scene1-5 廃墟の街
受難者は死にながら生きる。
それが彼らに与えられた贖罪の術である。
『忘世目録』
●●1
少年は息を殺して、「それ」を見つめていた。彼は賢かったので、物音を立ててはならないことを、すなわち「それ」を邪魔してはならないことを悟っていた。
高みから刃が落とされる鈍い音。ずざざ、ざ、なにか柔らかいものが引き裂かれる音までよく聞こえた。それでも悲鳴はなかったが、反射的に少年はびくりと肩を震わせる。慴れではなかった。空気がはち切れそうなほど張りつめたのに気づいたからだ。
──なんて悲しい涙の流しかたをするのだろう……!
理由もなにも知るはずのないこの賢い少年は、眦に熱いものが込み上げるのを感じた。彼は、「それ」を見つめていたから。けれどもくちびるを噛んで耐えた。邪魔してはならない。見ている者がいるということを、向こうに気づかせてはならない。
『ごめんね、ごめんね、』
女性は幽かに謝り続けながら、震えている“彼女”を抱き上げた。小さな彼女からは粉雪に似たものがはらはらと散る。美しい光景だ。悲しいほどに美しい。
雪? 少年はそこで訝った。もうそんな季節はとうに過ぎたはずなのだ。けれど彼にはすぐにわかった──雪よりも白いそれの、思いの外残酷な意味が。彼は賢すぎたのかもしれない。少年自身がのちにこのことを振りかえってそう感じたほどだ。「あれ」を理解するべきではなかった、と。
そうして少年はまた彼女に眼を遣る。美しい彼女を見遣る。
美しいものの美しすぎる最期など、見てはならなかったのかもしれない。全ては偶然であり、気まぐれであり、宿命なのだ。そうでなければ少年は、どうして彼女をこんなふうに見つけてしまったのだろうか。わからない。誰がそうさせたというのだろう。
少年は息を殺してそれを見つめていた。彼は賢かったので、見つめる他にどうしようもないことも、これが最初で最後の出逢いだということも察していた。噛み締めていたくちびるから赤い血が滴った。
女性と彼女の去りゆく足音がする。少年は肩を震わせて顔を背けた。その行方を追ってはならないとわかっていたから、そうしてその自制に耐えるほど彼は誇り高かった。
──さようなら、
少年は顔を上げた。もうあの二人は遠く離れたようだった。黙ったまま、そしてそれまで見つめていた場所に背を向けて、少年は帰路を辿り始める。
しかし彼は、誇り高く賢いこの少年は、それでもまだ幼さを捨ててはいなかった。彼の自制は十数歩の行程のうちに弛みを見せたのである。彼は立ち止まった。逡巡の末、振り返った。誰もいない。少しだけ安心した。
──さようなら、僕の、刹那の夢。
●●2
パルギッタはぴったりとイリュニエールにくっついていた。そうするように言われたのである。
乙女達の向かった先は郊外の廃墟であった。この郊外という言葉は、ここでは旧五番区のことを指すらしい。旧五番区は六番区以降と四番区を隔離するだけの空白の地帯である。
本来ならば六番区以降も郊外と呼ぶべきであるが、五番区に誰も住まなくなって以後、別個の地区として統轄されるようになったため、旧五番区を郊外と呼ぶ。そして旧五番区には今も居住者はいない。今後も決して現れないだろう。
乙女達とパルギッタの暮らす館は一番区にあり、もちろん旧五番区とは直通していない。
中流貴族や聖職者の住む三番区を通り、下流貴族の多い四番区を経由しなければならなかった。その都度、乙女達は各々の実家に挨拶をする。家人──この場合、殆んどは家政婦や女中であった──は皆パルギッタを見てはっとし、それから乙女を心配そうに見つめるのだった。その瞳には情愛が満ちていた。
けれどイリュニエールだけは、どこにも立ち寄ることがなかった。
そうして旧五番区に到着した乙女達の手には不可思議な形状の武器が握られている。しかも各々、形も装飾も違う。
カルセーヌの持つそれは槍の一種であろうか。長い金色の柄の先に、二尺ほどもある刄が煌めいている。刀身には細かく溝が彫られ、そこに光を受けて鏡のように跳ね返し、対峙する者の身体に複数な紋様が浮かび上がる仕組みである。そして繊細な金の輪が、花弁のように幾重にもそれを包んでいる。
女子の手にするものにしては随分大きく、しかし装飾過多な代物を、カルセーヌは細腕で苦もなく提げていた。これは他の乙女達にも言える。
「四方から征きましょう。わたくしは北から」
「わたくしは南ね」
「でしたら私は東からにしますわ」
「そして私とパルギッタ様が西ですね」
四つの方角を守護する乙女。ゆえに彼女らは守護方女と呼ばれる。四人ひと組と定まっているのもそのためである。
「では、各々の健闘を祈ります。……必ず遂げよ!」
『諾!』
一声を境に乙女達は散り散りになった。 パルギッタはイリュニエールの手に牽かれて歩く。相変わらず乙女の手は温かくなくて、古傷やまめの痕で凸凹だった。
向かった廃墟の西側には雑木林が拡がっていて、まだ陽も高いというのに薄暗く、空気が湿っていた。地面も柔らかい。
足許の雑草を薙ぎながら二人が歩いてゆくと、木枠のひび割れた大きな窓があった。暗くて中は殆んど見えない。ただ、窓に近付いた途端むっと不愉快な臭いがした。なんとも言えない有機的なそれにイリュニエールは顔をしかめる。
「いいですか、パルギッタさま」
「なあに?」
「これから私達はこの建物に侵入します。そして、中では恐ろしいことが起きているようです」
「うん、」
「まずご自分の安全を第一に考え、私の側から離れぬようにしてください。ただし、私のしていることと、この中にいる者のことを、きちんと眼で見て確認してください。それがどれほどおぞましいものであっても、決して眼を逸らしてはなりません」
少女は頷く。
イリュニエールはそれを確かめると、壊れた窓に手をかけて力任せに開いた。彼女にしてみれば、ここは普段なら硝子を割って入ろうとするところであったが、今はパルギッタがいる以上そうもいかなかったのだ。このような狭い場所で武器を振りまわすわけにはいかない。
錆びついた金具の悲鳴が耳をつんざく。先ほどからの異臭のほかに、かびや埃の臭いもきつい。なんとか窓を半開きにして、一息を挟むとイリュニエールは屋内への侵入を試みた。
パルギッタもそれに続く。
廃屋の中は一面に墨を流し込んだかのごとく、どっぷりと暗闇に浸かっていた。昼間とは思えぬほど空気が冷たく、また、かの異臭が鼻腔を強かに突いた。
ただ、パルギッタはその暗い世界にあって、ぼんやりと真珠色の燐光を放っていた。
→Next sense.