scene1-7 過ぎ去る夢の繰り返し
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「あの翼はどこに消えたのだろう」
●●1
母さまは本当にお花がお好きでいらっしゃいました。聡明な方で、私が尋ねることは大抵ご存知でしたが、お花に関することは尚更で、名前を知らないお花などなかったと思います。路傍の雑草ですら慈しんで名を呼んでやるほど、お花を愛していらしたのです。
私もよくお花を摘んでお叱りを受けましたわ。生命を手折ることは神に対する冒涜であると。そのようなことを繰り返していれば必ず冒涜者になってしまいますよ、と。
母さまはそれほどまでにお花を愛していらっしゃいました。だから、私も嬉しかったのです、母さまが大好きなお花になられたことが。
……でも、その代わり母さまはもう二度と、私とお話をすることもおできにはなりませんが。
●●2
パルギッタの足取りはいつもと変わらない。ただ、その美しい真珠色の髪がどうしても人目を引いてしまうので、少しばかり居心地の悪そうな面持ちだ。
二番区には貴族向けの販路がある。少女は今そこで花束を購入しているところだ。今日の連れ添い役がソファイアなのは、先日の一件でイリュニエールが負傷してしまったからである。
「ねえソフィー、どれならイーリが気に入るかしら」
「ふふ、パル様のくださるお花ならなんだって喜ぶでしょうよ」
「じゃあすきなの選んであげよう」
色にこだわらずにパルギッタが選んだ花は、全体的に小ぢんまりしたものが多かった。そこに一輪、大きめの花をソファイアに選ばせて、真ん中にすれば出来上がり。これを店員に渡して見舞い用に包装をしてもらえば完璧である。
落ち着いた茶鼠のドレスは鮮やかな花束とよく合った。受け取ってにっこり微笑む小さな淑女。
そうして楽しい気分で買い物をしているパルギッタを、瞬きもせずじっと、物陰から見つめている者がいた。“彼”はしきりになにかぶつぶつ呟きながら、片時も少女から眼を逸らさない。どう見ても怪しい動きのこの男、それでも服装や容姿はまともである、むしろかなり上等の物を着ているようだ。場所も場所であるし、それなりの位を持つ貴族なのであろう。
花屋からパルギッタとソファイアが出てくると、彼はしばらくそわそわしてから、やがて意を決したように二人の後を尾けた。
まだ若いこの男は貴族にありがちな太った身体ではなく痩身だった。それに背もあるので、なんとなくひょろりとした印象だ。こざっぱりした顔立ちに、少し癖のある小麦色の髪、鳶色の瞳が穏やかな光を宿している。身のこなしも上品だ。
なんだか尾行中という事実がすごく残念な人物である。
そうしてとても残念な貴族の青年は、当然ながら他人の後を尾けるという行為には慣れていない様子であった。致命的なことに、途中、彼は周りにいた何人かに話しかけられていた。彼の顔が広いのか、たまたまその界隈に知り合いが多かったのか、理由はわからない。
とにかく彼は思いきり気付かれていた──パルギッタでなくソファイアに。乙女はわざと人気のない通りまで来てから振り返り、彼女特有の棘を含んだ優しい声で彼を咎めた。
「女子の後を尾けるだなんて殿方のなさることじゃあなくってよ?」
そこでやっと気付いたパルギッタは、ぴゃっとソファイアの背後に隠れた。そのとき抱えた花束が揺れたけれど、少女はなんとか落とさずに済んで、甘い匂いの花粉を散らしながら息をひとつ吐く。
さて、逃げ場のない残念な貴族の青年はどうしたのかというと、おとなしく正直に謝罪することにしたらしかった。
礼儀のとおりに帽子を脱ぎ、乙女と少女の前にすっと歩み出て、右腕を胸に当てて一礼、どこをとっても無駄のない上品な動き。さしものソファイアも感嘆を隠せない様子である。というよりむしろ、彼女は本当に驚いていた。
「まあっ、ヴォントワース候の御令息ではありませんこと? 嫌だわ顔をお上げになってくださいまし、わたくしのような低い者に左様な──ああそうでしたわパルギッタ様、」
「パル……ギッタ……?」
その名を聞くなり彼はぱっと顔を上げた。そうしてソファイアの陰から顔を覗かせたパルギッタと眼が合うと、にこり、懐かしそうに微笑んだ。しかしパルギッタのほうはぽかんとして、彼の顔をまじまじと見つめるばかりだ。
それでも笑顔にほだされたのか、少女もふわりと笑い返した。しかしこの状態で二人に挟まれたソファイアは少し気まずい。
「パルギッタ様、前に出てくださいまし。謝罪をお受けなさるのですよ」
はあいと明るく返事をして乙女の背後から少女が現れる。青年はパルギッタに目線を合わせるように膝をついた。
「お兄さんのお名前は?」
「僕はロシュテン・ヨエルク=ヴォントワースと申します。不作法な真似を致しましたこと、どうかお許しいただけませんか?」
パルギッタはくちびるに指をあてて、考えているような動作をしてみせた。
「いいよ、ゆるしたげる。ロッテはいい人だもの。わたしきちんとわかるのよ」
そう言って鮮やかに笑うパルギッタを、青年──ロシュテンは眩しそうに見つめた。それは融けそうなほど温かく、柔らかく潤み、優しい光を灯した瞳であった。
ソファイアはその様子を眺めながら、小首を傾げずにはいられない。
ヴォントワース家は由緒正しき第一貴族であり、ロシュテンの父で現当主のアッケル・ネヒガート=ヴォントワースは、貴族議会の議長を務めている。これは法帝に次ぐ最高職である。次期当主と目されているロシュテンも、将来その地位を継ぐであろうことはほぼ間違いない。
その彼が何故このような突拍子もない行動をとったのだろうか。それも相手はパルギッタ、畏れ多くも時の皎翼天子である。
理由を知りたい。けれどもソファイア・セレト=クードゥールはしがない第二貴族の娘。いくら勝気で口の達者な彼女でも、ロシュテンに対してそれを尋ねるような無礼を冒すことはできない。
もしかしたらパルギッタが訊きはしないかと微かに期待をしてみたけれど、少女は天使のようにきらきらした笑顔を溢すばかりで、終にはソファイアの腕を引いて帰ろうと言い出すのだった。曰く、『遅くなったらミコラが心配しちゃうよ』。
乙女は仕方なく、ではこれで、と青年に告げる。
「それではまた改めてお詫びに伺わせていただきますね。ご機嫌よう、パルギッタさま」
「ばいばいロッテ!」
少女は羽撃くように大きく手を振った。花束を抱えているせいだろうか、まるで花畑の真ん中にいるかのようだ。
至極穏やかな表情で見送った青年は、彼女の小さな背中が群衆に紛れて見えなくなるまで、黙ったまま見守っていた。
いや、彼の瞳にはパルギッタの姿が、ずっと映っていたのかも知れない。あるいはその背に翼を見たかも知れない。飽くほどに白く清らかな、そして鋼鉄の鎖さえ断ち切られるほどに強靭な、空を抱く一対無二の翼が。
──故に彼女は天子と呼ばれる、
「パルギッタ……」
過ぎ去った夢の名を囁いて、ロシュテンはそのまま雑踏に消えた。
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