scene5-6 顧みたまえ東方を
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むかしむかし、あるところに、とてもこころのやさしいむすめがいました。
むすめはまずしいいえのこどもたちに、じぶんのパンをあげました。
それからびょうきのひとには、くんできたみずをぜんぶのませました。
じぶんはパンのかわりにくさをたべ、みずのかわりにすなをのみました。
そのやさしさをみたてんしさまは、むすめをしゅくふくされたのです。
──むかしばなし『せいじょナナヤのおはなし』
●●1
雨が降り始めていた。冷たく凍えるような滴を吸って、次第に重くなっていく外套の裾を引き摺るようにして彼は歩く。
隣には悄然とした娘を連れている。
彼女はぬかるむ大地を裸足で歩いて、つま先が泥に塗れていくことに気を留めることもないまま、白い腕をだらりとぶら下げていた。その背には萎びた藁のようなものが下がっている。それがかつて純白の翼であったことを、もう誰も思い出せないほど汚れている。
思い出してくれる人などいないことも、恐らく彼女はよくわかっているだろう。意識があるとすれば、の話だが。
雨が降っている。木々に茂った葉を打ちつける音が、途切れることなく続いている。
空は暗く濁り、濃灰色の雲が泡立つように山の向こうから吹き込んでいる。遠くでは雷鳴を予感させる轟音が響いている。不思議なほど風はなく、雨垂れは垂直に地を穿つ。
肌が痛むほどの寒さの中で、ふたりは歩いている。
どこへ向かっているのかはわからない。一歩進むたび、彼の手にした杖が軋みを上げる。
間に合わない、と彼は呟いた。
このままでは間に合わない。もう空が泣き始めている。悲痛な声で泣き叫んでいる。
「……かあさま、うみはこわい」
突然、ぽつりと娘が呟いた。彼はそれを聞いて深く項垂れる。剥きだしにされている娘のか細い肩の上を、薄黒い水滴が流れ落ちていく。降り続けている泥水から肌を守る術を、彼女は持たないままでいる。
雨が降っている。
●●2
ハネア=キイを含むウリュデ山脈へは、国民生活区域から何里も離れているため、どれほど急いで馬車を走らせても三日はかかる。ロシュテンがいなくなったのは昨日のことで、すでに今日はもう陽が暮れはじめているうえに、雨まで降り出しているとなれば、さらに時間がかかってしまう。とてもではないが間に合わない。
しかも、カルセーヌは残りの方女たちも連れて行くつもりだろう。一人は怪我人で山登りなど自殺行為に等しい。
この問題を果たしてどうするべきか、カイゼルは悩んでいた。カルセーヌはそのとき隣にはいなかった。先ほどから屋敷内をうろうろと歩き回っているようで、恐らく登山の支度でもしているのだろう。
そうする間にも雨が激しくなっていくのが、音を聞いているだけでわかる。
「カイゼルさん、ミコラをお願いします」
呼びかけられて振り向くと、そこにはなぜか槍と刀を抱えたカルセーヌがいた。少なくともそれは山登りのための装備ではないだろう。彼女の背後には、同じように方器を胸に抱いて俯いている紅毛の乙女がいた。
「それは……」
「イリュニエールの方器だけがありませんでした。他のものは何一つなくなってはいない……イリュニエールはこの屋敷から出てはいなかったようです。この意味がおわかりになりますか?」
「けれど貴女が先ほど、ハネア=キイに行ったのだと」
「そうです。私は……私たちは、その場所への行きかたを知っている。詩を詠んでわかりました。あの山を知っている。もうすでに一度行っているのです。いちばん最初に……パルギッタさまをお迎えしたときに」
わけのわからない言葉を口走るカルセーヌが、またときどき別人の顔をしている気がしてぞっとする。とにかくミコラを連れてきてほしいと言われ、カイゼルは急いで乙女の部屋へ向かった。
数刻前よりも腐敗臭がひどくなっている気がする。雨のせいかいやに湿気った寝台の上で、ミコラは何かを察したように起き上がっていた。そうして現れた男に青ざめた顔を向けて、少し口端を歪めた気がするが、笑おうとしていたのだろうか。
婚前の若い娘の身体に触れる、というのは本来失礼な行為にあたるため、カイゼルはまず謝罪の言葉を述べた。
それに対してミコラは小さな声で、かまいません、と返したように思う。あまりに小さかったのでほとんど聞き取れなかった。時間がないので聞き返すこともせず、カイゼルは乙女の身体を抱き上げた。
小柄であるのは知っていたが、想像以上に軽かった。
「──連れてきましたよ! さあ、説明していただけますか」
再び居間に戻ったカイゼルに、カルセーヌは薄く笑む。
「どの貴族の屋敷にも地下室がございますでしょう。あなたのお屋敷にも」
「ええ、書庫があります」
「それと同じように、この方女屋敷にも儀式場があります。ほんとうに小さくて普段は全く使わない……最初にここに来たころなんて入り口すらも見つけられなくて、そのせいで天子様をお探しするのに十年もかかってしまいました」
カルセーヌとソファイアが歩いていくのを追いながら、まさか、とカイゼルも気づき始めていた。シェルジットがパルギッタを連れて消え、以降十年間途絶えた天子の足跡。そして今からもう一年ほど前になるのがパルギッタ発見の報だった。
守護方女が天子を発見し、方女屋敷で保護している。発見場所は伝承にある『光の楽園』。
その楽園とかいう場所の行きかたをカイゼルは知らない。いや、方女以外の誰もが知らないはずだ。その場所は聖書に語られはするけれど、具体的な地理などは一切不明で、宗派によっては人が宗教的に訓練した死後に到達できるとするものもある。
それが、まさか──方女屋敷の中に?
乙女たちは黙って屋敷の奥へと進んでいく。台所や浴室など生活に必要な部屋がいくつか並んでいる先に、何に使っているのかわからない空の部屋が二部屋ほどあるらしい。家具も何もないがらんどうの空間が今は埃っぽく感ぜられた。片方は壁に傷などついているところから、方器の訓練部屋だったのだろうか。
そして乙女が入ったのはもうひとつの空洞部屋だった。壁もきれいなままだ。
ただ、本来ならば床いっぱいに拡げられていたはずの絨毯がめくり上げられていた。露わになった床には奇妙な文様が描きこまれていて、よく見ればその形に合わせてところどころに溝が入っている。大陸東部で盛んに作られている寄木細工を思わせる意匠だ。
「これは……これが、地下への入り口ですか」
「はい。この床を決まったように動かすと開けられる仕組みで、そういえば、これを最初に解けたのはイリュニエールでしたね、ソファイア」
「……ええ」
乙女は静かに頷くと、その場にしゃがみ込んだ。そして、その震える手が床の模様に触れたのを、カイゼルも見ていた。
想像はできた。何が起こるのか。ただ、実際に目にしたそれは思った以上に緻密で複雑なものであった。
がたがたと軋みをあげながら、床材が模様ごとにばらばらになって動く。こちらが動けばあちらの固まりが外れ、こちらが解ければあちらが噛み合って動かなくなる。ひとつの木片を押し込むと思いのほか離れた場所で別の木片が飛び出し、どんな機巧なのか勝手に隙間へ隣の床材が滑り込み、そんな動作を繰り返していくうちに床の模様がめまぐるしく変化していく。
こんなに精巧かつ巨大な寄木細工は見たことがない。しかも一軒の邸宅を支える床にこのような仕掛けを施すことなど、カイゼルの知る限りこの世のどんな建築技術を用いても不可能なはずだ。
驚いているうちにソファイアはどんどん細工を解いていって、最後には床の中央がぽっかりと開く形になった。初めは何の変哲もない花柄であった床の模様は、今やその穴の周囲を四人の女性が取り巻いているという図柄に変化していて、おそらく守護方女を表したものだと思われた。それぞれが手にしている道具は小さいながらも方器によく似た色と形をしているのだ。
肝心の穴は薄暗く、内部がどうなっているのかはわからない。階段や梯子の類も見当たらないが、どうやって下りるのだろうか。ただでさえ乙女をひとり抱きかかえているカイゼルには、それが何より不安だった。
するとカルセーヌはそこでカイゼルを振り返って、手にしていた刀を差し出した。翠緑の縅の、そして随所に美しい装飾のある、少し角ばった形をした刀だった。
「これはミコラの方器です。扉を潜るのに必要になります。手が使えないミコラの代わりに、今はあなたが持ってください」
「男の僕がこういった御物に触れるのは気が咎めますが……これにどんな意味があるのです?」
「それはご覧になればお分かりになります。
ソファイア、貴女から行きなさい。私は殿を務めますから、カイゼルさんとミコラは、ソファイアに続いて……さあ、急いで、時間がないわ」
方女頭に急かされて、乙女がそっとカイゼルのほうを振り返る。真っ赤に腫らしたままの眼をミコラに向けて、何も言わずにじっと見ていたのは、そこに彼女の存在を確かめていたのだろうか。
やがてソファイアは自らの方器を、鎖を垂らして鎌の部分を穴の中へ入れた。そのときどこからともなく甲高い音が聞こえた。金属をぶつけ合ったような、教会の儀礼で使う鈴にも似たその音の中で、乙女は一歩を踏み入れる。そして、もう一歩。カイゼルには穴の上に立っているように見えたが、彼女は落下することもなくそこに佇んでいた。
そして目瞬きをするくらいの一瞬の間に、乙女の身体は光のようなものに包まれて跡形もなく掻き消えてしまっていた。
「い、今のは!」
「同じように、して、くださいませ、ヴォントワースさま。刃を……七枚、あるので、すべて広げていただけますか」
動揺を禁じえないカイゼルに、腕の中のミコラがかすれた声で囁いた。言われて見れば渡された方器には、中央の最も大きな刃を挟むようにして、三対の薄い刃が重なりあっている。それぞれ透かし彫りなど戦闘には不向きな形状をしており、色合いからも明らかに装飾用と思われる刃で、表と裏で刃の向きが異なっていた。中央の刃だけが両刃ようだったので、ミコラの指示に従って、カルセーヌに手伝ってもらいながら残りの刃の背を押したところ、ちょうど扇子のような形に広がった。
準備を整えたところで、ゆっくりと穴の前へ進む。
やはり中が何も見えない。その奥には夜の闇よりも暗い空間が続いているように思えるし、あるいは始めからそこに穴などないのかもしれないとも思う。恐る恐る、脚を伸ばす。
大丈夫です、とミコラが言う。まさかこんなふうに年下の娘に励まされる日が来ようとは予想だにしなかった。
そして、そのあとどうなったのか、カイゼルはよく覚えていない。
ソファイアのように光に包まれたのかもしれない。
痛みなどはなかったから、穴に落ちたのではないことだけは確かだ。それにミコラを落とすようなこともなかった。
ほんとうに"それ"は、一瞬だった。
とりあえず感覚としては、そう、とてもよく晴れた日の朝に、鳥のさえずりを聞きながら眼を醒ましたときの、あのえもいわれぬ爽やかな気分に似ている。とはいえ何か生きものの鳴き声を実際に聞いたわけではなかった。ともかく辺りは眩く輝いていて、よく見えないほどだ。
ひどく白い空間にいた。足元はふかふかと柔らかく、土や草があるのがわかる。
ただ、ひとつどうしてもわからないことがあった。
いつの間にか周りに乙女が集まっていて、ミコラに下ろしてほしいと頼まれたので、できるだけ岩などなさそうな場所に優しく下ろした。方器も返した。刃の戻しかたがわからなかったのでそのまま渡したが、ミコラは慣れた手つきでさっと振って、あっという間に元通りにしてしまった。
そういえば手は大丈夫なのだろうか。その包帯の下はめちゃくちゃになってしまっているはずなのに。
「ミコラ、手は」
「……大丈夫です。ここには痛みも存在しないようですわ」
「では、ここは……」
ひとり状況を飲み込めていないカイゼルに向かって、三人の乙女は柔く微笑む。
──ひとつ、どうしてもわからないことがあった。
「ここは、私たちが光の庭園とお呼びする場所です。天子さまが休息をとられる地でもあり、かつてシェルジット様が世を儚まれた折に、幼いパルギッタ様をお隠しになったのもこちらでした……」
「イリュニエールたちもどこかにいるはずです。きっと、そう遠く離れてはいないでしょう」
「ここは時間がひどく滞っているから、パルギッタ様は十年経っても小さなお姿のままでしたし、その間何も口にせずとも生きていらっしゃった。……ミコラの手が痛まないのも、そうした奇跡の賜物なのかもしれませんわね」
カイゼルは、自分の感覚すら信じられない気持ちになっていた。全身に何も感じないからだ。足元の草花の柔らかな感触はわかるのに、先ほどまで乙女を抱えていた腕の疲労も、度重なる異常なできごとで疲弊した心の痛みも、何もかもが消え去ったように、ない。己の身体の重みさえわからない。
ここに着てからどれくらいの時間が経ったのかもわからない。ほんの数分のようでもあるし、もしかしたらもう何日も経ってしまったのに、自分では気づいていないだけなのかもしれない。
どうしても、わからないことがある。
目の前にいる三人の娘たちは何者なのだろう。もちろん名前は知っている。カルセーヌ、ソファイア、ミコラ。守護方女という重要な役目を担っていることも知っている。なんなら一人は自分の婚約者だ。
だが、しかし、それならなぜ、まるで今初めて会ったような気がするのだろう。
彼女たちの声や仕草や言葉のすべてに覚えがあって、間違いなく本人だと断言できる。けれど、そう、例えば何年も離れ離れになっていた人と再会したような、そんな感じがするのだ。確かによく知る相手であるけれど、その中にまったく自分の知らない時間が流れているような。
自分のことさえ今はわからない。カイゼル=リュゴ・ニルヴァーとは誰なのだろう。どこで生まれてどのように育ち、どんな道を通ってここに辿りついたのだろう。確かめようにも自分の持っている記憶が信じられない。
初めて来たはずのこの場所ですら、どこか懐かしさを覚えるのだから。
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