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scene1-8 悲しくない涙

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「かつて全てを失って、身を裂くような悲しみを見たときであっても、彼女の眼は渇いていた。あまつさえ憎しみに燃えていたのだ。」


(叔父フェンシャール・ヴァク=デュソロウの言葉)


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 ●●1


 青年は静寂の中、広大で埃っぽい書庫の片隅に佇んでいた。歴史の臭いが染み付いた、革とインクと紙ばかりで構築される世界の一点に、彼の求める記録はある。

 時を経て変色した生成の(なめ)し革をめくる。そこにずっと並ぶ古い言葉は、かつて聖者が視た未来──それは彼の暮らす今の刻まで(きた)ることのなかった物語でもある──を鮮やかに描いている。まるで書き手がその眼に見たことのあったように色濃く。

 彼は喉笛から絞り出した低い声音に乗せて物語を紡いだ。壁は余さず書架であり、彼の呟きは響かずに吸い込まれる。


「粛清の鳥は、その血肉を帯びた翼で受難者を奢り、」


 いずれ必ず来る叙事詩なのだと、わかっていて彼は言葉を辿る。


「その聖なる涙は深く、土色の溟き海を育むであろう……」


 彼はそこで押し黙る。静かに書物を閉じ、それが元あった場所に押し込むようにして、眼を伏せたまま書庫を後にした。溜め息ひとつ、彼はつかなかったはずなのに、そこに残された空気のひだは微かにうねっている。埃が揺れる。

 廊下に待機させていた従者を一瞥し、議会を開く、とだけ言った。従者は一礼してすぐさま踵を返す。石造りの長い回廊に、乾いた靴音が遠く続いていった。

 誰もいなくなってから、後ろ手で扉を閉めた彼の肩は、静かに震えていた。



 ●●2


 左手がいやに白い気がして、乙女は訝りながら持ち上げた。肩口の鈍い痛みに思わず眉を潜める。

 包帯だ。腕全体を覆う、清潔そうな無垢の包帯。これのせいで眩しいほど真白くなって見えたのだろう。幾度も取り替えられた気配がある。

 己があまりに不甲斐なくて、乙女は項垂れずにいられなかった。

 この身を賭してでも天子を守らなければならない。だからそうしたまでである。しかし、それからの記憶が定かではなく、パルギッタを無事にあの場所から救出し得なかった。自分がこうして怪我で済んだ以上は恐らく天子も別状ないのだろうが、しかしその任を請け負ったのは自分なのだ。

 それを果たせなかった。自分は無力だったのだ。乙女にはそれが許せなかった。

 イリュニエールが悔しさにくちびるを噛み締めていると、隣の部屋がなにやら騒がしくなった。


「お帰りなさいませ。あら、これは随分と美しいお見舞いですこと」

「パルね、これ、ソフィーといっしょに選んだのよ」

「まあ……イリュニエールもきっと喜びますわ。さ、お見舞いの前に手をお洗いになってくださいまし」

「うん!」


 ぱたぱたと軽やかな足音が扉の前を駆け抜けてゆく。

 先ほどまで妙に静かだとは思っていたが、どうやらソファイアとパルギッタは出掛けていたようだ。ならば包帯を替えたのはミコラであろう。

 見舞いの品があると聞いて、イリュニエールは微かであったが己の胸が躍動するのに気が付いた。それが何故なのか、どういう意味かは、わからないが。ただ血流がいつもより円滑になったような気がするだけのこと。

 (……なんだろう、温かい)

 しかし彼女が慣れないそれの名前を見付けるより先に、春風の如く扉が開いた。


「イーリ!」

「お帰りなさいませパルギッタ様。血毒に触れますから、寝台に飛び付くのをおやめください」

「まあイリュニエールったら、嬉しい時は素直に嬉しいとおっしゃい。それに血毒なんて……古い、あまりにも古いわ」


 ソファイアの素早いたしなめに、ぐっとイリュニエールは押し黙る。

 血は毒である、という考えがある。そして位の高い者ほどその清さのために血の毒を受けやすいと言われていた。確かに古い思想かも知れない。だがイリュニエールは純粋に、パルギッタほどに無垢で潔白な存在であれば、あるいは本当に血毒を受けて病むこともあるかも知れないと思ったのである。

 そんな乙女の葛藤もいざ知らず、パルギッタはうきうきしながら件の“お見舞い”を見せた。


「イーリが元気になるお花だよ」


 添えられた、満面の笑顔。花弁の海に浮かんで、それでも見まごうことはないように、ひときわ鮮やかに輝いていた。


「あ……あ、ありがとうございます。なんと畏れ多い……」

「一言余計だわ」


 実に素早い。これには乙女も感服する。


「さてとパル様、これ以上はイリュニエールの怪我に障りますから出ましょうね」

「はーいっ」


 きちんと眼を見て返事をすると、パルギッタは花束をソファイアに手渡した。乙女は爛漫な少女の気に入るように、部屋の隅にあった花瓶にそれを生けて、小さな円卓の上に飾る。

 花がイリュニエールからよく見えるように、枕から平行の壁に卓の脚を揃えた。

 それを見て満足したパルギッタは扉の取っ手に触れる。彼女はその概念を理解し、静かに回して空間を切り開いた。廊下に敷いた絨毯の深紅が瞳に映ってくるりと歪む。

 出ていきざま、振り向いて少女はまた微笑んだ。


「……イーリ、早くおけが治してね」


 息を呑んだのはどちらの乙女も同じであった。二人は顔を見合わせて、は、と小さく喉を揺らした。

 一瞬だけ、少女は年相応の表情をした。閉ざされた十年が、彼女の瞳の中にあった。いつも揺らぎないはずの光が不安定な円を描き、あの幼い小さなパルギッタが、確かに白い翼を背に掲げた満十六の乙女であるかのように見えた。


「やはり天子でいらっしゃるのだわ……」


 呟くとソファイアも部屋を出ていった。

 残された手負いの乙女は放心したまま扉をずっと眺めていた。それに気が付いてからも、何故だか眼を逸らすことができなかった。

 しばらくしてようやく眼を閉じると、イリュニエールは深く息を吸い込んだ。溢れるほどの花の香にむせかえる。けれども嫌な感覚ではないようで、ゆっくりと眼を開きながら、そのまま何度も呼吸をした。

 (ああ、また、胸が)

 温かい。気付かないうちに彼女はそう囁いていた、……まるで誰かに言い聞かせるようにして。

 何故か、急に瞳が潤む。

 悲しいはずはなく、どこかが痛むわけでもないのに、声を上げて泣きたくなった。幼子のように咽びたくなった。咄嗟に右手で口を塞ぐ。

 (何故だろう、涙が出てくるとは)

 どういう場面で人が泣くのか、知らないまま彼女は育った。

 (悲しくなどないのに)

 (辛くも、ないのに……)

 頭がじんじんと熱っぽくて考えがまとまらない。どうしようもなくなって、イリュニエールは声を殺して泣いた。




 ≫next chapter.

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やっと第一章が終わりました´∀`*長かった……そのわりに進んでないので調べてみたらプロットの二分の一の進展具合でありました。実に無意味なプロットですね。

第二章からは一・五倍の速度を目指します。頁数に反映されます。


続きは次回のあとがきで。



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