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scene1-4 二人だけの“ひみつ”

 

 ユフレヒカは山に住む。さすれば世界を見渡せるので。

 受難者は平野に暮らす。さすれば聖者に見守られよう。


 粛清の鳥は樹上に居る。そうして忌日に総てを喰らう。



『受難者の言葉』

●●1



 まだ少女だった彼女の目前で、彼女の母親が喰われていた。血の繋がった母親だった。

 母親の喉は右半分がぱっくり割れて、そこから活火山のように鮮やかな動脈血が噴き出していた。そこに殺戮者がかじりつく。そいつは下品にもずるずると音を立てて血を啜り、骨から剥ぎ取るようにして、美味そうに肉を喰べた。彼女はそれをただ見ていた。

 そいつは母親から服を剥いで、腹の肉にも着手した。腸を引きずり出してくちゃくちゃと咀嚼したのち、力任せに乳房を裂いて、やはり美味そうに平らげた。それからしばらく臓物で遊んでいたが、やがて飽きたらしく太股から肉を毟り取って、また喰べた。とても美味そうに。

 少女はそれを、片時も眼を逸らすことなく見つめていた。

 脚と尻を散々喰べて満足したそいつは、おもむろに眼球を抉り、握ったりつついたりし始めた。それも潰れてしまうと、指先についた体液を舐め取って、それから人間のような声で鳴いた。しかし言葉を成してはいない。

 そうして初めてそいつは彼女を見た。彼女はそもそもそいつを見ていた。お互いに見合っていたはずなのに、とうとう眼が合うことはなかった。


『……おまえは喰えない』


 突然そいつは口を利いた。彼女が何故かと問う前に、そういう決まりだ、とそいつは答えた。


『生きて、それから()れを殺しに来るがいい。腹を空かせて待っているぞ』


 渇いた声音でそいつは嗤った。あまりに耳障りなそれに耐えきれず、彼女は耳を塞いだ。それで、ずっと抱えたままでいたものが、ぼとりと床に転がった。

 それは、この殺戮者に喰われて殆んど骨しか残らなかった彼女の父親の、原形をわずかに留めるだけの腕だった。

 彼女は脳裏に冷たい白が拡がるのを察知して、最早立っていることもできず床に崩れると、ただ自衛のために悲鳴した。そいつは面白そうにそれを見ていたが、いつの間にか煙が立ち消えるようにいなくなっていた。

 あとに残されたのは、家主のない邸と真新しい墓石、そして、消えない憎悪の灯火だけ。



 ●●2


 カルセーヌは顔面蒼白で帰宅した。出迎えた乙女達にはその理由が窺えたらしく、彼女らはしばらく何か相談をしているようであった。

 ただ一人、蚊帳の外であるパルギッタはぼんやりとそれを眺めていた。乙女達は時折ちらと少女のことを見遣るので、あるいは少女に関わりのある事象なのかも知れないと思った。だが、実質あまりに幼かったパルギッタは推測すらも叶わずに、悪いことでなければいいなあとだけ、心の隅に書き留めたのにすぎない。


「お連れするべきでしょう。いずれはパル様が御手を降されるのですし」

「でもあんまりじゃありませんか……まだあんなにお小さくいらっしゃるのですよ? それなのに、あんなものをお見せできるはずがありませんわ」

「翼がない、というのは不味いわね。それじゃあいざという時に逃げられないもの」


 頭であるカルセーヌは黙ったままで、些か妙な光景だった。


「違います。翼がないからこそお連れするのです」

「イリュニエール、あなたまさか」

「そのまさかです。……この機会を逃して、皆さんは一体いつパル様が翼を取り戻されるとお思いなのですか?」


 乙女達は苦い顔で黙り込んだ。水時計の音だけが、絶えず静寂を震わせていた。

 イリュニエールの意見が正当であることは総員承知の上で、せめてパルギッタがもう少し大きいなら、これほど決断に悩むこともなかったはずである。急いているようだが、実際彼女らには余裕がなかった。未知の領域に隠された少女を捜し出すのに時間がかかりすぎたからだ。

 端から聞いていたパルギッタには、言葉の端々に現れる『翼』ばかりがいやに強調されて感じられた。少女はその意味こそ理解してはいなかったが、聞くたび何故かもどかしさを覚えるのだった。

 身体の奥がざわざわと疼く。それは声なき悲鳴である。背を喰い破って再び世の主たらんとする、それの切なる存在証明なのである。

 (やだなあ、)

 少女は自分でも知らぬ間に、背へその小さな手を伸ばしていた。そうして、縁の盛り上がった傷痕を撫ぜながら、ゆっくりと瞳を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは必ず、あのどこまでも飽くほど真白くて、花が咲き乱れる世界である。まるで雪の朝のような神々しいまばゆさの、光に充ち満ちた色のない楽園。少女が十年近い歳月を過ごした無垢の情景。

 あの場所は永劫そのものだった。どれほど昔に遡ろうと、あるいは時を隔てた未来であろうと、色を取り戻したりはしまい──ましてや光が消える日などあり得ない。

 何故なら母がまだあそこにいるのだ。母は、花を愛した美しいひとは確かにそこで、花になったのだ。

 重く冷たい刃を思い出す。乾いた涙の痕を知覚する。ああ、未だ全てを覚えている、でもまだその意味がわからない──それから、母は呟くように言った、

 (母さまとパルの、二人だけの、ひみつ……)

 ふとイリュニエールがこちらに一瞥をくれた。乙女の瞳に灯った暗い光に、パルギッタは気付かない。


「例え何があろうとも私がお守り致します。これで問題はございませんね?」

 (たとえ何があろうとあなたがそれをやり通すのです。わかりましたね?)


 乙女達は渋々といった様子で頷いた。ミコラなどはそれでも逡巡しているようだったが、話はそれで続くことはなく、乙女たちは各々私室に控えた。パルギッタはイリュニエールについてゆく。

 (でもね母さま、母さまがいらっしゃらないから、これはパルだけのひみつなのよ)

 乙女のくすんだ赤錆色の髪をぼんやりと見つめながら、その冷たい手に少女は飛びついた。驚いたように乙女が振り向く。にっこり微笑んでそのまま進むと、上から小さな溜め息が墜ちてきて少女の髪を撫でた。



→next scene.

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