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短編集(2000-5000)

ハイウェイ・ダンサー

作者: ハラ

成長の裏側の話です


 彼はハンドルを左に切って、高速道路に入った。


 助手席から眺める手慣れた流麗な仕草はさながら映画のワンシーンのようで、思わず嘆息する。

 というのも僕はペーパー・ドライバーで車は一台も持っていない。


 対向車線を走る車は無く、真っ暗な闇の中で電灯が秘密の合図のように浮いている。

 だらりと左手を窓から垂らすと凄まじいスピードの風を感じた。


 沈黙。

 何も言葉が出て来なかった。

 言いたいこともないし、言われたいこともない。


 僕と運転席の彼は十年前からの幼馴染みで、その分だけお互いのことを知っている、というわけでもない。


 何せ十五分前コンビニから出て来て角を曲がった瞬間に彼に拉致されるまで、五年も会っていなかったのだ。


 五年。結構な年月だ。


 中学の卒業式の日に彼は引っ越し、それ以来ずっと音信不通だった。

 あまりにもあっけない友情の終わりだった。


 僕も高校を卒業して大学に入り今に至るまで彼の存在はすっかり忘れていた。

 時折、誰かとの会話に名前だけが出てその拍子に思い出したが、その程度だった。


 ほら、中学のときの男子、名前は――くん、だっけ、久しぶりに会ったんだけど、すっかり変わってたわよ、驚いたな。

 ふぅん。


 という具合だ。


 彼は僕の中で完全に「過去」として処理されていた。

 そして僕と彼はただ幼馴染みというだけで特別仲が良いわけではなかった。


 彼は髪を短く切り込み、デザインよりも機能性を重視したような記号的な黒いサングラスを掛けていた。

 肌も浅黒く焼けている。


 適当に選んだような奇妙な模様のシャツ、細身のジーンズに包んだ長い脚を持て余すように放り出している。

 ハンドルにだるそうに添えられた無骨な左の手の甲には一本の切り傷が何かの印のように存在していた。


 それらと何週間も剃っていないらしい髭のせいで彼は一見すると年齢不詳だった。

 若い青年のようにも見えるし、渋い中年のようにも見える。


 だが間違いなく僕と同じ二十歳なのだ。


 不意に彼が前方を向いたまま、ちいさく何か呟いた。


「なにか」と僕は尋ねた。

「煙草」と彼が言った。

「煙草、吸ってもいいか」


 僕は驚いたが、構わないさ、と答えた。


 彼は胸ポケットからくしゃりと潰れかけた煙草の箱を片手で取り出すと、器用に一本だけ抜き取り、口に咥えるとまた箱を戻した。


 僕は煙草を吸わないので銘柄は分からなかったが、慣れた作業にまた驚きを覚えた。

 昔の彼(勿論、中学生の彼で止まっている)は礼儀正しく又少し気弱な文学少年だった。


 すると彼が先程と同じ胸ポケットから銀色のジッポーを取り出し「点けてもらってもいいか」と微笑んだ。

サングラス越しに一瞬見えた目は困ったような照れた笑みを浮かべていた。

それは確かに僕の知る幼馴染みの目だった。


「ああ」


 彼が投げて寄越したジッポーは表面がアラベスクのメタルプレートになっており、ずしりとした高価そうな重みがあった。

鈍い開閉音。


「いいジッポーだ」と言うと彼は「まあな」と言った。

「昔、貰ったんだ。誰に貰ったのかは、忘れてしまったけれど」


 ボッと灯る火を恐る恐る彼の口元の煙草に移す。

 僕は暫く手元のその火を見ていた。


僕は幼い頃から火が好きだった。

 ゆらゆらと揺れて燃える赤に触れようとはしなかったものの、心は強烈に惹かれた。まるで磁石に吸い寄せられる鉄のように。


 音も無く燃焼する、静けさ。

 神聖でそれでいて危険な空気。

 緊張の、一瞬。


 僕の心臓はどくんっ、と激しく跳びはね、後は小石を投げ込まれた湖の波紋のように音もなく震えた。

 頬が少しずつ熱を帯びていく。運命的な100パーセントの恋のように。


「どうかしたか」と彼が不審げに、しかし笑みを交えて言った。「ぼうっとしやがって」


 僕は慌ててジッポーの蓋を閉めた。

 心臓は余韻に高鳴っている。


 彼が何も言わずに左手を差し出し、僕はその掌にジッポーを乗せた。

 彼の傷がついた左手はすぽっとジッポーを胸ポケットに落とし、そのままハンドルへと戻った。


「お前、今、昔の目してたぜ」 


 僕は、はっとして彼を見た。彼はニヒルに笑っていた。


「小三か小四のとき小学校の理科室が火事になって燃えただろう? 俺達は同じクラスで体育の授業だった。理科室の窓から黒い煙と火が噴き出すのを、グラウンドで見てた。みんな黙って冷や汗を流して、ぽかんとした阿呆面を下げてた。俺だってそうだった。でも、一人だけ違った」


 覚えている。

 正確には小学二年生のときだ。


「お前だけが、笑ってた。背筋がぞっとするくらい楽しそうだった」


 彼は、ふーっと煙を吐き出した。


「俺はお前が怖かった。こいつ、やべぇって思った。火事よりもお前のほうが俺は怖かった」


 僕は、ははっと笑った。極端に水分を失った渇いた笑みだった。

 だが彼は淡々とした口調で続けた。


「勿論、お前は犯罪者なんかじゃない。普通の、まっとうな人間だ。夜中に小腹が空いてコンビニに出掛けて、正体不明の幼馴染みに簡単に拉致られちまう、警戒心の薄い一般人だ。どちらかと言えば被害者になりやすいタイプだな」


「随分と言いたい放題だね」


「気兼ねなく悪口を言えるのは、幼馴染みと親友の特権さ」


 彼は煙草を人差し指と中指に挟んだまま、片手でハンドルを回した。

 ちなみに彼の言うとおり、僕の膝の上にはカップラーメンの入ったビニール袋が置かれている。


「引っ越してから偶にお前のことを思い出した。その時俺の頭に浮かぶのは決まって、あの顔だった。そうだ、さっきの火を見つめてる顔だ。お前は、とびっきり変な奴だ」


「普通の、まっとうな人間じゃなかったのか」と僕は苦笑した。


「勿論それも嘘じゃない。お前は普通のまっとうな部分も持ち合わせた上で尚且つ、とびっきり変な一面もある。そういうところも含めてお前は普通なんだよ」


 彼は昔から妙に回りくどい話し方をするときがあった。

 気弱な文学少年は気難しくもあったのだ。


「お前と会わなかった五年間、時たまお前のことを思い出した。でも、そのときに俺の頭に浮かぶのはいつもあの、とびっきり可笑しな笑顔だった。

 だから俺は長らく、お前を誤解していた。見くびっていた。或いは買い被っていた。

 今こうして見ると、お前は本当に普遍的で平凡で器用でもなく不器用でもなく毒にもならず薬にもならない、なのに何故かとびっきり変なものを持つ、普通の奴だ」


 本当に散々な言い草だ、と僕は思った。


「でもお前は良い奴だ。そして世の中は馬鹿ばかりだ。

 善人面した奴らが心の底に持っている悪意に気づかないのは、そいつ自身が善人だからだ。

 浮気をしない人間は浮気をするという選択肢を持たないように、善人は悪意を持つという考えを持たない。そういう概念がない馬鹿だ。

 ばれてないとほくそ笑む悪人も馬鹿だ。自分のことを善人だと勘違いしている悪人も馬鹿だし、いっそ哀れだ。

 つまり世の中は馬鹿ばかりだ。反吐が出る。気味が悪い。どうして気づかないんだろう? 嘘に。悪意に。下劣な、勘違いに。馬鹿なんだ、みんな。可哀想なくらい馬鹿なんだ。でも、お前は良い奴だ」


「でも、馬鹿なんだろう?」


「さぁな」


 どうせ俺だって馬鹿の一人なんだから、と彼は自嘲するように諦めたように呟いた。


「だから、俺はこんな馬鹿たちの世界からさよならしたいんだ。ビルの屋上から飛び降りるみたいに、グッバイ! ってな。


 でもな、やっぱり駄目だ。一人は。ここまで来て、寂しいんだ。怖くはない。ただ、寂しい。怖いくらい寂しいんだよ。そのどうしようもない寂しさが未だに俺と世界を繋ぎ止めている。


 でも、もう終わりだ。今日で、終わりにする」


 なぁ、一緒に、――ぜ……。


 彼の最後の言葉はアクセルを踏む音にかき消された。


 急にスピードを上げた車は危なげな音を立てて、僕は、僕の身体がふわっと浮かぶのを感じた。気味の悪い浮遊感だった。


 突然の恐怖に、頭の芯が冷えるのが分かった。


 窓の外の景色は洪水のように掴み切れないスピードでどんどん後ろに流れていき、瞬間、世界が無音になった。


 響くのは心音だけだった。

 それが僕のものなのか、彼のものなのか、それとも二つのそれがぴったりと重なり合ったものなのかは分からなかった。


 とまれ、と僕は叫んだ。


 しかし声にはならなかった。

 言葉は僕の咥内で分解され、唇の端から零れたものは拙い息でしかなかった。


 とまれ、とまれ、とまってくれ!


 金縛りにあったように体は動かなかった。


 隣で彼が何かを言ったような気がした。

 でも、僕はそれどころじゃなかった。



 さび、しい。


 寂しい?



 闇を流れていく街灯が回って、一つになって、爆発し、視界は白く弾けた。














 勿論、僕は死ななかった。当たり前だ。


 そうでなかったら、こんな胡散臭いくらい爽やかなオープンカフェでミントの入ったアイスティーなんて飲んでいられない。


 僕としてはアイスティーなんて何処の店も変わらないのだけれど、中学の同窓会で再会して最近付き合い始めた彼女は趣味がカフェ巡りというだけあって、実によくいろいろな店に僕を連れ出すのだ。


「それで?」と彼女は言った。

「それから、どうなったの?」

「どうにもならなかったよ」と僕は答えた。

「気が付いたら僕は元のコンビニの前に立ってたんだ。ビニール袋を片手にぼうっと夜空を眺めていた」

「それで?」

「僕はその足で交番に行ったんだけど、不在だったからそのまま待った。どうせ暇だからね。

 僕は交番の壁にもたれながら頭の中を整理していた。

 でもどうにも全ての事象がふわふわして、上手く纏まらなかった。

 そうして、何分か、何十分か、何時間かが過ぎた。

 東の空が白く滲んで来た頃、お巡りさんが一人戻って来た。

 それで僕は尋ねた。

 今日……というか、ついさっき、交通事故がありませんでしたかって。

 そしたらね、あったんだ。一件。

 その件で出かけていたんです、と。

 男が一人乗った車が暴走して高速道路から下りたところのカーブに突っ込んだって。車種を確認したら、同じだった。

 男は即死だって聞いたところで僕は頭が痛くなって、帰った」


「そう」


 と彼女が言った。

 そして申し訳なさそうに「そんなときに連れ出したりして、悪かったわ」と言った。


「いいんだ」と僕は言った。事実、よかったのだ。

「でも不思議ね」


 彼女は本当に不思議そうに綺麗な赤色の何とかティを啜り、パンケーキをナイフとフォークで綺麗に切り分けて丁寧に食べた。

 僕もミントを退けてアイスティーを飲み、付け合わせの小さなハーブクッキーを齧りながら外の街を眺めた。

 そこでは人々と車がまるで景色の一部のように流れていた。


 その時だった。


 ストライプのスーツを着た男が人々の流れに逆らって歩いていた。


 浅黒い肌と清潔に切り込んだ髪に見覚えがあると思っていたら、男がこちらを振り返った。


 無精髭は綺麗に剃られ元から何も無かったようだったし、掛けていたのはサングラスではなく、いかにも融通の利かなさそうな銀縁の眼鏡だったが、その男は間違いなく僕の幼馴染だった。


 マジックミラーなのであちらからは鏡となって僕の姿は見えないはずなのに、眼鏡の奥の鋭く冷たい双眸は確実に僕を捉えた。


 それは僕の知らない彼の目だった。


 どくん、と心臓が鳴った。


 徐に左手が上がったが、諦めたようにすぐに下がった。

 甲に傷があるかどうかは分からなかった。


 一瞬だけ寂しそうな眼差しが、都会の光に紛れて、僕に訴えるように僕の胸を貫いたが、瞬きをした後には彼は進行方向へ向き直っていた。


 やがて彼は立ち止まり、見計らったように何処から現れたのか黒いリムジンが停まった。

 中から黒服の男が一人出てきて、まるで重鎮を扱うように彼を車に案内し、そのまま発車した。


 彼が消えた後も僕の心臓はどくどくと鳴り響いていた。


 彼女は目の前のパンケーキをフォークで弄りながら言った。


「彼の興した会社が大企業になって、それを今朝テレビで観たばかりなのに」


 彼女に言っていないことが二つある。


 あの日、あの夜、コンビニの前で気が付いたとき僕はビニール袋なんて持っていなかった。

 その代り、僕のポケットにはあの重たいジッポーが入っていたのだ。


 これらのことを僕は彼女に伝えるべきか迷っている。


 けれど、恐らく僕はこの不思議な話を金輪際誰にもしないだろう。


 何故なら、僕自身が酷く混乱しているからということもあるし、死んでしまった彼だって、きっと望んでいないだろうと思うからだ。

 


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