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scene5-3 憐れみたまえ西方を

‐-‐-‐-‐-‐-‐


その娘には星のゆくすえを語る特別な力がありました

ひとびとは挙って娘が先見た未来の話を聞きたがります

けれども娘は自ら畏れて口を噤みました

その慎ましさを天子はたいそうお喜びであったとのことです


   ……『聖人伝』 星読のキリイエについて


‐-‐-‐-‐-‐-‐

●●1


 乙女の表情がいつにもましてすぐれないので、カイゼルは優しくその肩を抱きしめた。むしろそれ以上のことはふたりにはまだ難しい。せめて、せめてふたりの婚約を公のものにできたならよかったのだが、カイゼルの一存ではその件をどうこうすることはできなかった。

 カルセーヌは落ち着いた声で、ミコラについての話をした。

 これまでの大まかな経緯、そして乙女がすっかり自信を喪失してしまい、このままでは方女の任を辞してしまいかねない、ということを。そしてカルセーヌひとりの力ではそれを止められそうにないということも。

 もちろん残りふたりの乙女とパルギッタにもこのことは伝えている。原因になってしまったソファイアは黙りこくってしまったし、パルギッタも寂しそうな顔で「無理強いはできないものね」と言っただけで、説得してくれるらしい動きはなかった。ただイリュニエールだけは、一度ミコラと話がしたいと言ってくれた。

 ただミコラのほうで対話に応じる気力がないらしく、まだ実現してはいないそうなのだが。


「あの子は少し、繊細すぎるのかもしれません」

「ううん……申し訳ないが、僕からはなんとも助言を差し上げられそうにないな」

「お話を聞いてくださるだけでも充分です。……私は、もう十年もミコラの姉役をしていて、何の支えにもなってあげられないのが、悔しくてならないの……」


 俯き、血が出そうなほど強くくちびるを噛み締めるカルセーヌを、カイゼルは心配そうに見下ろしている。

 自分こそ悩み苦しむ婚約者に対して何もできないではないか。これから将来をともにする夫になる者として、これほど不甲斐ないことはない。乙女たちの問題についてはほとんど門外漢だとはいえ。

 それにカイゼルが無力であることは、カルセーヌに対してだけの問題ではなかった。


「ロシュテンも……」


 ぽつりと呟くカイゼルを、カルセーヌははっとして見上げた。


「彼も、近頃ようすが妙なんですよ。何か隠している気がするけれど、どうやら僕では役者不足のようで、何も話してはくれない。情けない話だ」

「ヴォントワースさんが……? そういえば、最近はあまり見えませんね」

「やはりそうか。前はあんなにパルギッタ様のところに通い詰めていたくせに……まさか今になって天子に愛想を尽かしたわけでもあるまいし、……」


 なんだろう、と腕を組みつつ、実はカイゼルにはひとつ可能性を感じることがある。以前ロシュテンが言っていた妙なことだ。

 パルギッタの中に、アルエネルの精神が生きている──どんな仕組みか魔法か、カイゼルにはさっぱりわからないが、似たようなことをアビン博士が書き残していたことも気にかかった。そのアビンがどうもケオニになっていたらしいことは、以前カルセーヌに聞かされている。天子を憎んだ男の末路としては妥当のようにも思えるが。

 ケオニの道に落ちながら自我や理性を失っていなかったというアビンは、もしかしたら、後年の著書を執筆していた時点ですでに人ではなくなっていたのではないか、とカイゼルは考えている。彼のものすごい憎悪と執念は、自ら貶められたことで一層深くなったのではないか……。

 そして彼の言うとおり、天子にそのような性質があるのなら、今のパルギッタはもうロシュテンが可愛がっていたパルギッタとは別のものなのかもしれない。

 だから彼の心がパルギッタから離れてしまった、というのがカイゼルの仮説だ。だがなんとなく、それは違うような気もしている。できればはっきりロシュテンの口から聞いてやりたいところだが、ここのところロシュテンには会っていない。

 彼のほうでニルヴァー邸に来ないし、カイゼルが尋ねようにも、いつもすげなく追い返されている。そのうち何度かは居留守ではないかと睨んでいる。拒絶されているのだ。


「確かなことは、ロシュテンに変化が起きたのは、ヴォントワース卿が亡くなって以降のことだ、ということくらいだよ」

「それは……つまり、お父上を亡くされた悲しみのせいで、ということですか?」

「どうでしょうね……ああ、失礼、余計なことで貴女を煩わせてしまった」

「いいえ、余計なことだなんて。パルギッタ様に関わることですもの」


 方女頭である自分は部外者ではないのだ、と言いたいらしいカルセーヌの強い眼差しを、カイゼルもまたじっと見つめ返した。このまま時が止まってしまってもいいかもしれない。一瞬だけそんなふうにも思った。

 実際、そうして見つめあっていたのがどれくらいの時間だったのか、ふたりは時計を見なかったので、わからない。



 ●●2


 イリュニエールは緊張していた。そうして言葉に詰まっている乙女を、ようやく目を醒ましたパルギッタはじっと待っているのだった。彼女宛に言伝てがあることをすでに知っているようだった。

 何度も繰り返し心のなかで繰り返してきた文句だ。一文字たりとも間違えたりはしない自信がある。

 しかしそんな自負とは裏腹に、イリュニエールは両の拳をぐっと握り締めたまま口を開くことさえできないでいた。ロシュテンから預かった、恐らくはとても大切な伝言を、天子に完璧に伝えなければならないのだという、自ら課した責がひどく重い。そしてそれだけではない。

 これを伝えてしまったら、何かが変わってしまうような、そんな気がする。

 だいたいにしてイリュニエールの知らないような異国の言葉──であろうと乙女は解釈している──をパルギッタに伝えたところで、教えてもいない言葉を彼女が理解できるとは思えない。少なくともイリュニエールの知っているパルギッタはそうだった。最近の、乙女にとって遠く感じるパルギッタであれば、なんとも言えないが。

 もし理解したのなら、少女はもっと遠い存在になってしまう。それはもはやイリュニエールの知るかわいらしいパルギッタではないからだ。


「ねえ、イーリ?」


 そろそろしびれを切らしたのか、天子が口を開く。


「何か、私に伝えることがあるんでしょう? 私は内容までは知らないのよ」

「は、はい……あの」


 乞われれば噤んでいるわけにもいかず、イリュニエールはやっと声を出せた。そしてどこか震えがちになる声で、ひとつひとつの発音を確かめながら、やっとその言葉を口にした。

 ほんのわずか、きっと簡単な文章なのだろう、短い言葉だった。

 そして語りながら今さらながらに気づいたことがあった。まったく知らない異国の文章かと思っていたが、どこかで聞いたような音も混じっているのではないか。日常生活ではまったく聞かないので思いつかなかったのだけれど。

 そう、たとえば、


「ハネア=キイ……そう……」


 少女は納得したようにそう言った。何がなにやらわからないが、イリュニエールがひとつ確信できたのは、やはり先ほどの文章には山岳の名前が含まれていたことだった。ハネア=キイ、この世界でもっとも古いとされる神山だ。

 一説では天子の降臨があった場所であるといい、山そのものを信仰する宗派も存在する。

 でも、なぜその場所を。そもそもこの伝言は一体どんな内容で、……どうしてパルギッタはその意味を理解してしまったのだろう。

 イリュニエールは悩んで、それでもやはり、尋ねた。ヴォントワース様はなんと仰ったのですか、と。それ以上の質問は恐ろしくてできなかったけれど、どうしてもそれだけは知りたかった。この伝言にどれほどの意味があって、どうして伝える役目に自分が選ばれたのか、それを知りたかった。

 ──ひいては、彼がイリュニエールを信頼したという事実が欲しかった。

 膨れ上がった感情が胸の裡で鐘を鳴らすように激しく響いている。きっと必死な顔をしているのだろう、じっと返事を待つ乙女を、パルギッタはしばらく無感動に眺めていた。

 そして、ふと。

 少女が浮かべた表情は、憐れみに満ちたものだった。


「可愛そうなイリュニエール……」


 期待に反するその言葉に、イリュニエールはかっと顔が熱くなる。なぜ天子に憐憫の眼差しを受けなければならないのか乙女にはわからないのだ。わかりたくないのだ。

 ああ、世の中には知らないでいるほうがずっと幸せなこともあるのだろう。かつてイリュニエールを見逃したケオニもそうだ。彼がどうしてそうしたのか、イリュニエールは知らないし、知りたいけれど、その術がない。それでも知りたいと願っている。きっとろくでもない理由に違いないとわかっているのに。

 わかっているのに。自分とロシュテンではつり合わない。

 彼ははるか高みの存在で、イリュニエールが届くような相手ではない。最下級の貧乏貴族の娘、しかも災害で親を失い、完全に資産も何もかもなくなって掃き溜めに向かうしかなくなったような自分だ。未来をなくして復讐のためだけに生きてきた、人形のような愚かなイリュニエールなのだ。

 そんな自分が、彼のような何でも持っている人間に愛されるわけがないのに。


「言伝てはね。"私はハネア=キイに行きます"……つまり、ロッテとは、これでお別れ、ということね。彼はもうロシュテンであることを止めてしまう決断をしたの……」

「パル、ギッタ、さま」

「ああ可愛そうなイーリ、あなたは利用されていたのよ。彼は何もかも捨ててしまう気なのだもの!」


 イリュニエールははじかれたように立ち上がる。


「ヴォントワース様のお屋敷に行ってきます」

「入れ違いになるでしょうね」

「まだ間に合うかも知れません。……直接あの方の口から、真実を伺いたいんです」

「そう……」


 そのときイリュニエールはきっとひどい顔をしていただろう。パルギッタはそのとき屋敷にいた残りの乙女、つまりミコラとソファイアを呼んた。そして顔を出したソファイアに、ふたりで少し出かけてくるわ、と言った。


「どちらに行かれますの?」

「そうね、とりあえずロッテのおうち。それから……もし、日暮れまでに戻らなかったら、そのときは──」

「はい、畏まりました、伝えておきます」

「お願いね、ソフィー。それから、くれぐれもミコラとは仲良く、ね」

「……はい」


 ソファイアはまるで懺悔のように、深々と頭を下げてふたりを見送った。


 方女屋敷からヴォントワース邸までの距離は、決して遠いと呼べるものではないはずだ。しかしイリュニエールは、まるで道が永遠に続くように感じながら、馬車に揺られていた。このままどこまで行っても辿り着けないのではないかと、そんなふうに思えた。

 だから最近慣れ始めたその姿を捉えても、なんだか夢の中にいるような心地だった。

 むしろこれが夢ならどんなにいいか。今すぐ醒めてしまえばいいのに。それともむしろ今までのことがすべて幻で、ロシュテンが見せた優しい笑みや甘ったるい言葉こそが夢で、イリュニエールはもう目を醒ましてしまったのだろうか。

 扉を叩くと、もう顔見知りになった下女が出てきた。名前はそう、ミンダという人だ。

 ミンダはイリュニエールの顔を見て少し困った顔になり、そしてその隣にいるパルギッタを見て、今度は泣きそうな顔になった。


「ご、ご主人さまは、お出かけに、なられて……」

「いつ戻られますか」

「それが……その……伺っておりません、いえ、あの……」


 歯切れの悪い返事にイリュニエールは少し苛立ちながら、下女のうしろの広間のようすを伺った。下働きや執事がうろうろと室内を行き交っている。誰もが困惑の表情を浮かべている。

 パルギッタの言葉が脳裏にちらついた──彼は何もかも捨ててしまう気なのだもの、と──もしかしたら、彼らはそれに近い言葉を言い残されたのかもしれない。もう戻ることはないのだ、というようなことを。


「ヴォントワースさまは行き先を仰った?」

「いいえ、……あの、デュソロウさま、ご存知ありませんか? 旦那さまは、私たちを捨てて、どこに行かれたんでしょう……?」


 ミンダは涙さえ浮かべながらそう訊いてきた。一瞬イリュニエールも胸をつかれて、答えてやろうかと思ったのだが、それを遮ったのは誰あろうパルギッタであった。


「あなたたちが聞いても仕方ないところよ。さあイーリ、私たちは帰りましょう」


 そのときのミンダの絶望の表情を、何に喩えることができるだろう。

 ともすれば縋りついてきそうな下女を残して、イリュニエールとパルギッタは乗ってきた馬車へと戻る。そして、屋敷に戻る旨を伝えるのはイリュニエールの役目であったが、乙女はじっと黙り込んでいた。御者も勝手に馬を進めることはできないので当然馬車は進まない。

 どこに進めばいいのか、イリュニエールにもわからない。

 もっと言えば、ロシュテンが何のために自分を利用していたのかもわからない。パルギッタがそう言ったからそうなのだ、と漠然と納得しているのだが、果たして自分は彼のために何をしただろう。イリュニエールはただ、パルギッタがいつどんなことを言ったのか、少女がどれほど成長しているのかを、日記でもつけるように彼に話して聞かせただけだ。

 まさか、それだけのために?

 それがそんなに重要なことなのか? 純な乙女に嘘の愛を囁いてまで得るべき情報なのだろうか?

 どうしてその役目がイリュニエールだったのだ?

 ああ、四人のうちで、婚約者もおらず、とりたてて愛らしくもなく、聡くもないからだ。いちばん愚鈍で騙されやすい田舎娘であったからだ。下級貴族の出で、彼に絶対に逆らえないからだ。

 考えてみれば自分ほど利用しやすい人間もいないではないか。何も知らない、少し優しくされただけで悦んでしまう馬鹿な娘……。


 前が見えなかった。眼鏡はきちんとかけているのに、どうしてなのかわからない。ただイリュニエールの目の前に、先のない暗闇が延々と続いていた。



→next scene.

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