scene0-0 今度はきっと幸せな夢を
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──かつて滅んだ世界の話をしよう。
花が咲き乱れ、乙女が微笑み、その中心にはいつも、翼を持った美しい人がいた。
誰もが幸せを望んだのに最後は涙に呑まれてしまった、そんな世界のお話を。
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◎◎
イリュニエールの鎌が切り裂いたのは、ユフレヒカの身体だった。翼の形をしたその切っ先は肋骨をめちゃくちゃに砕いて、その中の柔らかいところを斬り潰したので、彼の胸からは泉のように血が噴き出した。それがイリュニエールの指先まで赤く染めていく。
どうして、とイリュニエールは呻く。どうして"それ"を庇うのですか。
彼の背後には異形が佇んでいる。その名は黒翅玉、名前に表されるとおり、黒い翅に包まれた者。見た目も中身も愛らしい天子の幼子のそれとは異なり、邪悪でいびつでおぞましい化けもの。
もはやアルエネルですらないそれを、どうしてユフレヒカが庇うことがある。
だが、ついに崩れ落ちた彼はうっすらと笑ってすらいた。そして震える声で答える。──愛しているからです。
それを聞いたイリュニエールは眼を見開く。その言葉に驚いたのではない。
その表情と声を知っていたからだ。それが誰のものだったか、誰より彼女がよく知っていた。理由はもはや言うまでもない。
「ろ、……ロシュテン様……?」
血がぬめって柄が手から滑り落ちる。べっとりと汚れたそれを、不思議と汚いとは思わなかった。血毒だなんてとんでもない、こんなに美しい清らかな液体を、今まで目にしたことがない。
「おさないころ……おみかけ、した、あの……ちいさな、てんしを……わすれることが、できなくて……」
苦しげな目線が宙を彷徨って、やがてヘルケヴァネに行き着く。異形の者は黙って静かに彼の言葉を聞いていた。黒い翅が何もないのに細波のように揺れて、まるで彼女の周りだけそよ風が吹いているようだった。
ロシュテンの両腕が、震えながら上へ伸びる。空を抱こうとするように。
それをそっと受け取って、ヘルケヴァネはロシュテンの首元へ屈みこんだ。
「ぼくは、ずっと……あなたに、もういちど、おあい……したかっ……」
「……」
「あ、いして、います、ぼくの……くろいはねと……しろいつばさの……てんし……」
ロシュテンの手がヘルケヴァネを撫でる。黒い翅が剃刀のように鋭く指先を切り裂いても、彼は愛おしそうにそれに触れる。その手に重なるヘルケヴァネの手もまた、小さく震えている。
「わたしも、ロッテ、あなたが大好きよ」
天子のような声でヘルケヴァネは答えた。それを聞いてロシュテンは満足そうに眼を閉じる。
「おやすみなさい、星盗人の末裔よ。……あなたの魂が二度と返ることがないように、私は輪廻を完全に壊してしまうから、安心してお眠り。
ああ、どうかあなたの最後の夢が幸せなものでありますように……」
それからヘルケヴァネは乙女たちに向き直った。翅に包まれたふたつの眼光が、冷たく輝いている。
先ほどまで野蛮な獣のようだったヘルケヴァネは、今ではまるで理性ある者のような眼差しをしていた。そしてやはり、彼女の周りにだけ吹く風があるのかもしれない。翅が互いに擦れあって、まるで鈴のような音を立てている。
白い翼がそれぞれたなびき、空を抱く。
「……さあ、世界を編みなおしましょう。
あなたたちは、礎として、私の意思を伝えるものとして、新しい世界に繋ぎましょう。
カルセーヌ、あなたの麗しき潔白の心、ミコラ、あなたの愛おしき慈愛の心、ソファイア、あなたの篤き奉仕の心、そしてイリュニエール、あなたの狂おしき一途な心を」
それから彼女は今度はカイゼルを見る。
「あなたは言葉を伝えるものとして、新たな柱に刻む文字としましょう」
最後にロシュテンの亡骸を抱きしめて、その額にくちづける。
「……もちろん、この世界であった過ちが次の世に繰り返されることはない。私はそのために存在している。世界は学び、生まれ変わるたびに、よりよいものになっていく。
いつかヘルケヴァネが必要ではなくなる日のために、私は、ヘルケヴァネは今、この世界を壊す……」
「我々は死ぬのでしょうか?」
「すべての命が平等に種に返るだけの話です。恐れることはありません」
そのときヘルケヴァネは笑っていたのかもしれない。翅に多い尽くされていて、その顔はほとんど見えないけれど。
いつの間にか楽園にも雨が降り始めていた。ぽつぽつと滴る程度だったそれが、少しずつそこにいるものたちを濡らしていく。それはヘルケヴァネであってもそうだった。異形とはいえ天子であるにもかかわらず、冷たい雨に翅を枝垂れさせ、身体を凍えさせていた。
なぜならそれはあくまで器であって、身体は血肉のある人間と同じだからだ。
やがて楽園の結界は壊れた。土色をした水が流れ込んできて、あたりに満ちていた光はあっという間に消えうせる。濁った空が思いのほか近いけれど、かつてこれを見上げたユフレヒカは、どのような思いだったのだろうか。
乙女たちはヘルケヴァネに寄り添った。逃げようとする者は誰一人いなかった。カイゼルもまた、カルセーヌの肩を抱いて、親友の亡骸とともに最期をすごすことにした。
濁流がものすごい勢いで流れ込んでくるというのに、不思議なほど静かだった。雨が棘のように肌を打って痛めつけてもそれを辛いとは思わない。それどころか温かくすら感ぜられる。
いつしか世界から色が消えた。音が消え、暑さや寒さも消えた。
けれどもそれは、少しばかり寂しいことではあったけれど、辛く悲しいできごとではなかった。
◎◎
泥の海が渦巻いているのをその人は見ていた。何を感じるでもなく、ただ「観察」していた。
世界がひとつ終わろうとしているのに、慌てるでも嘆くでもなく眺めていられるのは、その人がこの世界の住民ではないからだ。ただ終わると聞いたのでようすを見に来ただけだった。そうして行われた終末を見て、こんなものかと彼は思った。
危なっかしいとは思っていたのだ。直接姿を現して統治を行うなんて、彼らとしては危険が多すぎる。
実際にこうして頓挫してしまったのだからこの危惧は杞憂ではなかった。
「けれどもエサティカ、あなたの世界は美しかったよ」
それに参考にもなった。やはり介入するのは得策ではない。初めに幾つか条件を置いて世界を創造したら、あとはなるように任せて見守っていくのがいちばんよいのだ。それがたとえどんなに歯がゆいことであっても。
やはり人間は難しい。複雑で、曲がりやすい。
それでも彼ら以上に発展力の高い生物も少ない。居住地を数箇所に分けただけで全く別の文化を作り出してしまう。言葉も文字も、食べるものも、衣服や装飾品も、信仰の形も規模も、彼らは一度として同じものを再度作ったことがない。驚くべきことだ。
次に何を始めるのか想像もつかない。あまりに面白いので、いつも人間を採用してしまう。
人間が戦争を好みすぎて全滅してしまった世界もあった。土地を広げようとした結果、自然を破壊して滅びに向かった世界もあった。人間はなぜか異常に破滅との相性がよいらしく、条件が悪ければほとんど栄えず滅ぶこともある。
エサティカはそれを憂えたために優しさと愛をたくさん置いた。思いやりが必要だと思ったのだろう。
そうしてできあがった世界はほとんど戦争を経験しなかった。自然も損なわれることがなく、どこも豊かで温かみに溢れていた。確かにそれは美しい世界であったのだ。
ただ、あまりにも相手を思うがゆえに自ら傷ついて歪み、非業の涙に溢れていた、そんな悲しい世界でもあった。
「次の条件はどうするんだい」
「決めていません。ただしばらく他の世界を見てこようと思います。それで条件が決まるまで、ここはあるがままに任せておくことにします。……よいと思うものを幾つか引き継がせておくので、すぐ壊れることはないでしょう」
「そうか。よければ一度ぼくの世界も見に来るといい」
「ええ、ぜひ」
エサティカはいちばん大きな山を見下ろして、最後に呟くように言った。
「……ヘルケヴァネが泣いている。あれほど壊すことを心待ちにしていても、いざ壊すときはやはり辛いのね」
あるところに、どこまでも群青の海が拡がっている世界がある。
そこは幾つかの島が点在しているだけで、国どころか文明もまだ作られていない、まだ原始の時代にある。もちろんそこには神話はなく、人々が崇める神もない。ただ風が吹き、木々がそよぎ、花が舞うのを、通りすがった人間が不思議そうに眺めているだけだ。
人々がこれからどんな世界を築くのか、誰も知らない。
それは世界の創り手であっても同じ。だから彼らはいつでも、愛おしそうに、興味深げに、世の成り行きを見守っているのだろう。
土の溟海 水の楽園 了
長い間ありがとうございました。
また次の世界が開くまで、しばらく不凋花研究所にでも籠もっておりますので、お暇な方はどうぞそちらもご覧ください。