scene5-5 諾いたまえ北方を
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叡智の泉は季を問わずして凍り付き
その水を口にした者万学の才を得る
汝 泉護る聖女の言唄に耳を欹てよ
『マケロ=聖イスタート覚書』 河泉の聖女スフミの項より抜粋
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●●1
ソファイアは部屋に入れてくれなかった。ただドアノブが歪み、扉の木材が割れて一部欠損していたので、外からでも話しかけることくらいはできた。しかし堅い金属部品ですら形を変えてしまうほどの、この破壊をもたらす力が直に生身の人間の手に触れたのだと思うとぞっとする。
小さな穴からはただ悲痛な乙女の泣き声だけが響いていて、まるで地獄の一層目のようだとイリュニエールは思った。永い責め苦を味わう囚人がそこにいるようだった。
いくら読んでもまともな返事はない。聞き取れるのは、来ないで、入ってこないで、私に近寄らないで、という類の、途切れとぎれの懇願だけだ。そうしてその中で、何かが軋みを上げるのも断続的に聞こえる。
「ソファイア……」
しかしイリュニエールとしてもなんと声をかけていいのかわからない。彼女が引き起こした惨事はとてもじゃないが、誰にとっても多少の慰めでどうにか過ぎ去ることのできるものではない。それに何より、──これはミコラ自身によって痛ましくも肯定されてしまったが、もうミコラは二度と方器をとることができないだろう。
ミコラの方女脱退を結果的に幇助してしまったことにもなる。恐らくそれを最も望まなかったのはソファイアであっただろうに。
そうしてこれから、両手を失ったミコラはどうやって生きていくのだろう。実家に帰されて、傍付きの女中に何から何まで介護を受けなければならないが、それはどれほど乙女にとって苦しい人生だろうか。初めから結婚するまで実家を出ることもない生粋の高位貴族であるならまだしも、彼女は中位貴族の出であり方女としての教育も受け、自分のことはもちろん人の手助けをするのが当たり前になっていたのだ。
自分で服も着られない箱入り娘とは違う。自立した生活を知っている乙女が、誰かの手を借りなければ生きてゆけなくなるのだ、屈辱を感じないはずはない。
そして就命中の方女が後継者を育てることもできずに辞任せざるをえなくなったのだ。方女をひとり育て上げるのにどれほど手間と費用がかかることか、世界としてもこれは手痛い損失である。
ソファイアのしたことは到底許されるものではない。
そして同時に憐れみを禁じえない。誰よりソファイア自身が己を責め苛み続けることが、イリュニエールにもよくわかるからだ。彼女は少しお節介がすぎることも多かったけれど、それだけ周りのことをよく気にかけている情の深い娘で、そして誰より自尊心も強かった。
「ソフィ、可愛そうに。あなたはいつもそうね。いつも……引き受けてしまう」
鍵穴に向かってパルギッタが囁いている。その間もソファイアの自責の嗚咽は止まない。
「私は無力だと感じるわ。ひとりの娘さえ救えないのだと、あなたやあの子に何度教えられたかしら……」
イリュニエールは隣の天子を見下ろしたが、なぜだか心では逆に、その少女を見上げているような心地がした。そして言葉が喉元に下りてくるような感じがした。乙女もまた同じような無力感を共有しているからだろうか。
──いいえ。頭の中で誰かがすぐさま否定を発する。
ほのか淡い光を放っている天子の肩に何か、陰のようなものが見える気がした。実体があるわけではない、ただ天子の歴史と同じだけの永い長い年月の間に降り積もった、パルギッタ自身の後悔の念のようなものではないか……ふとそう思い、そして、パルギッタと眼が合う。
少女は笑む。けれど泣いているような顔に見えた。
「あなたは、誰なのですか?」
気がついたらそんなことを尋ねていた乙女に、小さな手が差し出される。
「この私には名前はないの。不吉だと言って名づけなかったから。けれど今ならわかる気がするわ……私はきっと、つける必要がないことを知っていたのね。誰も呼んでくれる人がいないのだもの」
「パルギッタさまというのは……」
「ほんとうはあのナージェの名前だったのよ。あの場所から戻ったときは、私はまだエサティカではなかったから、パルギッタの片割れというのが自分の名前だと思っていたの。名前をつけずにそう呼んでいたのを、その意味さえ知らなかったから」
イリュニエールはその手を取る。少女はどこかへ歩き始める。ソファイアを置いていくことに気が咎めて立ち止まる乙女に、エサティカは続ける。
「このままずっとソファイアが泣き止むことはないわ。いつもそうだったからよくわかる。涙が枯れ果てるより先に受難者になってしまう……。
それより私たちが行くべき場所が他にあるはず。イーリ、あなたが、ほんとうに行きたい場所よ……」
繋がれた手をじっと見下ろして、乙女はその意味を考えた。恐らく聞かなくても天子にはその答えがわかっている。彼女はすべてを知っていて、それなのにこの世界に干渉することができない。
そんなことがあるだろうか。天から降臨鎮座したもうた我らの女神が?
けれど、そうでないならなぜ、どうして天子はミコラを救ってやらなかったのだろう。
どうしてソファイアがミコラを壊してしまうまで放っておいたのだろう。どうして世の中は絶えずケオニを生み出しているのだろう。どうして方女が、どこにでもいるただの貴族の娘が訓練を受けてまで、慣れない武器を持たねばならないのだろう。
エサティカを見つめる。やはり彼女は、泣いているのだと思う。
方女になってからずっと四人で生きてきた。色々なことを見聞きして、それぞれが違う答えを出すこともあったし、全員意見が一致したこともある。楽しかったとき、彼女らも一緒だった。辛かったとき、必ず誰かが一緒に居てくれた。
ミコラはもう両手を使えない。
ソファイアはもう立ち直れない。
カルセーヌも自身の代に起きた未だかつてない悲劇の責を負わなくてはならない。方女頭として監督責任を問われるのは必然で、恐らく長い審問があるだろう。何かしらの罰が下るだろう。
イリュニエールは初めて愛した人に陥れられて、その人はもうどこかへ行ってしまった。そのことを思い出すと胸の裏側を鎌で切り裂かれたような心地がする。
この痛みを安らげる魔法があるのなら教えてほしいと思う。それが得られる場所があるのならそこに行きたい。それがどんなに遠くても、辿り着くまでに何年掛かるとしても、ここでじっとしているよりはずっとましだと思える。
「どこに行けば、すべてなかったことになりますか」
「それは、すべてが始まった場所、でしょうね」
「ああ……そう……それならばエサティカ様、私たちが行くべき場所は、きっとあの……」
わかった。
イリュニエールには、わかってしまった。だから彼は、ロシュテン=ヨエルク・ヴォントワースは、突如としてそこへ向かったのだと。
だからあのときエサティカは、あのように言ったのだ。
●●2
カルセーヌからの早便でいち早くそのことを知った彼は、大急ぎで方女屋敷へと駆けつけた。
空は薄雲に覆われて、端を金色に染めつつあったけれど、その荘厳なさまを気に留める者はここにはいない。どうにか出迎えた乙女の顔に色濃い苦悩を見たカイゼルもまた、親友の不可解な行動のために心をすり減らしていたところであった。彼の懐には一通の手紙が収められていた。
友ロシュテンから突然別れの通告を受けたのは明朝のことだった。朝一番に彼の屋敷の下男が直接持ってきた、宛先すら名前のみで簡素に済ませた走り書き同然の紙切れ一枚が、そのままふたりの友情の重さであるとカイゼルには思えた。
ロシュテンは変わった。別人になったと言っても過言ではない。もはやカイゼルの知る彼ではないのだと、手紙の冷たさに思い知らされた。
そこへカルセーヌから助けを求める一報があって、大急ぎで駆けつけたらこの顔だ。
乙女を覆う疲労と混乱と苦悩の色が、美しかったカルセーヌを一日で老婆のように老いさせているのを見て、まだ事情を知らなかったカイゼルにも事の大きさだけは感じ取れた。ともすればそのまま倒れてしまいそうな乙女の肩を支え、とにかく屋敷の中へ入れてもらう。
もしかしたら、方女屋敷を訪れたのもこれが初めてだったかもしれない。いつもカルセーヌを送るので建物自体は見慣れているが、内装にはまったく覚えがなかった。もっとよく知っているような気がしていたのになぜだろうと、一瞬疑問に思ってふと、それもロシュテンのせいだったと思い出す。彼がしょっちゅう方女屋敷の話を聞かせてきたからだ。
方女の誰かがロシュテンの行き先を知っているかもしれない。ぼんやりとそう思った。
「何があったんです? そんなに悲しい顔をされて」
「……ソファイアに悪気はなかったのです。けれど、その、ミコラを……まずミコラが最初に、方女を辞めると言って──ああ、なんと言えばいいのかしら!」
カルセーヌはいつもの冷静さを欠いていて、まとまらない言葉で、それでも必死にことの次第を伝えようとした。もともと信じ難いような話であったから、断片的な文章を繋げてもなおさら不可解になるばかりだったが、カイゼルは根気良く聞いて、そしてミコラの部屋へと歩いていった。一言おいて扉の取っ手に指をかけたとき、かすかに室内から嫌な臭いがしたのを感じた。
「あ……」
そうしてそこに横たわる乙女を一目見て、悲劇が起きたのだと理解した。
詳しく聞く必要などなかった。原型がわからないほど膨れ上がった乙女の腕の、包帯の下がどんなにおぞましいことになっているのかは、漂っている悪臭から察して余りあるものがあった。単なる怪我でこのようになるはずがない。
傷口が化膿したにしても早すぎる。医学に詳しいわけではないカイゼルにもそれくらいはわかる。
あまりに惨い光景に言葉を失いながら扉を閉め、周囲をゆっくりを見回す。それほど広くないはずの廊下はがらんとして埃っぽく、続いている先々の他の扉はみな一様に閉め切られていて、そのうちひとつだけは一見してわかるほど変形している。どのような化けものが現れたならこんな状況になるというのだろうか。
その中でカルセーヌが無事であることに心から感謝したいと思った。誰にと問われたら、天子と答えてもいい。
他の乙女も怪我などないだろうか、遅れてきた心配を恐る恐るカルセーヌに伝えてみると、乙女はそっと眼を伏せて答える。ソファイアが、と。──あの子の心もミコラの腕と同じように壊れてしまった。
どこか遠くから、か細い嗚咽が聞こえてくるような気がするのは、そのせいだろうか。
「……パルギッタ様と、イリュニエールは?」
姿の見えないふたりの名前を出したところで急にカルセーヌと眼が合う。突然顔を上げた乙女が、今度こそ泣き出しそうな顔でカイゼルに詰め寄った。それが本題だと書いてあるような気がした。
だが、どこかようすがおかしい。カイゼルの両腕を掴んだ手の力が強すぎる。
「"天子様は……きっと、ここにはもう戻ってはこられないのです"」
とび色をした方女の瞳がぶるぶると見開かれている。愛しい人の尋常ではない姿にカイゼルは少しぞっとしたが、彼女が正気ではないことにすぐに気がついた。
これはカルセーヌではない。カルセーヌの身体を借りて、別の誰かが喋っている。カルセーヌの中にカルセーヌ以外の誰かがいる──ロシュテンにも幾度か感じたのと同じ感覚があったので、カイゼルはひどく胸が痛むのを感じた。彼女までもがいなくなってしまったらと思うと、恐ろしかった。
あなたは誰ですか。小さく尋ねるけれど、返事はない。
「"西方の守護方女は紺碧の翼、鎌持ちて罪びとの魂を刈り取る者なり。その性あわれに慎ましやかなりて真実のみを輩とする──不実を憎み、不義を罰す、不正を断じ、誠実清廉を尊ぶ"」
「カルセーヌ……」
「"ああ、ユフレヒカはなんと愚かな! 彼は高くを望むあまり、空を見上げてハネア=キイへ……なれど、どれほど遥かな山の頂であろうとも、その爪先が天に届くことはない。決してないのだ"」
ひゅうるる、とカルセーヌの喉が鳴る。
「"慈悲深き天子は憐れみをもってかの者を山に封ずる。歴史は繰り返すだろう"……」
そこまで言ってカルセーヌはがくりと項垂れた。腕を掴んでいた手からも俄かに力が抜けて、そのまま崩れ落ちそうになる乙女を、カイゼルはどうにか支えた。そして、この人はこんなに小さな身体をしていただろうかと、今さらになって思った。
ややあって再び顔を上げたときにはもう、その人はカルセーヌに戻っていた。
ただ疲れきった顔で、私は何を、とうわ言のように呟くのを、カイゼルはそっと制した。そして彼女を抱きしめて、このまま乙女がどこかへ消え去らないように祈った。誰にあてているとも言えない祈りだった。むろん叶えてくれるのなら、天子でもかまわない。
抱きしめたまま、カイゼルは問う。あなたは、いつか私の妻となる、カルセーヌ=ヒエムライネ・ビオスネルクですか。はい、と小さな声で返答があったのを、泣きそうな思いで聞いた。
「それで、カルセーヌ、今の詩文は……」
「わかりません。私には何もわからないのです。ただ、パルギッタ様は、確かにハネア=キイに行くと言って出て行かれました。イリュニエールはその供です。私は……大切な人と一緒にいるように、と言われました」
それで、あなたをお呼びしたのです。もちろん、ソファイアやミコラを置いていくわけにはいかなかったから、ここから離れるわけにはいかなかった。ふたりは私の大切な妹ですから……。
「でも、イリュニエールだってそれは同じです。カイゼルさん」
「……では、我々もハネア=キイに登るしかない」
カイゼルは言い、カルセーヌは頷く。呼ばれたような気がした。はじめから誰かがこうなるように仕組んでいたようにも思った。いつかそこに、行かなくてはならなかったのだ。
天子が降り立ったはじまりの地。
そして恐らくきっと、この地獄のような日を終わらせることができる場所。
→next scene.