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scene5-2 "ひとごろし"たちの昼下がり


『もし私を憐れに思われるのなら、わが檻たるハネア=キイの頂にて

 もし私を疎ましくお思いなら、再び山に封じてくださいますよう』


 ──ロシュテン・ヴォントワースからの伝言

_

 ●●1


 このところ、ミコラは辛い思いをしてばかりいるようだ。

 カルセーヌはそんな気持ちで乙女を見下ろした。日に日に小さくなっていく妹の姿に、胸を痛ませない姉がいるだろうか。これは比喩だけれども、彼女はほとんど食事に手をつけていないので、実際にも身体が痩せ細ってきている。

 事情は聞いた。ケオニはほんとうに知り合いだったらしい。

 前にも落ち込んでいたことがあったが、そのときにも一度彼に会っていたのそうだ。名前はミケール。もともと名前すらない浮浪児だった彼にミコラがつけた、そのまま「ミコラ」を男性名にしただけの名前だ。

 なんでも「息子ならミケール、娘ならミコラと名づけるつもりでいた」と両親に聞いていたので、その名を与えれば自分の兄弟になると思っていたのだそうだ。

 どうすれば浮浪児の友人を作れるのかはカルセーヌには全くわからないが、ミコラのように誰にでも分け隔てなく接する娘には、そういうこともあるのかもしれない。ともかくミコラはその友と、方女になるため家を離れたと同時に別れた。それから何年も経って再会した今、変わり果てた彼の姿にさぞや衝撃を受けたのだろう。

 殺せなかったんです、と、ミコラは泣いた。

 ──どうしても、手や腕や足が動いてくれなかった。今までのようにできなかった。ミケールがあんまりにも可哀想で。


「とってもいい子だったんです。頭がよくて、心の優しい、だから私にさえ素直に甘えられない……あの子が天子さまを恨むはずがなかった。

 もし貧困のせいだというなら、もっと早くにケオニになっていたはずですわ。私と出会ってさえいなかったでしょう。ああ、でも、私のせいだったの、私が方女になってしまったから」


 残酷な言いかたをしていいのなら、カルセーヌはここで諭していただろう。

 ミコラのせいなどではない。そもそも本来、たとえ位が低かろうと貴族と身分のないものたちとの間に交流などありえないし、ミコラの人生はミコラのものだ。乙女がどう選択しどこへ行こうとミケールには何ら関係はない。

 ミコラが去ったことで傷つき、天子を恨むに至ったのは、彼の心の弱さではないか。言ってしまえば自業自得だ。

 ……などと反駁したところで恐らくミコラは納得できはすまい。

 この娘は優しすぎるのだ。それゆえ人より余計に責を背負い込んでしまうところがある。

 方女でも一、二の戦闘能力を有するのも、もとはといえば任じられた大役に怖気づき自信がないと吐露した乙女に、ならばいちばん強くなりなさいとカルセーヌが叱咤した結果である。姉と慕う方女頭にそう言われ、ミコラはその言葉を現実のものにしようと人一倍必死に訓練に励んだのだ。


「ミコラ、自分を責めすぎてはいけませんよ。彼の人生まであなたが責任をとる道理はないのだから」

「でも……私は、ソファイアの言うとおり、もう方女失格です」

「ソファイアはそうは言わなかったでしょう! あの子はあなたの事情を知らなかったのだし、ソファイアが思い込みの激しい子だということは、あなたも知っているでしょう」

「違うんです、お姉さま、違います。私が無力になったのです。もう方器を持てません。今後どんなケオニに会ったとしても、ひとりだって倒せない……もう私には彼らが人に見えるんです、人間なんです、私は人殺しになりたくない……!」


 ミコラは叫ぶようにそう言うと、俯いてくちびるを噛んだ。込み上げる嗚咽を堪えようとしている。両手は膝の上で、震えているのが目にも見えるほどきつく握られている。

 ぼろぼろと頬の上を滑っていく水の塊がひどく透明で、鈍い光を放っていた。


「ごめんなさい。方女の任を軽蔑しているわけでは、ないんです。けれど、どうして私たちには、殺すほかに彼らを救うすべがないのですか」


 ミコラの問いに返せる言葉を、カルセーヌは持ち合わせてはいない。

 落ちるところまで堕ちてしまったケオニたちを救えるのはこの世でただひとり、天子と呼ばれるもの、翼を持つ人だけだ。天子の許しの言葉を得るほかにケオニの呪縛を解く方法はない。……そう、言われている。

 この『呪縛を解く』という曖昧な表現にも問題があった。かつてあった人間の姿を取り戻すという意味でないことは、カルセーヌもすでに気がついている。

 そのものが罰であるケオニの生は苦痛に満ちている。だからいつか理性を失って最後には人間さえ襲う。そんな状態で永遠のように時を過ごしてきた者たちが、ようやくその苦しみから解放されたところで、もはや正気に戻ることはできないのだ。

 古い文献をいくつ紐解いても、ケオニから人に戻った例など聞いたことがない。

 天子でさえ心を救えない者たちをどうして方女が助けられるだろう。だから、初めから方女に与えられた職務はケオニを殺すことだけだ。天子に許された亡骸を、いつかまた生まれるように地の国へ送ること。

 長らく天子を失っていた方女たちは、まだそのことを正しく理解してはいない。

 ケオニのまま殺すのと、許しを得させて殺すのでは、何がどのように異なるのか、ということを。



 ●●2


 イリュニエールはその言葉の意味を知らない。発音にもあまり自信がない。ただ、乙女にとってとても大きな存在となってしまった彼が、その耳に直接零したものだから、たった一度聞いただけだというのに忘れられない音になってしまった。

 跳ね回る鼓動の音はまるで胸の中で演奏会でも催されているかのよう。耳を塞ぐと余計にうるさくなるそれを、乙女は一生懸命に聞かないふりをしている。

 しかし元来率直な質の乙女は表情を隠すのが苦手だ。あまり化粧っけのない顔ではなおさらむき出しに近い。それを目ざとく見止める者がいるのもまた、イリュニエールにとっては不利な条件のひとつだった。

 その娘は、ソファイアはしかし、前のように笑ったりはしなかった。

 天宮兵の一件から乙女は随分おとなしくなってしまっている。傷ついたのはミコラだけではなかったのだ。意図せず加害者となってしまったソファイアもまた、あの場においてはカルセーヌの付き添いのもとミコラに謝罪したけれども、拭うことのできない罪悪感がその心に根を張っている。

 だからソファイアは乙女にしては幾分か小さな声で、顔が赤いわよ、と呟いたにすぎなかった。しかしイリュニエールを動揺させるにはそれだけでも充分にすぎる。

 急に椅子から飛びあがった乙女を、ひすい色の眼がじっと見つめた。

 ふたりの間には長椅子に横たわったパルギッタがいる。眠る少女の妨げになったかとますます身を強張らせたイリュニエールだが、小さな寝息は途切れることなく聞こえ続けていた。


「イリュニエール、……あなた、どうかしたの?」

「いえ。何でも、ありません」

「そう? あまりそうは見えないけれど」


 ソファイアはそこで詮索してくることもなく、手元に視線を落とす。さきほどから彼女は手芸の手本帳を眺めていた。手仕事が人一倍苦手な、紅毛の乙女が。


「何か、作るんですか?」


 思わずそんなふうに尋ねていたのは、何か別のことを考えたかったからだろうか。異性のことで頭を悩ませるだなどということは、これまであまりにも朴訥に生きてきたイリュニエールにとって、ある意味とてつもない重荷だ。

 それにあの言葉の意味が何なのかを教えてくれそうな相手は夢の中にいる。特別に理由がなければ起こすわけにもいかず、ただ隣に控えて悶々としているだけの時間は辛い。

 ソファイアは見ていたページをそっと持ち上げて、イリュニエールに見えるように向けた。

 花だ。細かいレース編みと羊毛の押し布で作る、それ単体ではこれといった用途はないけれど、何本も作って壁掛けの装飾にすることがある。一時期そういうものを作るのが流行っていた。

 政治に口出しするほかは仕事などあってないような貴族にとって、とくに役職を得にくい女性が有り余る時間を浪費するのに、そういう凝った作品制作を好む向きがあるのだ。

 もっともそれは社交の機会が少ない低位貴族の娘たちの界隈であって、連日あちこちの邸宅で会食に参加しているような大貴族になれば、ほとんど無縁の世界でもある。同じ貴族という言葉で括ってはいるが、両者は違う世界の住民だ。イリュニエールとロシュテンのように。

 本当なら言葉を交わす機会さえ一生に一度あるかないか。それほどに隔たっている階級の距離。


「昔これを、叔母がよく作っていたの。変わり者で、最後まで誰とも婚約さえしないまま、死んだ人よ」

「ではずっと家にいらしたんですか」

「ええ。……母は女爵位を持っていたけれど、父の領益だけでは足りなくて、自分の爵帛(階級税)を賄うために工場をひとつ持っていて……今にして思えば、南十字星にも寄附をしていたんだわ。

 その管理でよく屋敷を空けたから、わたくしにとっては叔母がもうひとりの母だった」


 ソファイアの話を、イリュニエールは黙って聞いた。乙女がこんなふうに長話をするのは久しぶりのことであったからだ。通りのよい美しい声をよく聞きたかった。

 沈みがちな声音は心もとないけれども、辛抱強く耳を傾ける。


「……わたくしの手はね、邪悪の手なの。触ったものをみんな壊してしまうのよ。幼いころは手に枷をつけていたわ……ただ、いつか外に出られると信じて、五つくらいから『壊さない』訓練を始めたの。

 そのときこの布花を持たせられた。中に色んなものを詰めて、これを捻じ曲げずに持っていられるようになりなさいってね。

 方女の大命をいただいたときは辛かったわ。せっかくのお役目なのに、こんな手では天子をお守りするどころか、逆に傷つけてしまいかねないもの」


 だから、と言いかけて、ソファイアは黙り込んでしまった。しかしイリュニエールには、なんとなくその続きがわかるような気がした。

 ──だからソファイアは努力をして、やっとの思いでこうして方女としてここにいる。それを先日の事件ですべて台無しにしてしまうところだった。それが我慢ならなくて、こうして布の花を眺めることで、乙女は初心を取り戻しつつ己を叱咤していたのだろう。

 業のようだとイリュニエールは思った。

 方女の選出には試験などは設置されていない。一定年齢以内の貴族の娘でさえあれば家位も出身地も関係なく、大聖堂で行われる儀式によって無作為に選ばれるのだ。イリュニエールもソファイアもミコラもカルセーヌも、ただ同じくらいの歳である以外の共通点はない。

 だが集められた方女四人のうち、三人が何かしらを抱えていたというのだ。ミコラは「身分のないもの」への未練を、ソファイアは身体の不自由を、イリュニエールは復讐心を。

 似たようなものをそこらの貴族の娘たちが持っているとは思えない。五番区災害で生き残ったのはイリュニエールだけであるし、ミコラは言うまでもなく特殊な例だし、ソファイアのような体質も稀なものだろう。そんな娘たちが揃って方女に選ばれるだなんて。

 それとも。

 イリュニエールの脳裏には囁くような声があった。まさしく目の前であどけない顔をしながら眠っている少女が、かつて己に向かって放った言葉だ。あのときは意味がわからず呆然としていたけれど。


『私はまた、正しい選択をした』


 もしかすると乙女たちは、天子によって選ばれたのか。

 ふとそんな考えがよぎったけれど、イリュニエールはすぐにかぶりを振った。四人が方女として選ばれたとき天子は不在だったのだから。シェルジットは恐らくこの世のものではなくなっていただろうし、パルギッタは常世の時から隔絶された領域にいた。

 楽園から見つけ出されたころのパルギッタといえば何も知らない幼子で、今と変わらないのは翼の戻らぬ背中だけ、もうすっかり大きくなってしまった。

 さすがに天子だけあって、人の成長速度ではない。それにしてもわからないのは、成長の過程をずっと傍で見守ってきたイリュニエールですら、時折この少女がまったくの別人であるかのように感じることがあるのはなぜなのか。

 それとも天子というのは元から「そういう生きもの」なのか。


「ねえ、イリュニエール。守護方女として、自分のことを、あなたはどう思うの?」


 突然の問いに、乙女はじっと考える。そのような質問を投げかけるのはつまり、ソファイアが真に尋ねたいと思っているのは、守護方女とは何であるか──イリュニエールが職務についてどのように考えているか、なのだろうと思った。

 ソファイアの、方女としての自信や矜持が揺らいでいるからだ。よかれと思ってしたこと、正しい道として選んだ行動が、仲間をひどく傷つけてしまったから。そして何よりパルギッタがそれを良しとしなかった。


「私は……私には、パルギッタ様から離れないで、盾になるしか、能はないと思っています」

「随分と謙遜するわね。あなたは傍付きだもの、もっと誇っていいのじゃなくて」

「どうでしょうか。私は不器用なので、ひとつかふたつ、これと決めたことしかできない女ですから……ただ、その、私にできないことは他の皆さんが補ってくださると、そう前提しておりますが」


 言葉を飾ることなどできない愚直な乙女は、精一杯そう告げた。

 けれどもこれは本音だった。乙女たちはみんな性格も趣味思考もばらばらで、得意分野も異なる。守備位置と同じでそれぞれが違う方角を向いている。

 イリュニエールは西の方女だ。太陽が沈み、月が沈む、すべての終わりを引き受ける終着点だ。カルセーヌが北の空に君臨し続ける北極星なら、ミコラは太陽が昇り時のめぐりを司る東の空。

 そしてソファイアは、いつも賑やかで明るい乙女は、さしずめ温かい南風だろう。

 今は風も凪いでしまっているけれど、また以前のように騒がしいくらいの元気を取り戻してほしい。ミコラも久しく笑顔を見せていないけれど、いつかのようにみんなで甘いお菓子を囲んで、紅茶をいただきながらお喋りをしたい。そんなことを切に願うほど、幻想のように思えてくる。

 なぜならその場所に、パルギッタがそぐわない。少女はもう乙女たちに可愛がられるお人形ではなくて、この世界を引いてゆく、ひとつの気高い存在に育ってしまった。



→next scene.

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