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財布

作者: 渡辺賢治

 十二月の中頃にもなると、夕方五時を過ぎてしまえば、次第にあたりは外灯と月明かりの世界になる。またたく間に通過する車のライトが一層明るく、通り過ぎた後の明暗をくっきりとさせる。そこからほんの少し遅れて巻き起こった冷たい風が、太陽と地球の位置関係の影響は、光だけではない事を思い出させた。

 辺りを覆う闇に逆らうように、一軒のコンビニが建っていた。明々と照明を灯し、オアシスにも思えるコンビニの前で、多少の寒さを堪えながら煙草をふかす男がいた。足元に落とした包装が僅かに震え、合せるように男の体も震えていた。男は灰を落とす為に視線を下げたが、目的の灰皿まで下がらずに止まった。指で吸いかけの煙草をはたくと、熱を持った灰は灰皿を外れて地面まで落ちていった。

「……財布?」

呟いた男の視線の先に、駐車ラインを示す白線の上に黒い財布が落ちていた。男は近づき拾い上げると、手に重みが伝わり、五感で感じるのとは違うぬくもりを感じて、自然と震えが止まった。

 男は掴んでいる財布から目を離すと、立ちあがって周囲を確認した。耳を澄まし、小さな物音にも集中する。コンビニの照明から漏れるジィーという機械音と、囁くように木々が揺れる音以外は聞こえてこなかった。ようやく人の存在が確認できないと分かると、先ほどまで、震えながらも煙草を吸っていた男のこめかみに、じとっとした汗が一粒流れた。



 男には当初、財布を懐にそのまましまうという考えはなかった。田舎の実家へと向かう道中に煙草が切れ、早く吸いたいという欲望が湧いてきても、法定速度を守ってこのコンビニに辿り着いた。その道すがら、ほとんど人気は感じられなかったが、それでも男は法を犯すことはなかった。真面目な人物かと言うとそうではない。

 男は高校時代に、同じ学年の生徒と殴り合いの喧嘩をし、相手の骨を折った。駆けつけた救急隊員の一人と男の目が合った。患者の対応で必死だった救急隊員の顔が、怒りと憎しみのこもった険しいものに変わり、思わず男は後ずさり下を向いた。ストレッチャーのタイヤが地面を進む音が止むと、救急車のバックドアを閉める音が聞こえ、男はようやく顔を上げた。そして、背後から現れた二人の警察官が男を引っ張り、押し込むようにしてパトカーに乗せた。異なる大きなサイレンの音が辺り一帯に響く中、男は乗せられたパトカーの後部座席で、ただただ恐怖し、精一杯身を縮こませることに必死になった。あの時の恐怖が未だに忘れられず、パトカーと救急車のサイレンを聞くと今でも自然と身を屈めるようになった。

 男は警察のお世話になる可能性がある行為をしないように努めて生きてきた。今回も男は、落ちていた財布を盗むことよりも、入っている金額が知りたいという好奇心、それだけを確かめた後は、その場に再び戻してしまおうと考えて手に取った。しかし、遠目では分からなかったが、拾い上げた財布から伝わる感覚が、自分の想像を超えた金額が入っている事を漂わせ、男の中にあるトラウマを薄れさせると、当初の思惑とは別の算段を立て始めていた。




 その様子を、コンビニの店長が防犯カメラ越しに見つめていた。善と悪の狭間を彷徨いながら周囲をひとしきり確認する男の動作が、店長には怪しく見えたのだ。店長の目には、男が万引きを企んでいるように思えた。財布を拾うという運が男にはあったが、暇を持て余し、たまたま防犯カメラを眺めていた店長にも運があった。

 外の駐車場には、盗まれる商品は何もないと分かっていたのだが、店長は奥の事務室から出ると、陳列棚の陰に隠れるようにして、その隙間から男の動向を伺った。

  周囲を伺っていた男の視線が、両手で持っているなにかに移ると、男の緊張が緩んだように見えた。見つめる視線の先にあるなにかが気になり、店長は陳列棚を一列、また一列と越えた。男と店長を隔てるものが、一列になった陳列棚と、駐車場と店内を仕切る一枚の型板ガラスだけになると、男が見つめていたなにかが財布であると分かった。

 店長は思案を巡らせた。なるほど、男が怪しく見えた理由を理解した。そこからさらに考えを発展させると、下卑た笑いを浮かべて、店長は陳列棚の陰から姿を現した。




 男の背後でコンビニ特有の電子音が鳴った。慌てて財布ごと両手を後ろにもっていき音の方へ体を向けると、先ほど、煙草を買う時に応対してくれた店員が出てきた。焦りと不安で固まった男に店員が話しかけた。

「あのーすみません。この辺りに財布が落ちていませんでしたか?」

男は、この店員は財布を懐にしまおうとしたことに気付いていないと思った。それでも、ここで対応を間違うと、疑いの目を向けられてしまう。そう思うと、止まった心臓の鼓動が大きくなり、男の体中を熱くした。

「え、ええ。煙草を吸っていると落ちていた財布に気付いて、ちょうど拾い上げたところです」

鳴りやまない胸の鼓動を押え、男は出来る限りの冷静を装った。

「先程お店に連絡がありましてね、駐車場に財布を落としたかもしれないから確認してほしい、というお電話を戴いたんです。いやぁ、良かったです。まだ駐車場に残っていたんですね」

男は店員とのやり取りを通じて、端から自分を疑ってはいなかったと感じ取ると、体の後ろに隠した財布を前に持ってきた。財布を出す時に、後ろに隠したことを怪しまれると思ったが、店員はにこやかに笑い、良かったぁと言うだけだった。

「そ、そうですか。落とされた方は財布が見つかって良かったですね」

「そうですよね。落とした財布が戻ってくることなんてそうそうありませんからね。もうすぐ取りに来られるみたいですから、私が預かって落とし主に渡しておきますね」

男は、ちょっとした出来心から、財布を懐に収めようとしたことを思い出すとぞっとした。それから、ぎりぎりのところで未遂に終わったことを運が良いと思った。もし店員が止めてくれなければ、最悪の結果もあり得たかもしれない、そうなれば当然警察が出てきただろう。一刻も早くこの場を離れ、先程までの自分を忘れたいと思うと、男は財布を店員に預け、軽く会釈だけすると、乗って来た車に向かって歩き出した。




 店長は思惑通りに事が進むと、男が車に乗り込むさまを眺めながら、手に伝わる財布の厚みが、予想以上であることを感じた。、五十万、いや百万は入っているのではないかと、膨らんでいく想像が止まらなくなり、エンジンがかかった男の車を前に平静を装うことが辛うじての状態だった。

 一体どれくらいの金額が入っているのだろうか。このお金で旅行。このお金で腕時計。このお金で新車。宝くじに当選したかのような想像は膨らむ一方だった。

 男の車がようやく動き出した。なかなか動かなかった車に、もしかしたら男に疑われているのかもしれないと思ったが、それにしては簡単に財布を手放したことを理由に、自らの考えを否定した。

 男の車がコンビニの前を走る道路に出ようと、左のウィンカーを光らせると、再びその場に立ち止まった。店長は、再び自分が怪しまれる要素考えてみたが見当たらず、男がETCカードを差し忘れたのではないかと思った。その時、男の出したウィンカーとは逆の方向から、車のヘッドライトの明かりが見え、そのままコンビニの駐車場に入ってくると、一台のハイブリットカーが静かなエンジンを止めて駐車した。立ちつくしていた店長の手には、当然財布が握られており、まさか自分で作った嘘が、現実に起こるはずはないとただ祈っていた。

「店員さんが見つけてくれたんですか!? ありがとうございます! もうないかもしれないと諦めてたんですよ!」

 車から降りてきた男は、店長の握る財布を見ると、そう言って近づいてきた。

「え、ええ。先程出ていかれたお客様が、落とし主が取りに来るかもしれないということで、私に預けていったんです」

「ああ。よかったぁ! 本当に助かりました!」

店長は男に財布を渡すと、男に握手を求められ、されるがままに手を握った。店長は、男の顔立ちや、着ている服、身につけた香水から、男との格差を感じ、手に残っていた財布の感触が次第に薄れた。男は何度も店長にお礼を言うと、大事そうに財布を抱え、ハイブリットカーに乗り込んだ。

「本当にありがとうございました」

窓を開けて再度お礼を言い、男のハイブリットカーが去って行った。ヘッドライトの明かりが離れていくと、店長は周囲の暗さを改めて感じた。

 茫然と目の前に広がる暗闇を見つめながら、店長は持ち主確認をしていなかったことに気付いたが、さすがにそれはないだろうと思った。どちらにしても自分は運が悪い。





 

 

 

 

 

あとがき

はじめの男は、財布が手に入らなかったことで自分は運がいいと思った。

店長は、財布が手に入らなかったことで自分は運が悪いと思った。仮に最後の男が持ち主ではなかったとしても、はじめの男についた嘘によって動揺したのだから、その嘘が存在する限り自分の手元には財布はこないと思い、どちらにしても運が悪い。

最後の男が持ち主かどうかは分からない。

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