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芽衣の言葉にハッと我に返る。僕が顔を芽衣の方へ向けると、彼女は片肘をついて顎に手をやり、空いた方の手で自分の目の前に置かれたモンブランの栗を退屈そうにフォークでつついている最中だった。期待していた店がそこまでだったからなのだろうか、先ほどから芽衣はケーキに手を付けることなく、ずっとそうして上に乗った栗で遊んでいる。きっと突然僕に声をかけたのも、特別な意味などなく、単なる退屈しのぎの一環に過ぎなかったのだろう。
店内はムード感を演出しているのかぼんやりと薄暗く、聞いたこともないスローテンポなジャズが流されている。オーナーの拘りなのか、六つあるテーブル席はそれぞれ異なる椅子と机で構成されていて、しかし、そのどれもが画一的にこげ茶色の光沢を発していた。ハンドメイドな神秘的雰囲気に呼応するかのように、お客は少なく、またその全員が互いに気を遣い合いながらひそひそと話している。
僕は改めて周りをぼんやりと見渡した後、先ほどまでずっと放心していたことをなんとなくごまかしたい気持ちになった。だから僕は何のためらいもなく、呼吸をするように嘘をつくことにした。
「ネイルを見ていたんだ」
「ネイル? 私の?」
芽衣はそう言うと顔を上げ、今まで見たこともないような驚きの表情で僕を見つめた。
「ネイルに興味があるなんて意外。綺麗だと思う?」
「綺麗だと思う。暇を見つけてはネイルを確認する気持ちがよくわかった」
「何それ」
芽衣は少しだけ不愉快そうに顔をしかめた後、八つ当たりとするかのように、再びフォークでモンブランの栗をつつき始める。三、四回ほどそうやってつつかれた後、栗はバランスを失い、てっぺんから情けなく転がり落ちていった。芽衣はそれをもとに戻すこともなく、あるいは転げ落ちた哀れな栗に追い打ちをかけることもなく、まるで一仕事を終えたかのように、ゆっくりと皿の上にフォークを置いた。そして、芽衣はおもむろに自分の懐に手を突っ込み、煙草の箱を取り出す。そのまま慣れた手つきで一本の煙草を取り出し、それを口にくわえる。僕は芽衣がライターを取り出そうともう一度懐に手を入れた隙に、身を乗り出し、ひょいと口から煙草を取り上げる。煙草を奪われた芽衣は抗議の声をあげることもなく、むしろ不思議そうに目をぱちくりさせながら僕の方を見つめた。
「ここは禁煙席じゃないはずだけど?」
その言葉に対し、僕は一瞬だけ言いよどんだ。芽衣を非難するつもりでやったわけではない。なぜ、煙草を取り上げようという気になったのか、それが自分でもわからなかったのだ。芽衣はただ黙ったまま僕を見つめ続ける。気まずい雰囲気に屈するかのように、僕は反射的に思ってもいないことを口に出す。
「煙草は身体に悪い」
芽衣はその言葉に苦笑いを浮かべる。子供がついた苦し紛れの嘘を心の底からあざ笑っている母親のような表情だった。すべてを見抜いたうえで、それでもあえて信じたふりをしている。芽衣が時々浮かべるそのような表情は僕が彼女が見せるしぐさの中で、一番苦手としているものだった。
「吸ってほしくないなら、素直にそう言えばいいのに。バカみたい」
嘲るようにそう言い放つと、芽衣はすでに取り出していたライターと煙草の箱を僕の方へ放り投げる。僕は躊躇いながらもそれらをつかみ、乱暴にコートの中に仕舞った。僕たちの間に重たい沈黙が流れ始める。店内に流れていたBGMはいつの間にか違う曲に移り変わっていて、お客の数も先ほど確認した時よりも減っているような気がした。
「今更健康を気にして何になるの」
芽衣は視線を下に向けながらつぶやいた。そのセリフは僕に向けられたものではなく、単なる独り言だと気が付くのに数秒かかったが、その時にはすでに芽衣は再びフォークを握り、モンブランの本体部分をショベルカーのようにぼろぼろと崩し始めていた。フォークの先端で器用に生地部分をつつき、砂利ほどの大きさに分解している。芽衣はそれを口に運ぼうともせず、黙々とその作業を続けた。会話をつなげようとこちらから話題を振ってみても、芽衣は適当な返事をするだけ。機嫌を損ねてしまったのだろう。こうなっては何を言っても彼女は聞く耳を持たない。僕がそう諦めて自分の皿に目を移したとき、芽衣は唐突に自分から言葉を発した。
「明日の夜、空いてる?」
突然話しかけられたことに戸惑いつつも、何の予定もないと答える。
「でも、どうして?」
「天体観測に連れて行ってほしいの」
天体観測。予想だにしなかった返答に僕は身を強張らせた。しかし、芽衣はそんな僕の反応なんかお構いなしに、ただただ土木作業に没頭している。僕は何も言えないまま、うつむく芽衣の顔をじっと見つめ続けた。そのような僕の視線に気が付いたのか、芽衣はおもむろに顔を上げ、不思議そうに僕を見つめ返した。
「何か変なこと言ったっけ?」
気持ちが落ち着いた僕はようやくそこで言葉を発することができた。
「いや、芽衣の口から天体観測なんて言葉が出てくるなんて思いもしなかったからさ。それで驚いちゃって」
「そんなに驚くようなことでもないでしょ」
「さっき俺がネイルを見ているって言った時、驚いたでしょ? 多分それと同じくらいの驚き」
芽衣はつまんなそうに相槌を返す。それでも僕の驚きは少しばかりはわかってくれたらしい。
「単なる気まぐれで言っただけ。とりあえず、明日の十二時ごろに、病院の玄関前に車をつけといて」
「そんな夜遅くに外出して大丈夫なの?」
「今日と同じように黙って抜け出すだけだから平気」
今日も許可を得ずに外出してきたという事実を今になって初めて知ったが、それでも僕は何ともないかのように芽衣の申し込みを承諾した。きっと本来ならば、そんな夜遅く、しかも冬が迫っているこの季節に外出することは制止すべき事柄なのだろう。しかし、そうすることはできなかった。それが、生命身体の大切さを説くことが難しい時代のせいなのか、それとも違う理由のせいなのかはわからないけれど。
僕の返事を聞いた芽衣は僕から視線をそらし、小さくうなづいた。そして、僕への興味関心が跡形もなく消えてしまったのか、何も言わず、再びフォークで目の前にモンブランをつつき始めた。そのしぐさは何か胸の奥にある鬱憤を晴らすためにようでもあったし、逆に、好きな子を前に素直になれないもどかしさをなだめるためのようでもあった。まあ、そのどちらでもないのかもしれないけど。
芽衣を病院で送り届けた後、僕は寄り道のせずに自分のアパートへと帰った。車を止めようとしたとき、駐車場に景保所のワゴン車が止められていることに気が付く。ここを出るときに見たあの死体を回収しに来たのだろうか。そう思い、死体があった駐車場の隅へと目をやるが、そこにはあの中年男性の死体だけでなく景保所職員の姿もなかった。どこかの家でトイレでも借りているのだろうか。不思議に思いながら、車のカギをかけ、そのまま階段を登って自分の部屋へと向かう。すると、階段を登っている最中に、景保所の職員たちとすれ違うことになった。彼らは二人一組で一つの担架を持ち、慣れた動作で階段を降りていく最中だった。群青色のシートが全体にかぶせられてはいるが、その担架の上には誰かの死体が乗せられていることくらいは小学生にだってわかる。長期間放置された死体が放つ独特の腐臭がしてこないことから、死んでからそれほど経っていないようだ。俺は階段の狭い踊り場で身を端に寄せ、職員に道を譲ると、すれ違う職員が小さく首を傾け、道を空けてくれたことに感謝の気持ちを表した。俺は運ばれていく担架にもう一度だけ視線を送った後で、何の特別な感情も抱くこともなく階段を登り続ける。
それにしても一体誰が自殺したんだろう。そのような疑問は自分の部屋がある階にたどり着くやいなや明らかとなった。右隣の部屋。その部屋の扉が大きく開かれ、下には黒いストッパーが隙間と隙間の間に挟み込まれていたのだ。さらに部屋のインターホンの下には、黄色の背景に赤い文字で立ち入り禁止と書かれた景保所のステッカーが貼られており、中からは数人の話声が聞こえてくる。僕は何気なく階段の横で立ち止まり、家を出るときの隣室の様子を思い返してみた。珍しくどんちゃん騒ぎが行われていたから、きっと自殺は一人ではなく集団で行われたのだろう。そしてその宴会は最後の晩餐といったところか。思うことは色々あるが、ここに突っ立ったままでは、職員の邪魔になる。僕は無意識に顔を伏せ、自分の部屋へと急いだ。何かを避けるようにして、自分の部屋にたどり着き、そのまま中に入る。景保所の職員に対して、何か変な嫌悪感を抱いているわけでもないし、自殺というものに今でも心理的な抵抗があるというわけでもない。それでも僕は顔をうつむけたまま、それもその場を少しでも早く去るように足早に部屋に入った。理由は色々ある。しかし、一つずつ丁寧にピンセットで取り出し、あれこれと吟味するような気分ではなかった。
部屋に入った瞬間、肌にまとわりつくような重たい空気が僕を包み込んだ。僕は靴を乱暴に脱ぎ捨て、上着を着たままベッドの上にあおむけの状態で寝っ転がる。ベッドのきしむ音に耳を澄ませた後、頭の後ろで手を組み、じっと部屋の照明を見つめる。先月取り換えたばかりの照明は、うすぼんやりとした昼白色の光を発していた。最新技術を取り入れたもので、大変長持ちするらしい。引っ越し、あるいは長生きをするつもりがないのなら、今後一生涯電球を換えずに済みますよ。歯並びの悪い販売員が引きつったような笑みを浮かべながら言っていたことを思い出す。あまり面白くない売り文句だ。僕はそのまま目を閉じ、心の中で悪態をついた。
約束の深夜十二時きっかりに、僕は病院の玄関前に車を止めた。空気はキンと冷え、街明かりが残るこの場所からでもいくつかの星がくっきりと見えるほどに澄んでいた。エンジンをかけたままその場で十分ほど待ち続けると、ようやく病院の玄関から芽衣が姿を現した。彼女はまっすぐに車へと駆け寄り、助手席から転がり込むように車にあがりこむ。僕はそこで、芽衣の服装が昨日の昼にあった時のものとまったく同じであることに気が付いた。
「寒いのに、そんな恰好で大丈夫?」
芽衣はシートベルトを締めながら、他人事のように大丈夫だとうなづく。そして僕の顔を見ることもなく、地元では有名な海岸沿いの展望台の名前をつぶやいた。芽衣が告げたのは、病院から車で三十分ほどの場所にある展望台だった。岬の先っぽに、長い運転の休憩地として作られ、風光明媚な眺めが話題となって以降、断続的にベンチやら小屋やらが付け足された場所だ。芽衣の反応から察するに、どうやらそこへ連れて行け、ということらしい。僕も何も言わずに自分のコートを脱ぎ、それを芽衣に渡す。そのまま車のレバーを切り替え、アクセルを踏んだ。闇夜にふさわしい静かな発信音ととともに、僕たちが乗った車はゆっくりと動き始める。
車の中では、食後の薬を飲むように、僕たちは半ば義務付けられた当たり障りのない会話を繰り返し、時々思い出したかのように二人して黙りこくった。気まずさに耐えかねて何回か音楽でもかけようかと提案しても、芽衣はなぜか頑なにそれを拒絶した。いつもなら何の興味もなさそうに了解するだけなのにと皮肉を言っても、彼女はそれに怒るでもなく、ただ不機嫌そうに押し黙るだけだった。そのような状態の中、六度目、あるいは七度目の沈黙が訪れた時、僕たちはようやく展望台に到着した。町明かりが届かないひっそりとした暗闇と静寂に包まれ、時間帯のこともあってかあたりには珍しく誰もいなかった。必要以上に大きく作られた駐車場の片隅に車を止め、僕たちは海に突き出した展望台へと向かう。展望台は絶壁の上にあり、所々さびで覆われた円形型の屋根と、屋根を支える円柱を囲むようにして作られたベンチがあるだけだった。僕たちは何も言わず、並んでベンチに腰掛ける。
目の前に広がる海は絵の具のような黒い色をしていて、月明かりがなければそれが海だということには気が付かないほどだった。海から少し上へ視線を向けると、ぽつぽつと白色色の星が瞬いている。まだ目が暗闇になれていないからなのか、あるいは展望台の近くに設置された外灯がわずかとはいえ明かりを発しているからなのか、期待していた以上に星は見えない。もっと星がきれいに見える場所に行こうかと言ってみたが、芽衣はけだるげにその提案をはねつけた。芽衣がそれでいいと言うのなら無理強いするつもりはない。僕は諦めて、遠慮がちに輝く星と申し訳なさそうに波立つ海を交互に見つめる。
どれくらいの時間が流れただろうか。退屈な五分よりは短く、ルーチン化した十五分よりは長い時間。その間、僕たちは人形のように身じろぎせず、言葉を発しなかった。退屈を感じ、ふと芽衣の方を振り向く。芽衣はいつの間にか火のついた煙草をくわえ、気だるげな目で目の前の風景を眺めていた。煙草の先に光るオレンジ色の火が薄暗い空間の中で幻想的に思えた。僕の視線に気が付いた芽衣はちらりとこちらへと振り返る。その煙草は病院から持ってきたのかと尋ねると、芽衣は何も言わないままポンポンと彼女が来ていた僕のコートのポケットを叩いた。昨日芽衣から没収した煙草とライターがそのままになっていたということを僕は思い出す。しかし、非難しようといった気持ちは全くわいてこず、僕はただ適当に相槌をうつことしかできなかった。
「私はね、かわいそうな女なの」
芽衣のそのセリフはあまりに自然で、意識していなければ聞き落としてしまいそうだった。僕がゆっくりと芽衣の方へ顔を向けたが、芽衣は何事もなかったのようにただ前を見つめている。そして少しだけ間が空いた後、横目でちらりと僕に視線を送り、冷笑的に微笑んで見せた。
「あなたもそう思う?」
僕は少しだけ考えた後、質問に答えた。
「俺もそう思うよ」
芽衣はおもむろに煙草を地面に落とし、靴で火を消した。それから芽衣は無表情のまま、すくっと立ち上がる。そのままほこりを落とすために自分の尻をやさしくはたき、僕に向き直った。
「そんなこと微塵も思っていないくせにね」
僕は芽衣の言葉を肯定も否定もせず、ただ黙って肩をすくませる。それならば一体なんと言えばよかったのか、なんてことは口にしない。芽衣に倣って僕もベンチから立ち上がり、ほこりを落とすために自分の尻をはたいた。そして僕たちは何も言わないまま展望台を後にし、車が止めてある駐車場へと歩いて行った。