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箒星の祈り  作者: 村崎羯諦
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 初冬。どこか圧迫感さえ覚える、低く、しかし澄んだ青空。肌寒さを感じる気温。そんなある昼下がりに、新留芽衣は約三日ぶりに僕の1kアパートにやってきた。

 玄関の扉を開けるやいなや、彼女はチャイムを鳴らしてから三十秒も待たされたことに不満を漏らし、お邪魔しますの一言も告げないままづかづかと部屋の中へあがっていく。肩にかけていたトートバックをベッドの上に放り投げ、その隣にコートを着たままドスンと腰かけた。乱暴な衝撃が加わったせいで、折り畳み式の安いベッドがきしむ音が聞こえてくる。芽衣はそのままきょろきょろと部屋の中を見渡し、ふと自分が座るベッドの上に落ちていた一本の縮れ毛に目をとめ、わざわざご丁寧にそれを拾い上げた。ちゃんと掃除しておいてよ。芽衣は不機嫌そうに眉をひそめながらそうなじり、それをぽいっと床の上に放った。そして、唐突に僕と僕が済む部屋への関心を失った芽衣は、足を組み、背中を丸めた状態で自分のネイルを観察し始めた。薄いピンク色に塗られた、右手薬指の爪先をじっと見つめるまなざしは真剣そのもので、それはまるで昆虫学者が新種の昆虫を観察している時のようだった。まあ、もちろん昆虫学者なんて実際に見たことはないけど。

「これからちょうど出かけようと思ってたんだ」

 芽衣は気怠そうに顔をこちらに向け、目にかかった前髪を右手で払った。栗色の大きな瞳で不思議そうに僕をじっと見つめた後、僕の言わんとしていることを理解したのか、露骨に嫌がる表情を浮かべた。

「そういうのは玄関で言うべきじゃない?」

 僕は床に落ちた縮れ毛を拾い、それをごみ箱に捨てる。そして、クローゼットにかけられていた薄手のコートを手に取った。

「何の確認もしないで、ずかずかとあがりこんできたのはそっちでしょ。とにかく外に出よう。ネイルを確認するのは、別に外でもできるだろ?」

「歩きながらでは、危ないと思う」

「じゃあ、車を出そうか」

 芽衣は納得いかないような顔をしながらも、トートバックを手に取り立ち上がった。部屋に残ると言い出すかと思いきや、意外にもついてきてくれるらしい。入ってきた時と同じように、不機嫌さを足音で表現しながら芽衣は一人で玄関へと向かっていった。僕もコートを羽織りながら、その後に続く。

 部屋の外に出て、戸締りをする。その間、いつもは静かな隣の部屋からわいわいと数人で騒ぎ立てる音が聞こえてきた。まだ午前中だが、何か宴会でもやっているのだろうか。その疑問をぶつけようと廊下の手すりに寄り掛かっている芽衣の方へと顔を向けたが、彼女はそんなことには全く関心を持っていないようで、ただただ熱心に、今度は左手のネイルをじっと見つめていた。そのため僕も何だか馬鹿馬鹿しい気持ちになり、「行こうか」とだけ彼女に告げ、アパートの玄関を目指して歩き始めた。すると、隅に黒いほこりが溜まった階段を下りている最中、芽衣が思い出したかのように突然、いったいどこに用事があるのかと尋ねてきた。僕は彼女の顔を見ることなく、端的に近所の大型ショッピングモールへ用事があるのだと答える。芽衣は少しだけ考え込むかのようにしばらく黙り込んだ後、最近そこにできた洋菓子店に行ってみたいと告げた。

「もちろん、そっちのおごりだから」

 念を押すように芽衣はそう付け足した。なんでおごらなければならないのかと反論すると、「じゃあ、もうエッチなことはさせてあげないから」と、彼女はまるで地面を歩く一匹の蟻を押しつぶすかのような調子で返事を返した。それはアンフェアだと言おうとしたが、それを言ったらあまりに自分がみじめになってしまいそうな気がして、渋々自分がおごることを了承した。すると芽衣は呆れとあざけりが混じったような笑い声を立てた。

「昔、私の友達が言ってたんだけどさ」

 階段を降り切った僕は芽衣の方へと顔を向けた。

「男の脳みそって、結局は大部分が下半身についてるんだって。たとえそれが巧妙に隠されていたり、何か他のものに変換されていたとしてもね」

 僕の目をじっと見つめ、芽衣は無邪気に目を細める。その目はまるで、白々しい嘘をついている猫のような目だった。

僕たちはそのままアパート裏手の駐車場へと歩いて行った。ぽつぽつと間を開けて停められている車のうち、自分の車である、黒のミニバンへとまっすぐに近づいて行く。購入したのは今から五年以上も前だろうか。今みたいに、価格が馬鹿みたいに高騰する以前に購入したもので、買った当時はまたすぐにでも違う車に乗り換えようと思っていたが、そのタイミングを逃したまま今日まで乗り続け、今では愛着すら感じてしまっている。芽衣が助手席側、俺が運転席側へと回り込み、ドアに手をかけ扉の開錠をした。しかし、その時、俺は駐車場の片隅に誰かが倒れこんでいる姿が目に入る。車の陰に隠れ、ここからでは爪先が天の方へ向いた、まっすぐに伸びた両足しか見ることができない。好奇心に駆られた俺は、芽衣に一言告げ、倒れている人物のもとへと歩いて行く。

 駐車場の片隅に倒れていたのは、自分より一回りは年上であろう、汚らしい身なりをしたホームレスの中年男性だった。彼は仰向けで、目を閉ざした状態のまま倒れていた。鼠色のくすんだニット帽からはほこりとふけで所々に白く汚れたぼさぼさの長髪がはみ出し、顔の下半分は長さもばらばらの無精ひげで覆われていた。肌の色は、汚れかで茶色くくすみ、顔と首の皮膚は所々はがれ、また赤い斑点のようなものがぽつぽつと浮き出ている。寒さをしのぐためなのか、ネイビー色のジャケットの下にはサイズの異なるTシャツを重ね着していたが、下には何か月も履きっぱなしであろう、膝の部分が破けているジーンズを履いているだけだった。そして何より目を引いたのは、男が仰向けのまま、がっしりと胸の前で、両手の指を交互に、固く組んでいたことだった。その様子は敬虔なクリスチャンを思い起こさせるほどに、力強く、そして不思議な魅力があった。だからこそ、自分はすえた腐敗臭と、男の上空を飛ぶ何匹もの蠅に眉をひそめることもなく、その男をじっと眺め続けられたのだろう。

「どうせ死ぬなら、もっと他のところで死ねばいいのに」

 いつの間にか後ろに立っていた芽衣の言葉で、ハッと現実へと引き戻される。芽衣の方へと顔を向けると、彼女は僕と同じように死んだ男を見つめていた。芽衣は僕が自分の横顔を見ていることに気が付くと、おどけるかのように顔を歪め、さらに自分の鼻をつかんでみせた。

「せっかくいい気分だったのに、台無し。それに何かくさいし」

 芽衣の言う通り、男から発せられる臭いは強烈だった。しかし、それが死によって発せられた臭いなのか、それとも、彼が死ぬ以前から発せられていた臭いなのかはわからない。芽衣は僕の服の袖をつかみ、早く車に戻ろうと無言で訴えかけてくる。何かやるべきことがあるというわけでもないため、芽衣が機嫌を本格的に損ねる前に僕は芽衣の手をつかんで車へと戻った。車の運転席に座り、エンジンを駆け、シートベルトを締める。その動作の途中、一瞬だけちらりと男のいる方へと視線を投げかけた。しかし、車からでは先ほどと同じように男の両足しか見ることができない。

「景保所に連絡しとかなくていいかな?」

 助手席でネイルの最終確認をしていた芽衣に向かってつぶやく。

「誰か他の人がとっくに連絡してるでしょ。真夏じゃないし、しばらく放っておいても大丈夫だと思う」

 そして、芽衣はフロントミラーをおもむろに自分の方へ向け、今度は自分の顔の化粧ノリをチェックする。しかし、化粧ノリはネイルほど大事なものではないらしく、十秒もしないうちにフロントミラーをもとの位置へと戻した。

「それに……死んだからどうのこうのっていう時代でもないしね」

 確かにそれもそうだ。僕は芽衣が戻したフロントミラーを少しだけ調整しながらうなづくと、そのままアクセルを踏み、車を発進させた。



 あの日以来、世界は一段と不可解なものになったと思う。いや、少なくとも僕がそう思っているだけで、他の人も同じようにそう考えているかはわからない。しかし、少なくとも自分はそう思っている。そして、その不可解さの理由の一つは、あれだけの出来事が起こりながら、僕の周りの世界が以前と同じように動いているようにしか見えないと言うことなんだろう。

 今から七年前。今世紀を代表するある天才科学者によって、死後の世界の存在が科学的に証明された。その科学者は難しい数式や記号をずらりと並べ、論理的、そして説得的にその存在を証明して見せた。いくら内容が突飛だからと言って、すでに権威を有していた科学者の発表である手前、すぐに世界中で確認が行われた。そして、地球上にいる科学者はその証明の誤りを指摘することができず、むしろその真実性を認めざるを得ないという事態が起きてしまったのだ。もちろんそんな高度な科学的知識を持たない一般人も、そして、その証明の完全性を認めた科学者たちも、そのような事実を簡単に認めることなどできなやしない。特に後者の人間たちは、その証明は科学的ではあるが、非科学的であると言って、自らが今まで母親のように信奉していた論理を捻じ曲げてまでもその天才科学者を痛烈に批判してみせた。もちろん、天才科学者の頭が狂ったとして、、そのままこの論争が終わる可能性も十分にあったのだろう。しかし、残念ながらそうはならなかった。天才科学者は再びメディアの前に姿を見せ、もう一度、今度はもっとゆっくりと、なおかつ理路整然と証明を繰り返して見せたのだ。なんでも彼の説明によると、死後の世界は今僕たちが生きている世界と環境的に大きく異なるところはないらしく、きちんと人間のままそちらの世界に行くことができるらしい。もう一度別世界で生まれ変わる、そう考えて差し支えない。テレビの画面に映しだされたその天才科学者は、革で作られた北欧産の黒いソファにふんぞり返って答えた。そして、その放送から三週間後、天才科学者は自ら命を絶った。この自殺は科学者や社会学者の想定を超えた衝撃を世界に与え、あれよあれよという間に、世界中で自殺が大ブームとなる。そうなれば、今さらあれは間違いだなんて言えるわけがない。誰もそんな責任を背負いたくもないし、何よりも天才科学者が死んでしまった以上、彼の証明を覆すことができる人間がいなかった。そして、まさになし崩し的に、世界中で死後の世界の存在が認められることになり、最終的に権威ある学会によって彼の証明が受け入れられた。これは天才科学者による証明から一年後、つまりは六年ほど前の出来事だ。

 それからというのも、世界中のあちこちで嫌なことがたくさん起き、世界はちょっとした「混乱」状態になった。集団自殺が頻発し、自爆テロが多発し、国は赤字国債を乱発した。ネットやテレビは連日その話題でもちきりだったし、知り合いにも、その流行に乗って自殺した人間がいる。しかし、人間と言うのは不思議なもので、その「混乱」もいつの間にか収束していくことになる。いや、僕がこういうのは、単にメディアやネットで取り上げられなくなったというだけで、「混乱」が恒常化しただけに過ぎないのかもしれない。だけどもまあ、恒常化したならもはや「混乱」とは言えないこともないだろう。とりあえず、そんなこんなで世界は以前と同じような落ち着きを取り戻した。もちろん、七年前と今ではまるっきり変わってしまったこともある。小学校教育において、生に対する倫理を解くことが以前よりもずっと難しくなったし、人口やらなにやらが減って、近所のスーパーの品ぞろえが悪くなった。だけどその一方で、以前と同じようにネットはつながりるし、蛇口をひねれば水が出てくる。電気がなくなる予定もなく、そのおかげで、真夏には空調の聞いた部屋で、昼間っからセックスができる。つまり、世界は、少なくとも僕の世界は、以前と同じようなスピードで、以前と同じような調子で動き続けている。気味が悪いほどの安定。いや、もしかしたらもっとたちの悪い、根本的な問題なのかもしれない。


「何ぼーっとしてんの」

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