scene5-4 慰みたまえ南方を
「麗しい娘がいたが、九つのとき腕を悪魔に食べられてしまったという。
以来、彼女の触れた草花は枯れ、パンは腐り、水は濁るようになった。
小鳥に触れたところ、その歌が失われたので、娘はたいそう悲しんだ。
過ちを繰り返さないようにと、娘は洞窟へ行き、隠者の暮らしをした。
その慎ましさを見た天子が祝福したので、娘は聖女に召し上げられた」
洞窟の聖女ペヌルの逸話
●●3
ややあってミコラが階下に下りてきたとき、まだカルセーヌは帰宅しておらず、図らずもふたりきりになってしまった。未だ罪悪感の薄れぬソファイアにとっては果てしない試練のように感ぜられた。
ミコラは乙女を見つけ、薄く笑むような顔を作る。彼女はそういう娘だった。ソファイアはどう返していいのかわからず、いや、きっと同じように笑みを返すべきなのだけれど、とてもではないが上手くできそうになくて、つい俯いてしまう。そして、ミコラは強いと、そっと思った。
きっとすごく無理をしているのに、形だけでも笑おうとしてみせるその心が、眩しい。
そのままミコラはゆっくりと歩いてソファイアの隣にくると、座ってもいいか、と聞いた。もちろん構わないわと、どうにか答えた。やっと聞こえるくらいの小さな声だった。
「ソファイア……ねえ、顔を上げてくださる」
「ええ、ごめんなさいね、わたくし……何と言っていいのか……」
「いいえ、何も……何にも、言わないで。ただ、私の話を聞いてくださるだけで」
ミコラの手がそっとソファイアのそれに重ねられて、ぬくもりに乙女は心臓を焼かれる思いがした。ゆっくりと顔を上げる。
なぜだか彼女も泣きそうな眼をしていて、ソファイアには、それだけでよくわかった。ミコラにはソファイアを責めようという気持ちなんてこれっぽっちもないのだと。お互いに傷ついて、これ以上は何もしてはいけない。
今さらながらソファイアはミコラを心から愛おしく思った。ほんとうに、今さらだった。方女になってからずっと、カルセーヌは方女頭として忙しくしていて、イリュニエールも馴れ合うのを苦手としていたから、ソファイアといちばん仲がよかったのもミコラなのだ。流行りの服飾や新しい仕立て屋の情報など、仕入れてから最初に話すのはいつだってミコラだった。
愛くるしい乙女はいつも楽しそうに聞いてくれて、相槌を打って、笑ってくれた。
カルセーヌにとってミコラが妹なら、ソファイアにとってもそうだ。もちろん性格はまったく似ていなくて、何度か喧嘩もしたし、武芸ではあっという間に追い越されて、悔しい思いだってした。
それでもやはり、ミコラのことが、大好きだ。大切な妹で、かけがえのない親友だ。
──どうして私はこんなに愛しい彼女のことを、一度でも南十字星に引き渡そうなどと考えたのだろう。
言い訳をするのなら、ソファイアは両親、いや一族がずっと古くから南十字星に与しており、彼らの思想を基盤にして育ってきた。そのうえクードゥール家で初めて大命をいただいて、舞い上がっていた部分もある。ゆえに必要以上に職務に忠実であろうとした、しすぎたのかもしれない。
それに、今でもミコラの考えかたを完全に理解はできない。ケオニに落ちた者のために心を痛めてしまうような優しさは、方女としては危ういように感じる……この点についてはカルセーヌも同意しているところだ。
けれどやはり、せめて相談くらいはするべきだった。
そのことについては反省している。心から悔いているし、必要だというならどんな罰でも受けるつもりでいる。
しかしソファイアの想いを打ち砕くように、ミコラの口から出た言葉は、まったく乙女の望むものとはかけ離れているものだった。
「私、方女を辞めようと思います」
ミコラの手が震えている。重ねているままだから、ソファイアにも伝わっている。
では、それなら、ソファイアの息が止まってしまったことも、ミコラに届いているのだろうか。
「ど、どうして! ああ、あたくしが、南十字星と通じているから、だから」
「……違いますわ。私はもうケオニを殺せないのです」
「ミコラ、ああミコラ」
「このままでは私はきっと、ソファイア、あなたを侮辱してしまう……あなただけでなく、カルセーヌさんやイリュニエールまで、……もしかしたら天子様さえも……」
任期を終える前に、すなわち次代の方女の選定を待たずに大命を辞した方女の例は、過去にない。
恐らく辞めたいと申し出ても法帝が許認しないだろう。守護方女は聖職で、たった四人の乙女にしか許されない天子の傍仕えである特質上、重要性においてはそこらの公職とは天地ほどの差があるのだ。
誰にでもできる仕事ではない。選ばれなければならず、また方器を扱うには十年の修行を必要とする。当然新しい方女候補の修行を監督するのも現職方女の仕事であり、次代の方女を一人前にすることで、やっと方女はその任を解かれるのだと言える。
仮に辞任が可能だったとして、次の東方守護席には誰が就くのか? その選定はどうするのか?
それにミコラの実家フィッケンベレンが社会でどのような扱いを受けることになるか、想像するのも恐ろしいことだった。方女に選ばれながら任を辞し逃げ出したなどということになれば、フィッケンベレン家の者はどのような場面においても差別され冷遇されることになるだろう。ミコラひとりの問題では済まされない。
最悪の場合、領地を没収され貴族籍も剥奪されるかもしれない。それなのにミコラは。
「決して、ソファイア、あなたを非難するために辞めようと言うのではないの。それだけはわかってください。私が……悪い娘なんです……、ソファイア、あなたの行いは正しかったのだわ」
「なぜ? どうしてそんなことを言うの?」
「あのまま南十字星に連れて行かれればよかったのかもしれない。恐ろしいけれど、きっと相応の罰ですもの……私はまだミケールのことを大切に想っているし、きっといつか、彼を殺したあなたのことを許せなくなる日がくるでしょう。ケオニを殺すすべての方女に憤って、自分さえも憎しみの対象になる日が。
……ねえソファイア、私の心はもう、ケオニになってしまったのかもしれませんわ」
ミコラは泣いているのに笑っている、そんな歪な顔をして、それでもケオニだなどと嘯きながら、ちっとも心は汚れていない。
柔らかすぎるほどに優しい乙女のままだ。誰もが愛したミコラのまま。だからこそ、その言葉が悲しかった。
「嫌よ……ミコラ、嫌よ、行かないで」
叫ぶようにソファイアは喘いだ。自分のせいだ、と痛いほどに思う。ミコラがなんと言おうと、きっかけを作ってしまったのは自分だ、ソファイアが南十字星を呼んでしまったのが原因だ。
彼らが思いがけず悪辣で乱暴であったことだけではない。ソファイアが一連の行動を通して、ミコラの方女としての有りかたや言動の危うさを指摘したからだ。
きっとそれ自体が間違っていたわけではない。ただ時期を省みず、そして性急すぎたのだろう。
ミコラにとって、ほんとうにあのケオニは大きな存在であったらしい。その彼のことで悩み苦しんでいた乙女に、目の前で失うという経験をさせた直後にあんな目に遇わせてしまって、……事情を知らなかったとはいえ、我ながらひどすぎる仕打ちだ。このような苦難の連続で弱りきってしまったミコラが、自分の気持ちに折り合いをつけられるようになるには、あとどれほどの時間がかかるだろう。
ミコラはまだ十六だ。すべて背負うには若すぎる。
だからこそ逆に、大命を途中で放り投げることによる重責を、これから負っていけるとも思えない。
一族ぐるみで受ける制裁にきっとミコラは今以上に傷つくことになる。そしていつか押し潰されて壊れてしまう。そう、いつか握らされた布花のように、見るも無残な姿になって。
行かないで。ソファイアは繰り返し喚く。──行かないで、私を置いていかないで。
ミコラの手を握りなおして彼女を繋ぎとめようとする。
何度も何度も、回数がわからなくなるほど同じ言葉を繰り返しているうちに、だんだんとそれが自分の言葉ではないような気がしていた。いつかどこかで、誰かにこの言葉をぶつけていた気がする。
行かないで。行かないで。行かないで。行かないで。
でもきっとその人は、待っていてはくれなかった。
「 」
そのときミコラが何と返したのかはわからない。言葉は途中で鋭い悲鳴にとってかわり、ソファイアがはっと気がつくと、自分の手が青紫色に染まってぶるぶると震えていた。手の甲には幾つも筋のようなものが浮かび上がっていて、その醜さといったら、ああ、なんということだろう。
幼いころずっと苦しめられた、あの悪魔の手ではないか。
「あ、あ、ああああああああ」
ソファイアは叫んで手を離す。代わりにぼとりと落ちたのは、もう元の形を思い出せないほど歪んでしまった、ミコラに繋がる白い塊だった。それがかつて一対の少女の掌であったことなど、誰かに教えてもらわなければわからないくらいにめちゃめちゃだ。
まだ手がぶるぶると震えている。骨と筋が軋んで気味の悪い音を立てている。
いつの間にかミコラはぐったりと倒れこんでいて、意識がないようだった。くちびるの端に泡が少し残っている。どれほどの痛みであったのか、想像することもできない。
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだ。乙女は戦慄いてその場にへたり込んだ。
次第に手の震えは収まったが、代わりに眼から溢れ出るものがあった。もうどうしてよいのかわからない。ミコラを助け起こしたいけれど触れるのさえも恐ろしい。
止まらない嗚咽が部屋に響く中、ふいに背後で扉の開く音がした。
誰が帰ってきたのだろう、誰でもいい、助けてくれるのなら。すがるような気持ちで振り返るとカルセーヌが立ち尽くしている。
「……ソファイア、一体何があったの」
ああ、方女頭よ、私は呪われているのです。
●●4
パルギッタとイリュニエールが屋敷に帰り着くと、入れ違いで男性が馬車で出て行くところだった。大きな黒い鞄を提げていたところから、どうやら彼は医者であるらしいが、屋敷で何かあったのだろうか。
イリュニエールの脳裏をよぎったのはソファイアの手のことだった。もちろんもう完璧に制御できるようになったと聞いているし、これまで一度も彼女が何かを壊したり誰かを怪我させてしまったようなことはないのだが、最近話を聞いたばかりだからだ。関係のないことだとよいのだが。
しかし嫌な予感というのは恐れるほどに当たってしまうものだ。居間には誰もいないので、探してみたところミコラの部屋に二人いた。部屋の主であるミコラと、付き添いのカルセーヌと。
ミコラの手には大仰なほど包帯が巻かれていて、もう手の形をしていない。
ソファイアは、と尋ねると、カルセーヌは首を振った。
「……あまりにも取り乱していて、今は寝かせてあります。麻酔を使いました。……できればあなたが付き添ってあげてほしいのだけれど」
「その、ミコラさんの手は」
「ソファイアが……その、強く握って、潰れてしまったらしくて……損傷がひどいので、元の形には戻せそうにないそうです。それにもしかすると、その……経過が悪ければ、切ることになるかもしれない、と」
「ああ、なんということに……」
あまりのことにイリュニエールは顔を覆った。どうして乙女たちには次から次へ、悲劇ばかりが重なるのだ。
騙されていた自分。大切な人を失い、身体も傷ついたミコラ。それに、……それに。
「どうしてソファイアは……あの子には悪気がないのに、きっとほんの少しだって、ミコラを痛めつけようなんて思ってはいなかったでしょうに……」
カルセーヌの嘆きが室内にこだまする。そうだ、またソファイアが加害者になってしまった。どうもカルセーヌは彼女の手のことを知っていたようで、自分にも責任があることだと、苦しげに己を責めている。
すると、違います、という声がした。かすれて小さなその声は、他ならぬミコラのものだ。
見ると寝台に横たわっていたミコラがうっすらと眼を開けて、どこか寂しそうにこちらを見ていた。
「カルセーヌさんの責任ではありませんわ。もちろんソファイアも悪くない。誰も、誰のことも責めてはいけない……。
いいんです。これで、もう方器が持てないのだから、心残りがなくなりました。だから、これでよかったんです。
ソファイアにも伝えてくださいまし。私はちっとも痛くはないし、辛くもないと」
ミコラはそう言って笑んでみせる。額には脂汗を浮かべて、肩を震わせて、きっと痛くないというのは嘘だろう。それでも彼女はその笑顔を崩さなかった。
それが、なおのこと、見ていて痛々しかった。
ここまでじっと黙って話を聞いていたパルギッタが、ゆっくりとミコラに歩み寄る。少女の小さな掌は、初め包帯の巻かれた手の上に翳されたが、さすがに触れることはなく、そのあとすぐミコラの頬を撫でた。ミコラは眼を細めてそれを受ける。
パルギッタの指はミコラの頬の上を滑って、そこに涙の痕を探すようだった。
「驚かされるわ。あなたは自分のためには泣かないのね。……前にもそんな子がいたけれど、あれはあなただったのかしら」
「あら、どなたでしょうか」
「いいえ、あなたは知らない人だから、気にしないで……とりあえず、今は休みなさい」
主の命にミコラは眼を閉じる。しかしとても眠れる状態ではないのだろう、静かに繰り返す呼吸が、どこか不均等な拍を刻んでいる。額の汗がするりと脇に流れ落ちた。
イリュニエールは水の入った盥と濡れ布巾を用意して、カルセーヌに渡した。自分はソファイアのほうへ行かなくてはならなかった。
→next scene.