
再会を喜んでいたのも束の間、エスタはその足に括りつけていた、可能な限り小さく丸められた紙を外していた。大人しくそれを待っていたファーロは、身軽になるとまた天井の割れ目へと飛んでいく。
エスタはそれを暫し見送ってから、漸くほっと息をついた。
「それが君の用事?」
「そう」
「中身の確認しなくていいの?」
「平気よ。ファーロがここにいるって事が、無事に達成されたってことだもの。……それよりも、どこから話そうかしら」
振り返った表情は、一つ目的を達成した事で肩の力も抜けているようだった。ここなら誰かに聞かれる心配もないからと、エスタは口火を切った。
「私が帝国から逃げるのは、貴方もリーダーさんから聞いたでしょう? 私がアジェイから、帝国の機密に関わる記憶を奪ったからって」
当人から聞かされても、セリオスにはぴんと来なかった。
「確かにそう言ってたけど……正直言うと、記憶を奪うなんて芸当が実際出来るとは思えないよ。黒姫の……その、アジェイが何かそういう技術すら思いついてしまうって言うなら……流石に解らないけど」
「ええ。お蔭さまで、そんな技術があるって恐れてもらう事が出来てるわ」
セリオスの返答に、エスタはどこか安心した様子で頷いた。
「出来ている? 故意にそう思わせてるって事?」
「……ええ。正確に言うと、アジェイが忘れてしまった記憶の内の、機密を記録したものを私が握っている。それを利用して、私がアジェイの記憶を盗んだ事にしたの」
「忘れてしまった? 待って、よく解らない。どういう事?」
首を傾げたセリオスは、さらに頭を抱えた。
エスタはそんなセリオスから、そっと目を反らして物憂いげに伏せる。
「アジェイは……自分の生み出してしまった技術が本来の目的とは違う、軍事目的に利用されようとしているのを知ってしまって、一度命を断とうとしたの」
「……え……それって、自殺?」
「そう、自殺。飛び降りた先と打ち所が良くて、たまたま命は助かったけれども……代わりに、私の事も、彼女の生み出した技術の何もかも全て、忘れ去っていたわ」
どこか遠くに向けた目は、恐らくかつての景色を見ているのだろう。溜め息と共に肩を落としたエスタは、視線を遠くに向けたまま、強く拳を握っていた。
「でも問題の技術の一端は、技術者たちに渡ってしまってる後だったの。だから私は、有りもしない薬を使ってアジェイの記憶を奪ったとして、残っている資料を燃やし、研究施設の設備を出来る限り壊して逃げて来た」
技術の盗人として、帝国の裏切り者として、自分は追われているのだ、と。皮肉っぽく笑ったエスタは、これを聞いて私が他人を貫こうとした理由が解るでしょうと鼻白んだ。
セリオスは特にそこに触れようとはしなかった。事の大きさの規模が、今ひとつわからなかったせいもある。
「ええと、でもさ、わざわざ盗人の汚名を被る必要あった? アジェイは結局……まだ帝国にいるって事だろ?」
「居ないわ」
「え?」
「帝国になんて、置いておける筈がないもの。記憶を無理矢理取り戻させようと、何をされたものか解ったもんじゃないもの」
言われてみればその通りだ。考えるまでもない事に、セリオスは神妙に頷いた。
「アジェイの居場所は、誰にも教えていないわ。記憶が戻らないなら、そのままでいた方が幸せな事ってあるはずだもの」
「君が傍に居たら、いずれ思い出してくれるんじゃないの? 離れ離れになることなかったと思うけど」
「隠れた先で今のアジェイが取り戻したいって思ったら、多分自分で取り戻すはずよ。そうでない限り、私はアジェイに近づくつもりはないし、私はどこまでも逃げ続ける」
無理に思い出してなんて欲しくないの、絶対。そうはっきりと告げた横顔は、全てを背負っているような決意に満ちていた。
きっとエスタは、誰かを利用して積もる罪悪感を見て見ぬふりを続けたとしても、黒姫の為にと逃げ続ける腹積もりなのだろう。
泥船を漕ぎ続けるような話の中に、セリオスはふと首を傾げた。
「あれ? でもさ、それって要は、技術者たちの記憶までどうこうは出来なかったって事でしょ? 彼らが覚えている部分を持ち寄ってつなぎ合わせたら、いつかは君が秘匿したものは完成してしまうんじゃないかな」
セリオスの指摘にエスタは表情を苦くした。
「ええ、まあ、有りえなくないわ。だから、アズネロ親方には帝国に戻って欲しくなかったの。彼なら特に、穴の開いた情報でも設計図や理論に気が付いてしまう恐れがあったから」
お蔭で今は、時間が稼げているわ。そう告げたエスタに、セリオスはもう一度首を傾げる。
「でも絶対じゃないだろう? 親方が居なければ進みは遅いのかもしれないけど……。そもそも親方が所属していた場所の技術者たちなら、親方に劣っていても、それ相応に優秀なんでしょう? いつかはそれでも突き止めてしまわない?」
「……それも有りえなくはないわ。でも、そしたら、私は最後の手段を使うだけよ」
きっと無意識だろう。お守りの様に、すがるように、首に巻いたスカーフをぎゅっと強く握っていた。
「帝国に対抗できるだけの国か、機関かどこかに、私の知るアジェイの技術を明け渡して帝国と戦ってもらう。それだけの話よ」
「それは……危険じゃないかい?」
「もちろん、最終手段よ。情報を明け渡した先が、帝国と敵対してくれるとは限らないもの。むしろその情報を手に、帝国と結託されたら最悪だわ。あるいは、帝国を潰した後に暴走されたり……ね。空は……というか、地上も間違いなくただじゃ済まない。下手したら、世界が終わるかもしれない」
出来ればそうなる前に蹴りをつけたいわ。脅しとも、大袈裟とも取れなくない言葉に、セリオスは判断出来かねた。
「……何が起きるかもしれないのか、聞いてもいい?」
「……リシュリオさんが言っていたでしょう? 例えばこの浮空島。いえ、この島だけじゃないわ。空に浮かぶ島々が、地に落とされてしまうかもしれない」
「え?! それってホントだったの? ……そんな事が可能なの?」
「実証まではしてないわ。でも理論上は可能よ。……本当は、ここユーテスクみたいに、人の手によって地力の枯れた島を地上に返して、手入れをするためにってアジェイは考えていたのに。それなのに! 空から島や大陸を落として、攻撃手段にしよう――――なんて、バカな事を考える人が居たせいで、アジェイは死ぬことを選んだのよ」
冗談じゃないわ。吐き捨てるように告げた彼女に、かける言葉を見つけることが出来ずにいた。
「私は絶対に、帝国を許さない。どんなに追われても逃げ切って見せるし、そんな事させない。その為の手段を選ぶつもりはないわ」
「それはつまり……いつか帝国へ復讐したいって言うか……帝国の考え方か方針を潰したいの?」
「潰せるものならそうしたいわ」
「……そっか」
エスタがそれを望んで動くと言うならば、自分もいずれその動きに巻き込まれていく予感がした。
「じゃあ、これは確認なんだけどさ」
「何?」
「エスタはこれからどうしたいの? 一先ず君の追手がかなり目を光らせてる訳だから、それを撒く? それとも復讐の材料を見つける為に、情報収集に動く?」
「それは…………」
「潜伏先の関わった人達に降りかかる害を考えちゃう、君の事だ。帝国を潰すために誰かをぶつけたせいで起きる戦争を、あえては仕掛けたくはないんだろ?」
こちらをまじまじを伺っていた表情は、躊躇いがちに頷いた。セリオスはそれを確認すると、うーんと首を傾げれ腕を組んだ。
「親方の事で助けてくれてるみたいだし、僕は君の味方になりたい。けれど、リシュリオ達について行くって決めたから、助けるにもどうしたものかなって、正直考えあぐねているのが現状なんだよね。エスタは、彼らが信用できない?」
「それは……」
真っ直ぐに伺ったセリオスの視線を避けるように、エスタは目を反らしていた。片方の手でもう一方の肘に触れて、答えを探すように辺りへと目を向けていた。
きっと、本当のところでは信じて頼りたい気持ちはあるのだろう。しかし、過去の経験のように裏切られた時の事を思うと、不安で仕方ないと言わずとも雄弁に語っていた。
「エスタはさ、僕が君に言われて工房を出なかったらどうしてた? って聞いた時さ、心当たりに送るよりもいい人たちに出会ってくれたって言ってたよね」
「……そうだったかしら」
「そうだったよ。君の不安要素を預けた先の評価がいいなら、少しくらい、君自身も歩み寄ってみてもいいんじゃない?」
苦笑してセリオスが告げると、エスタは一瞬驚いたように目を見開いていた。
セリオスの言葉を考えているのか、わずかに右から左へと首を数度揺らして、恐る恐る小さく頷いた。言葉としては理解しても、まだ気持ちが追いついていないと言わんばかりだ。
「まあ、無理には言わないよ。君がどれだけ苦労してきたかなんて僕には解らないし、そのせいで信用したくても出来ないって気持ちも解らなくないから」
「……ええ」
「ただ、いずれでいいんだよ。リシュリオ達が今は信じられないって言うなら、君が頼っても大丈夫って思った僕を信じてよ。……君を泣かせてしまった奴を信じてくれって言うのは、ちょっとずうずうしいかもしれないけれども……少なくとも僕は、一人で何もかも抱えて頑張ろうとしている君を――――エスタ自身を手伝ってあげたいって思ってる」
どうかなと尋ねると、エスタは唇を引き結んで思案していた。やがて「ええ」 と頷くものの、気まずそうに視線を反らしたままだ。
「……その、セリオス」
恐る恐る呼ばれて首を傾げた。
「うん?」
「あの、ありがとう」
「はは、それを言うならこちらこそありがとう。君が僕を巻き込んだから、僕は少し素直になれたよ」
「何よそれ」
「親方も仲間も居ない工房で、一人でいじけてたって話さ」
「ぷっ……ふふふふふふ!」
セリオスがお道化て肩を竦めると、エスタは堪らず吹き出した。
「そしたら私も同じよ。一人で全部成し遂げるつもりだった。毎日不安で、不安で。それが今は……まだ何も成し得てないのに、こんなにも、嬉しい」
柔らかく微笑んだのは、きっと心からの笑みだろう。思わず目を惹かれていたセリオスはハッとすると、慌てて頭の上で腕を組んで他所に目を向けた。
「さあて、リシュリオ達に何て言ったらいいのかなあ……」
「大丈夫、ちゃんと話すわ。他でもない、私自身の事だもの」
でもきっと、無茶したことはとても怒られるから、落ち込んでしまってたら励ましてね。
くすっと悪戯っぽく笑ったエスタに、そちらも自分は巻き込まれるのかと、セリオスは反論する事なく思わず天を仰いだ。
まるでその予感は正しいと言うかのように、飛空挺のエンジン音が、微かに空から聞こえた気がした。