9. 暴挙
わずかな頭痛とそれに伴いぼんやりとする頭で、セリオスは広場から窓の外を眺めていた。
眠れそうならば休んでいていいとリシュリオには言われたものの、どうにも初めての飛行に興奮冷めやらない。
せめて身体だけは休めようと、操舵室を出た広場にある大きなソファに身を沈めていた。しかし目だけはどうしても冴えてしまい、対面の窓で流れる雲をつい目で追ってしまっている。
あとどれほどで目的地に着くのだろうか。先程セリオスの様子を見に来たリシュリオの話では、もう三十分とかからないだろうとの話だった。
別段長い事ぼんやりしていたつもりはなかった。だが当初、風向きが向いていて順調にいけば三時間と聞いていた身としては、到着までの時間の経過に驚いたほどだ。
もしかしたら、ぼんやりしていたつもりで、どこかでうつらうつら微睡んでいたのかもしれない。
目に腕を当てると、熱っぽい目に冷えた腕が心地よい。ほうと無意識に吐息を零していた。
「空に出たんだ」
ぽつと呟いた言葉は何気ないものだったにも関わらず、セリオスの胸にじんわりとした実感を落としていた。
身体はこんなにも重たく感じると言うのに、心が軽い。何だか可笑しく思えて、自然と口元に笑みが浮かぶ。
密かに頑張ろうという気持ちを固めながらじっとしていると、不意に人の気配が広場を通っていた。
何気なく腕をずらして、その姿を確認する。忍ぶような足音を目だけで追うと、真剣な少女の姿がそこにはあった。
恐らくリシュリオ達と話をつけているのだろうが、彼女はさっさと広場を横切るとどこかに向かって行ってしまう。その先は、セリオスが乗り込んだ時に使った二翼飛行機の格納庫しかない筈だ。
そして彼女の横顔に、何か違和感があった。何がと言われても、どことなくと言う感覚に過ぎない。放っておこうにも、気になり過ぎた。
億劫に思いながらソファから身体を起こすと、先に比べて随分身体が軽く感じる。もしくは飲んだ薬が効いているのもしれない。
どちらにしてもセリオスにとって、身体の調子がいい事に越した事はなく、身体に負担をかけないように急ぎ過ぎずに彼女を追った。
ゆっくり梯子を下りていると、格納庫で何やら動きがある様だった。がちゃがちゃと金具をいじっている音がしていて、少なからず彼女が何かをやろうとしているのだと解る。
嫌な予感に梯子を降りつつ、肩越しに振り返る。すると留置金具を外して、丁度二翼飛行機に乗り込んでいる姿があった。
「ちょ……何してんだよ!」
セリオスが思わず声を上げると、ちらとこちらを伺った。煩わしそうにわずかに眉を顰めたのを、セリオスは見逃さなかった。
少女は構わずいくつかレバーを触り、感触を確かめ、操作は慣れたものだと言わんばかりに反重力装置とエンジンを躊躇うことなく起動していた。
ブレーキはされているのだろう。二翼飛行機はその場にて浮かび上がり、小さく唸り始めていた。
セリオスが慌てたのも無理はない。駆けつけて、引き留めるように手をかけた。
「これは僕のだ」
「知ってるわよ。ちょっと借りるだけよ」
そこ退いて、と。無理やりセリオスを押しのけた彼女は留まるつもりはないらしい。配線の交差する壁に目を走らせて、ハッチの開閉装置の元に向かう。
目的のものに手を伸ばす彼女の腕を、セリオスはすかさず掴んだ。
「リシュリオたちは、君の勝手を知っているのか」
「知ってる知ってる。だから貴方が気にする事じゃないわ」
問い詰めれば、彼女にしては珍しく目線が合わなかった。ただ面倒だと表情に書いてあるのが解り、セリオスも眉を吊り上げる。
「こんな事して、許されると思ってる訳?」
「別に許してもらうつもりもないもの。離して」
「っ……!」
彼女としては軽く振り払ったつもりなのだろう。しかし、広場よりも空気の薄さを認識していなかったセリオスは、思っていた以上にその勢いにふらついた。
壁によろめいて縋る形になったセリオスに、少女は気まずそうに一瞥をくれた。それも一瞬の事、すぐに迷いを振り払うように、開閉装置を動かした。
ぶん、と辺りの唸りが強くなる。僅かに風が吹き込んだかと思うと、ハッチが軋むことなくゆっくりと開いていた。ごうごうと、途端に風の音が強い。
少女はそれを確かめると、さっと身を翻して二翼飛行機に乗り込んだ。もたつく事もなく力強くペダルを回し、壁にぶつからないぎりぎり程度に翼を広げている。
やがて、反重力装置の出力が上がる。同時に彼女は、ベルトを巻きつけたまま立ち上がった。体重をかけて、重心を後ろに傾ける。すると、二翼飛行機はゆっくりと後退した。
「悪いけど、ここのハッチは後で閉めといて! これはユーテスクの昔の発着所に隠しておくから、引き取ってってリーダーさんに伝えておいて」
吹き込む風が次第に強くなり、彼女は声を張っていた。その表情をゴーグルに隠し、何を考えているのか伺えない。
呆然としていたセリオスは、言われた言葉が瞬時に理解できなかった。次の時にはふつふつと、怒りのようなものが湧いて来る。
「ふざけんなよ!」
気が付いた時には、駆けていた。動く二翼飛行機の胴に手をかけ、自分でも驚くほど軽やかに跳ぶ。
「っ?!」
気がつくと、彼女の横に無理やり身体をねじ込んでいた。
よもやセリオスがそんな強行にでると思っていなかったのだろう。少女はゴーグルの奥でぎょっと目を見開いていた。
「ちょ、あんた退きなさいよ!」
「そっちこそ! 勝手ばっか言うなよな! 嫌ならさっさと戻しなよ!」
言いながら、戻すまで降りてやらない意思表示で、セリオスもまたベルトを締める。二人分の体重に、二翼飛行機は滑る速度を増していた。
背中から吹き上げる風に恐怖がない訳ではない。しかしそれ以上に、勝手させてたまるかという激情に駆られていた。
その時だ。
きっと開閉装置を動かした事で、中でも異変に気が付いたのだろう。慌てた様子で梯子を飛び降りたと思われる音が、駆動音と風の音に混ざって聞こえた。
「おい! そこで何遊んでんだ!」
「リシュリオ!」
「っ……ああ、もう!」
焦った声は、紛れもなくリシュリオの声だ。セリオスがハッとして、そちらに呼びかけるよりも先に、少女は動いた。
「リーダーさん、送ってくれてありがと! これは少し借りるわ! ユーテスクに置いておくから!」
「おい待――――――」
少女は未だに身体をねじ込んでいたセリオスに構わずに、反重力装置の出力を最大限に上げていた。ぐんと身体を揺すってさらに後ろに加速をつけると、丁度大きく開いたハッチの淵から二翼飛行機は機体を乗り出した。
ふわっ、と。一際、時間が止まったかのように思える。
落ちる二翼飛行機に、セリオスは呼吸も忘れて身を縮めた。リシュリオの驚いた表情が、妙に目に焼き付いた。
二翼飛行機は傾き、背後から落ちる。傾いた時に見えた天井には、薄い雲が浮かび、星の光が弱い気がした。
もしかしたら背中から落ちるのかもしれない。
セリオスがそう覚悟して見を縮め息を詰めている横で、即座に彼女は翼のペダルを回していた。限界まで回して、もう回らないと解るや否や、もうひと押し体重をかけてから固定する。難なくこなせてしまう事こそ、彼女の力強さを示すようだ。
足元に落ちていた補助マスクが浮かんできたので、狭い隣で縮こまっている顔に少女は押しやった。
二翼飛行機は落ちる。飛空挺のハッチから、機体は完全に離れた。
もうこうなれば後戻りは容易くない。頃合いを見計らって、彼女はセリオスに座る場所を開けつつ座り、ギアを二つ一息に上げた。
急速に出力を上げたエンジンが音を上げる。危なっかしく揺れて、風に煽られるままに吹き飛ばされそうになった。
少女が操縦桿を強く倒した途端に意思を持ったかのように、二翼飛行機は右下方へと滑るように加速した。
風を味方につけたのだろう。あっという間に飛行挺との距離が開く。さらに行方を眩ますように、少女は高度を下げつつ左手前方へと進路をずらした。
リシュリオの声が何かを言っていた気もするが、最早風の音しか解らなかった。
「はあ……貴方のせいで計算が狂ったじゃない」
操縦を続けながら風よけを器用に引き上げた少女は、面倒くさそうに呟いた。言われてセリオスもムッとする。
「そっちが勝手するからだろ」
間もなくして、機体は気流に乗って安定した。
改めて呼吸の補助マスクを装着したセリオスは、恨めしそうに横を伺った。風よけをしても、なお微かに吹き込んで来る風に臆する事なく、真っすぐに先を見据える姿がそこにはあった。
「勝手で悪かったわね。必要だったから、って言ってるでしょ」
「必要だったら何してもいいって言うのかよ」
「小さい飛空挺とはいえ、帝国の比較的近くを飛ぶことになるから。目立つかもしれないでしょ」
「そんなの、二翼飛行機でも同じだろ」
「私が単機で目立つ分には迷惑が少なく済むって話よ。少し考えれば解るでしょ」
それより大人しくしていてよね。素気無く言われて、セリオスも黙った。操縦の邪魔をするのは命に関わる。黙る代わりに、セリオスは少女の操縦を眺めていた。
手元でギアを変えつつ、機体を整えている様は手慣れている。本当に翼の乗り手なのだとセリオスは実感した。
現に先程の出発の仕方も、決して正規の飛ばし方だとは言い難い。よくもまあ吹っ飛ばされて墜落しなかったものだと、感心するばかりだ。
「ねえ、聞いてもいい」
「答えるかどうかは選ばせてもらうけど?」
「君のその操縦技術は誰かに習った者なの」
尋ねると、肩を竦められた。
「さあ、覚えてないわ。もしかしたら幼い頃に、誰かに習ったような気もするけれどね。私は覚える必要があったから覚えたに過ぎないわ」
「覚える必要?」
「無駄口を叩かないで。もう見えてくるわ」
余計なことは聞くなと言いたいのだろう。しかし確かに少女が顎で先を示した通りにそれは見えた。
うっすらと雲を纏い、弱い月明かりに照らされた黒々とした島の輪郭が遠くに見えた。まるで、山を地面からスコップか何かで抉り取って、空にそのまま浮かべたかの様だ。
近づくほどに、その島の大きさを知らされる。きっとセリオスが暮らしていた街よりも、その山は大きい。
「あれが……ユーテスク」
「ええ」
浮空島ユーテスク。かつてその鉱山から取れる希少な鉱石を採掘するために、その島に人々は帝国から移り住んでいた。その鉱山も、今となっては夢の跡。元々有限の鉱脈は尽き、今では落盤を待つばかりではなかろうか。
かつてはたくさんの金鉱掘りによって賑わい、振興していた島の集落も、今となっては面影なんてまるでない。打ち捨てられた家々は、吹き荒む風に少しずつ少しずつ風化して、いつかは形跡すらも残らないだろう。
「あの集落跡地の外れに、飛空挺でも着地に不自由しない広場があるから、そこに降りるわ」
着地に備えてと言われれば、セリオスも不満があろうとも従う他に無い。
だが同時にわくわくもしていた。次第に大きくなっていく浮空島ユーテスクに、未知の期待感がないかと言われれば否定できないせいだ。
「降りるわよ」
島の上空に差し掛かると少女はギアを落として、風に二翼飛行機を立てるように速度を落としていった。
もう十分に速度が緩やかになったところで、先程言っていた広場へと差し掛かる。エンジンから伝わる動力を一時的に止め、反重力装置の出力を下げていた。
生憎、集落の面影を見るには、月明かりが弱すぎた。わずかに建物の面影らしきものが遠目に見える中、二人を乗せた二翼飛行機は滑らかに下っていく。
やがてふわりと小さな浮遊感を伝えた。飛び降りても問題ない高さまでに、静かに着地したのだ。飛び立ったときとは対照的な彼女の技術に、セリオスは密かに驚いた。
エンジンを切り、反重力装置を停止させ、セリオスがほっと息をついた。そんなセリオスに、少女は不満そうにじとりとした目を向けていた。
「何か? 私の操縦に不満がありそうね?」
「違うよ。慣れないからちょっと緊張してただけ」
「あっそ」
セリオスの方こそ、不満そうに言われて唇の端を落とした。
少女も不満だと言いたいのだろう。つんとそっぽを向いて、さっさと降りる準備をした。
「それじゃ、さよなら」
「ねえ、君さ」
二翼飛行機から飛び降りた少女の背中に、そういえばとふと思う。声をかけると、怪訝な表情が振り返った。
「何? 早くして欲しいんだけど」
「ここから出る手段の事って、何か考えてある訳」
返答は、即座になかった。「……有るわよ。今は廃れているとはいえ、ここの人達が使ってた移動手段がね」
「あ、そ」
本当にそうかもしれないし、無いのかもしれない。どちらにしても素直でないと感じたセリオスは、同じように二翼飛行機から飛び降りた。
「ちょっと、ついて来る気?」
目くじらを立てられて、セリオスも鼻白んだ。
「は? 僕はこの見知らぬ島を観光するだけだよ。別に君のことを追いかける訳じゃない」
お好きにどうぞどうぞと、嫌味を込めてしれっと告げて、彼女の嫌そうな顔に少し溜飲も下る。
「じゃああんたが先に行きなさいよ。私の後に来ないで」
「え? 僕はもう歩いているよ? 急ぐつもりはないもの」
「減らず口じゃない」
「君ほどじゃないさ」
ほら、僕は歩いてるよ? のろのろとわざとらしく振る舞えば、悔しそうな表情があった。もう知らない、と。肩を怒らせて歩き出した少女の背中を、セリオスも緩やかに追う。
「あんたのやってる事、子供染みてるわ」
セリオスが付いてきてる事は理解しているのだろう。振り返ることなく少女は文句を言う。
「残念、君の方こそムキになるなんて子供じゃないか」
「レディに向けて子供とは失礼が過ぎるわ」
「かぼちゃパンツ履いてるお子ちゃまに、レディとか笑えるね」
「なっ……! サイテー!」
ついに耐えられなくなったのか、少女は振り返った。だが、それに怯むセリオスでもない。
「君がリシュリオの二輪車派手にぶっ飛ばして、勝手に見せたんだろ?」
「開き直ってんじゃないわよ! 信じらんない」
わざと言えば、彼女の頬から耳までが、弱い月明かりでも解るくらいに真っ赤になってる事に気がつく。
「あー……はいはい、悪かったよ。僕が言い過ぎた」
降参だと、視線を流して手をひらりと振ったセリオスを、少女は暫く睨んでいた。羞恥に僅かに目が潤んでいた事は、セリオスも気がつかないフリをした。
「もう知らない……!」
今度こそ肩を怒らせて何処ぞへ向かう彼女の背中を、セリオスは何も言わずについて行った。
朽ちた集落は最早跡形もない。集落跡地と言うよりも、瓦礫の山が残っているようにしか見えない。
土地も痩せているのだろう。昔は作物か何かを育てていたのではなかろうかと思われる場所は、好き勝手に生えた雑草の類いと、野生化した作物の名残が何となく見受けられた。
彼女はそれらに目を向ける事なく、荒れた道を進んでいく。
集落は瓦礫と化し、集落の外れは自然に成ったと思われる林が形成されていても、どこかに続く道は辛うじて残っている。
セリオスが何気なく先を見やると、林冠の切れ目からこの島の象徴とも言える廃鉱山が見てとれた。
やがて彼らの目指す先には、ぽっかりと口を開けた坑道が見えてきた。ただでさえ弱い月明かりでは、坑道の先は伺えない。濃厚な暗闇が広がっており、僅かに抜ける風の唸りが不気味に聞こえた。
あまりの様子に、彼女もただならぬ気配を感じたのだろう。気圧されたかのように、足取りが自然と止まった。
「わ……私はこの先に用があるから、貴方は戻りなさいよ」
その声は明らかに強がっていて、セリオスも呆れた。
「せめて、夜明けを待ったら?」
「冗談じゃないわ。もたもたしてたら見つかるかもしれないもの」
「ふうん」
先を急ぎたいと言うわりに、少女は奥に向かうのを躊躇っていた。
「入らないの?」
「入るわよ! 入るけどっ……!」
素っ気なくセリオスが尋ねると、その先を言わせないでと言わんばかりだった。素直じゃないなと呆れつつ、セリオスはボディバックの中身を漁った。
手持ちライトを見つけて点けた途端、彼女がびくりと肩を跳ねさせていた。明かりの強さを調整すると、柔らかな光が先を照らした。
「僕を一緒に連れてけば、漏れなく明かりもついてくるよ」
どうする? と。尋ねれば悔しそうに唇を歪めた姿が見えてしまった。
「…………一緒に来て」
「いいよ」
やがてぽつと彼女は囁いた。
そっぽを向いても、再び真っ赤になってる首筋が、何よりも彼女の気持ちを表していた。