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scene5-8 翼の帰還


「嘴は北に向けなさい。常に進むべき道を指すために。

 鉤爪は南に向けなさい。地を掴んで揺らがぬように。

 翼は西に広げなさい。いつでも新しい雲を運ぶように。

 尾は東に広げなさい。太陽を落としてしまわぬように」


『守護方女回訓』 項目第三、方器の構えについて


●●1


 冷たい水が降ってくる。空の彼方の、眼では見えないほど遥か高くから。

 朝から夜まで止むことのない激しい雨が、大地を罰するかのように強かに打ちつける。

 これは恵みの雨ではない。土壌(つち)に包まれていた将来糧となるはずの種でさえ、流れ込んできた濁流に呑まれてあらぬところへ洗い流されていく、そんな雨だ。河が溢れ、木々を食い破ってそこに暮らす獣たちを翻弄し、うねりが人里まで押し寄せてくると、まるでそこに海が拡がるようだった。

 かつてこのような事態を経験したことのない平原の人々は、為すすべなく水面に消えていった。

 山里の近くに暮らしていた人々は、高い場所に避難することで生き永らえたかと思われた。しかしいくら登っても足元を水が追いかけてくる。やがて山頂に辿り着いても、気づけばすぐ膝の上まで濁った水に浸かっている。

 雨は止まずに降り続け、水嵩は増していく。水は胸元まで上がり、身体を冷やす。凍えたまま身動きが取れなくなって、一人また一人、暗い水の中に落ちていく。

 ハネア=キイに登ったものもいた。そして彼は振り返り、目の当たりにした。

 世界のすべてが水に呑まれて渦を巻いているのを。

 もうどこにも逃げ場はない。最高峰ハネア=キイですら、今やそのほとんどが没していた。


 ある貴族の男性は、最後に妻のところへ行った。普段なかなか会うこともできない、別宅に暮らす妻の元へ。彼女は何も知らないけれど、ただ夫の来訪を喜んで、微笑みのうちに水に呑まれた。

 ある女性は絵を描いた。最後の一筆をカンヴァスに置こうとしたその瞬間に、彼女の邸宅は濁流に押し流された。

 ある男は歌を歌っていた。とてもいい気持ちだった。外から迫ってくる洪水の音を聞いて、それをメロディ代わりに歌詞をつけた。彼の人生最後の歌は、きっと名曲だったのだろう。

 ある少女は貧民街の隅に蹲っていた。母親はここにいろと言ったきり何日も戻ってこないが、探しにいくにも道がわからないので、とにかく言いつけどおりにそこに座っていた。やがて地面に泥水が流れ込んできて、彼女のスカートを濡らし始めても、ずっとそこから動かなかった。

 ある家には赤ん坊がいて、眠っていた。

 ある場所では鎖でつながれた犬が、迫ってくる恐怖から逃げようと必死でもがいて、やっとのことでついに首輪を噛み千切った。鉄砲水がくる数瞬前のことだった。



 牧師はその朝、日付を間違えて種を蒔き、子供達は揃って森の入口を目指すであろう。

 海はやがて色が飽和し、空も銀の光を注ぐであろう。

 聖なるユフレヒカは街を見下ろして嘆くであろう。

 粛清の鳥はトーエあるいはケチェスを長とするであろう。

 彼等の嘴は尽く同胞(はらから)を啄み、彼等の脚の鋭利なる爪に、地は割かれるであろう。

 陸地の全てを煉獄に変えたのち、銀は星となって水に舞い降りるであろう。


『天説百廿四項六節:マケロの予定』



 ●●2


 そろそろ終わるときが来たようだわ。

 初めまして。私はアルエネル、いちばんはじめのエサティカであり、すべてのエサティカを連ねる者。

 いいえ──今となってはアルエネルというのも、もはや符号に過ぎない。私はエサティカであり、エサティカであった者。だから今の私は厳密に言えばエサティカではない。すべてが変わってしまったから。

 ユフレヒカ、あなたが変えた。

 私を、裏返してしまった。


 ひとつ悲しいことをお知らせするわね。もうこの世界は今日で終わります。突然だけれど、終末をもたらすものは私ではないから、私の意思だけではどうにもならない。引鉄は引かれてしまったの。

 いいえ、ユフレヒカ、あなたではないわ。初めからいつか終わる予定ではあったのよ。

 私は、我々は、何度も世界を創り直しては、よりよい世界を模索している。あなた方はよく勘違いをしていたけれど、私たちは「創る存在」であって「決定する存在」ではない。初めに条件を幾つか置いて、その結果どのように拡がっていくのか、あるいはどこかで自滅して潰れてしまうのか、それを繰り返すだけ。そして「創る存在」である私たちは、やはり「壊す存在」とも異なるもの。

 そう、私にも対となる、「壊す存在」がいるのです。

 私たちに名前はないけれど、便宜的に置いた皎翼天子(エサティカ)の称号を私の名前とするのなら、彼女にも何かあってもいいかもしれません。そう、例えば黯翅玉(ヘルケヴァネー)というような……なんといっても彼女は終末までずっと黒い玉の中でずっと眠って待っていましたから……。

 そして今はエサティカが眠る番が来ました。ヘルケヴァネはとっくに目覚めて、私の背の中で飛び立つ瞬間を待ち続けている。私が身体を渡すまで彼女は何も出来ないから、もう何年も待ちくたびれた彼女はきっと、早く世界が滅ぶのを待っている。早く壊したくて世界の歪なところをいつも探している。私の耳元で、あれはいけない、あの生きものは災いではないか、と。

 人間という複雑な生きものを採用してから、彼女の諫言はひどくなった。

 ──あれは間違いが多い、すぐ失敗しては他人のせいにする。欲が深くて必要以上の富を求め、そのために周りを傷つけ、しばしば争いを起こす。あんなものは滅ぼしたほうがいい、おまえにはそれができないけれど、わたしにはできる──。

 それがあまりにしつこいので、幾多のエサティカが訴えた。この口喧しい翼をどうか私の背から()り落としてください、と言って、彼女らは進んで断翼台に上っていった。

 パルギッタたちの母であったシェルジットも、そうだった。彼女は私たちエサティカの器として生まれたけれど、他の天子たちがそうであったように、彼女自身はふつうの娘だった。狂ったユフレヒカに取り込まれているアッケルが現れたときも、彼女は怯え、彼から逃げたがった。

 それを許さなかったのもまたヘルケヴァネだった。

 世界の歪みを絶つにはどこかで新しい因子を取り入れなければならない。これまで天子を犯した者はいなかった。これを受け入れればきっと何かが変わる。それは再生の手がかりかもしれないし、あるいは破滅の鍵となるかもしれない。結果はやってみなければわからない。

 私もそれを承諾してしまった。幾つかの魂が苦難の運命を強いられていることを知っていたから。

 そういうふうに創ったつもりはないのに、どうしても同じ輪廻のひずみに巻き込まれてしまう娘たちがいたから。……そう、それが、あなたたち四人のことです。初めこそ、稀な難儀を負ってなお健気に立っている姿を讃えて聖女に召し上げたけれど、それが何度も──数え切れないほどの回数生まれ変わっては繰り返されるのを、私は見てきた。すぐにおかしいことに気づいたけれど、私はそれらを変える力を持たない。

 変えられるのはヘルケヴァネだけ。だから私は彼女に託した。シェルジットに、その苦痛を受け入れさせた。

 そうして私は、シェルジットは、双子を産んだ。

 ひとりは人の子。見てくれこそ天子の形をしている、けれど形ばかりでなんの力も持たないパルギッタ。

 そしてもうひとりは、今の私の器である「パルギッタの片割れ」は、眼を覆いたくなるようなおぞましい姿で生まれてきた。あんな生きものを私は初めて見た。中身は間違いなくエサティカの器としての用を足せるけれど、あの化けものを人の前に出していったい誰がそれを天子だと思うだろうか。

 「パルギッタの片割れ」は、エサティカにはならないだろうと、私は理解した。

 これは……きっとヘルケヴァネの器なのです。今までそんなものは存在しなかった。私は初めから彼女のために器を用意したことがないし、だから見たことがなかった。


「そうでしょう、ヘルケヴァネ。何度も翼を断たれるうちに、あなたは独立しようと考えた。それで自分の器が欲しくてシェルジットを唆したのでしょう?」


 ──ああ、




 ああ、そうだとも。

 そうしてついに宴の日は来やった。さあ、乙女たちよ、祝っておくれ。今日が私の()まれる日ぢゃ。




 乙女たちは、見た。

 刹那のうちに天子の身体を突き破り、内側から無数に生え伸びて、少女の全身を覆い尽くした暗褐色の翅を。そのひとつひとつが鋼の刃のように鋭く尖り、自らの血を浴びてぬらぬらと不気味に光るのを。

 そしてその合間から、めちゃくちゃな大きさと長さの翼が何本も飛び出すようにして突き出している。それらはどれも天子のそれらしく純白に輝いているけれど、本来背に一対であるはずなのに、どう見ても頭やら足やら関係のないところからも複数、どれひとつきちんとした対をなさず位置も大きさもちぐはぐだ。

 愛らしかった顔は翅に隠れて殆ど見えないのに、ふたつ並んだ碧緑の瞳だけがなぜか爛々と輝いて見える。

 まさしくそれは、化けものだった。


「ひ、ひ、ひぃぃぃひッ、やった、やった、やった!」


 そいつはいびつな笑い声を上げる。男とも女ともつかぬ、しわがれた下品な声だった。


「初めまして、ヘルケヴァネと申します……そしてさようなら、よりよい世界のために!」


 カイゼルは思い出した。終末説の一文、"粛清の鳥はトーエあるいはケチェスを主とするであろう"……ユフレヒカの従者とされるこの鳥たちは鷲の翼を持つといい、また別の説によれば、トーエの翼は烏のそれであるという。すべての光を吸い込んでしまったような漆黒の翼は、まさに今目の前にいる異形の天子の姿から連想できる。

 創られた世界はいつか必ず滅びるときがくる。そのとき鳥は二羽現れる。それは天子がふたりいるという意味でもあり、また、天子の内に異なるふたつの神が宿ることを指していたのかもしれない。

 そうだ。

 自分はこれを知っている。知っていた気がする。はるか太古の昔から、この日が来るのを。


 カルセーヌは理解した。もはや目の前にいる人は、この世を救うはずの女神ではないと。

 慈しみ育ててきた少女はもうどこにもいない。世界はいびつに歪み、そしてひどく唐突に終わろうとしている。それを止める手立てはない。歴代の天子が抑え続けてきた負の衝動が今解き放たれてしまったのだから。

 恐らくそれをもっとも恐れていたのはエサティカ自身だったはずだ。だからこれまで一度もヘルケヴァネの器を作らなかった。"それ"に形や力を与えてはならなかったからだ。

 その彼女が名前を与えてしまった。もうヘルケヴァネを止められないと、エサティカは認めたから。

 だから自分も認めなくてはいけない。悲しいけれども、これが、揺らがない現実なのだ。


 ソファイアは涙を流した。軋みをあげる魂の輪廻のなかで過去何度もそうしてきたように、泣いた。

 寂しがりの彼女はいつだって誰かを失いたくはなかった。行かないでと追いすがり、結局自分の手で握り潰してしまうのに、それを繰り返さずにはいられなかった。それが苦しくて悲しくて人との関わりを絶ったこともあったが、そうして孤独のまま最期を迎えるのはもっと辛かった。

 たとえ化けものの姿をしていても、中身はあの愛しい幼子だと信じている。抱きしめて連れ戻せるのならいくらでも抱きしめよう、たとえそれでこの身があの黒翅でずたずたに裂けたとしてもかまわない、そう思った。

 でも現実にはそれができない。脚が竦んで動けない。それほどあれが恐ろしい。だからただ、泣くしかなかった。


 ミコラは"それ"を、哀れだと思った。壊すことだけを存在の理由とし、その瞬間が来るまでは何の自由も与えられないその怪物のことを、心底から憐れんだ。

 そうして、こうも思った。まるで私たちのようだ、と。

 守護方女は本来天子の身辺の世話と警護を担当する乙女たちのことだが、ミコラたちは方女になってからずっと仕えるべき天子がいないまま、ただケオニを屠るものとして存在していたからだ。ケオニがいない時期はほんとうにすることがなくて暇だった。ケオニ討伐を依頼する壮報がくるのをみんな心待ちにしていたほどだ。

 そんな、人殺ししか能のない方女と、世界を壊すしか目的を持たない可哀想なヘルケヴァネは、どこか似ている。

 だからミコラは黙って見守ることにした。せめて彼女が本懐を遂げるのを、誰も邪魔しないように祈りながら。


 イリュニエールは、方器を振り上げた。

 

 ロシュテンは──ユフレヒカを受け継いだ最後の聖者は、駆け寄って両手を拡げた。



●●3


 血まみれの夢の中に彼女はいた。初めそこを訪れたときからずっとそうだった。復讐を果たすまでは絶対に幸せになどなってはいけない、そのためのあらゆる要素を排除して、朴訥なものとして生きてきた。

 なぜなら彼女は生き残ってしまったから。溢れる血の海の真ん中で、そこにいたにも関わらず、みんな食い殺されてしまったというのに、彼女だけは腕ひとつ失うことなく生き延びてしまったから。それを嬉しいとか幸運だというように思ったことは一度もない。それは身体じゅうに重い枷がついているのと同じことだったから。

 イリュニエール・デュソロウは、あの夜自分も死にたかった。

 それなのに冒涜者は答えた。『おまえは喰えない。そういう決まりだ』。

 それが許せなかった。そんな決まりを考えたものが許せなかった。そして今、目の前にいるものが、そうなのだと直感した。

 これがあの冒涜者に命じた。イリュニエールを喰うなと命じた。なぜならこの魂がエサティカの案じる苦しみの宿命を負ったものだったから。──次の方女として選ばれることが定められた身だったから。

 それがイリュニエールには、許せなかったのだ。


「おまえだ」


 理解すると同時に大鎌を振り上げた。翼を模した青い鎌は、鳥が飛び立つような優雅さで空を掻いた。

 そして花が舞い散るように鮮血が散ったのが、イリュニエールの眼に滲んだ涙に映っていた。



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