scene5-1 嘆魂歌
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「すべてを定めるのは天子であり、
すべてを許すのもまた天子である」
聖伝第二説より抜粋
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●●1
ハーシュダンは耐え難い怒りに飲み込まれそうになりながら、必死で立っていた。
目前には羽根の印の仲間が──仲間だったはずの者たちが、ひどく清廉でまっすぐな眼差しを、揃ってハーシュダンに向けている。まるでこちらが間違っているとでも言うように。いや、言っているのだ、実際に。
朝から妙な雰囲気を感じてはいたが、まさかここまでの事態とは思わなかった。
ことの始まりはオーホロだ。あの男が最初に口を開いた。
『ハーシュダン、我々は、やはりあの方こそが我らの信ずるべき皎翼天子なのだと感じている』
平たく言えばハーシュダンの信奉する天子は偽者なのだという話だった。
無理もない。彼女の声を聞くことができたのは、羽根の印の中でもハーシュダンただひとりなのだ。そのうえ彼らは先日の決起の際、天子の形をした少女に、いかにもそれらしい言葉でもって諭されている。
そのせいで迷いが生じる者もいるだろう、とはハーシュダンも考えていたことだ。しかしだからといって、一足飛びに自分が排斥されることになろうとまでは、思わなかった。
なぜなら今までハーシュダンの存在は絶対だった。
唯一天子の言葉を聞く存在。天子と繋がる者。天子に選ばれた羽根の戦士。
ハーシュダンが現れる以前の羽根の印には卓越した指導者がおらず、何もできなかった。彼らの道しるべとなり導き手としてつねに先導してきたハーシュダンへの、仲間から寄せられてきた信頼は、確かに厚く重くこの肩に圧し掛かっていたではないか。
それが、たった一度幻想を見せられただけで全員が心変わりするだなどと、納得するわけにはいかない。
「何度でも言おう。おまえたちは、偽者に騙されているだけなのだ」
「それはこちらが言うべき言葉だろう、ハーシュダン。貴方はいったい誰の声を聞いているのだ」
「おまえたちこそ、何者の言葉に心動かされているのか自覚しろ」
腹立たしいが、同時に憐れにも思った。彼らは天子の声を聞くことができない。目先の幻に簡単に惑わされてしまうのは、それだけ視野が狭く、心が純粋であるからだ。
貴族どもめ。こんなに美しい心を持った者たちを、いったいどんな策略で陥れようというのだ。
彼らに利用されているだけなのがわからない、可哀想な羽根の印。
ハーシュダンは考えた。どうすれば仲間たちを救うことができるだろうと。この国にここよりも規模の大きいまっとうな拝翼組織がない以上、ハーシュダンにとっても、ここが大切な居場所であることに変わりはない。
とはいっても、今の状態ではハーシュダンが何を言っても無駄だろう。
自分たちで気づくしかない。ほんものの天子はどこにいて、誰がいればその御心に触れられるのか。
「分かり合えないというのなら、私は今すぐにでもここを出よう。そしておまえたちに呼び戻される以外では、二度と姿を見せるまい」
打てる手はひとつだった。ハーシュダンが身を引くのだ。そうして昔の羽根の印に逆戻りすればいい。
天子の声を聞く者など他にはいない。彼らに直接語りかけたという偽者の天子とて、居住地も身分も離れすぎているのだ、再び相見えることはないだろう。
残った者だけでは何もできない無力な羽根は、必ず再び自分を頼ることになる。
「……それもやむを得ないでしょうな」
オーホロたちは頷いた。引きとめようとする者はいないようだった。ハーシュダンの胸裏に小さな痛みが走ったが、それもきっと長くは続くまいと、自分に言い聞かせて立ち上がる。
その日のうちに荷物をまとめ、ハーシュダンは羽根の印を去った。
もともとひとつ箇所に留まらない日雇い労働者だったハーシュダンにとって、次に向かう場所を考えるのはさしたる苦労ではない。ただいつか呼び戻される日のために、あまり遠くに行きすぎないように、そして道中できるだけ多くの人と言葉を交わすよう心がけた。オーホロがすぐに探しにこられるように。
そうして適当な鉱脈の採掘場に職を得た。
見知った顔のない人夫小屋で眠る夜も、しかし孤独ではない。まだこの手には羽根の印が刻まれている。
そしてひとり、愛する人に語りかけた。
「囚われの我が天子よ。どうぞ貴女の言葉を、この星の夜の慰めとして、私にお与えください」
そして、待った。
いつもなら、少ししてから、返事がある。柔らかな少女の声で。
──翼のない虚構の天子に気をつけなさい。彼女の言葉は人々を惑わせる。なんとしてでも彼女を廃し、私をこの狭くて苦しい檻から出しておくれ──。
天子はハーシュダンの心に直接語りかけてくる。だから隣に誰かいたとしても、聞くことができるのはハーシュダンだけなのだった。
そしてどこにいても、どんなにか離れているとしても、必ず返事をくれた。
「……天子よ、如何なされた」
しかし今夜はいつまで待っても何も聞こえない。ハーシュダンは急に不安になり、両耳をぐっと手で押さえこんだ。他の余計な雑音が混ざらないように。
天子が返事をしなかったことなど今まで一度もない。そしてこれからもありえない。
じっと息を潜めて待つと、かすかに何かが聞こえた気がした。
ただ、ひどく小さくて、よく聞き取れない。耳を塞ぐ手にますます力を込めた。
それでもまだはっきりとは聞こえない。瞑目し、息を止める。自分の心臓の音すらもうるさいと感じられるほど、静かになった。
『あ……ぁ……』
そして、背筋が粟立つのを感じた。
『う……ぁ……、……し……て』
耳を塞ぐのも目を閉じるのも息を止めるのもすべてやめて、立ち上がった。小屋を出て歩き出した。外はすっかり暗くなっていて、通りすぎる同業の人夫が不思議そうな顔でこちらを見ている。
耐えられなくなってきてついには走り出した。砂を蹴る音が採掘作業場にこだまする。
空には妙に明るい月がぐらぐらと揺れながらハーシュダンを見下ろしている。氷のように冷たい光が降ってきてハーシュダンの背筋を濡らした。いや、……これは自分自身の汗だ。
やがて近場の川に辿り着いたけれど、また安堵はできなかった。
頭の中であの声が響いている。しかもだんだんと大きくなっているのだ。もう耳を塞いだりしなくても聞こえてしまう。
それがどうしようもなく恐ろしくて、ハーシュダンは川に飛び込んだ。
思ったよりも深かった。水が肌を突き刺すほど冷たい。がたがたと震えながらも、どんどん潜っていく。声が聞こえなくなるところまで。
『かあさま』
「っ!」
ついに耳元ではっきりと聞こえた。
『かあさま』
「う、うわああああああああ!」
あらん限りの声で叫んだつもりだったが、水の中ではうまく声にならない。もちろん心に直接響いてくる嘆きを掻き消すこともできなかった。
恐らくそれはあの天子の声だ。でも、まるで別人のようだった。がらがらに乾いた喉から必死に搾り出しているような、低く掠れた、ひどく恨めしげな声だった。
『かあさまころしてわたしをどうしてかあさますてたのたすけてかあさま』
●●2
先日、お屋敷に、天宮兵を名乗る者たちが現れたんです。彼らはミコラさんをどこかへ連れ去ろうとしました。乱暴で、言葉遣いも下品でした。とても恐ろしかった。
あれからミコラさんはお部屋から出ません。無理もないと思います──イリュニエールは、少し震えがちな声でそう話した。
方女屋敷で事件があったことはカイゼルを通じて知っている。このような状況下ではロシュテンが直接出向くのは良くないだろうから、こうしてイリュニエールと通じることができたのは幸いだった。それにこのほうが、より詳しい話を聞ける。
「では、相手方の標的はあくまでミコラさんだったんですね」
「彼女を連れ去って、その、……ケオニにするつもりだったのではないかと、カルセーヌさんは仰っていました」
「ケオニに?」
「私にも信じられません。そんなことが可能なのでしょうか。私は何かもっと、世界の摂理のようなものが働いて起こる、そういう現象なのだと思っていました」
話しながらイリュニエール自身もかなり混乱しているようだ。それもそうだろう。
とりあえずロシュテンも彼女に合わせて、さも驚いているような素振りをしながら相槌を打つ。──それが事実だとしたら恐ろしいことですね。カルセーヌさんはどうやってそんなことを知っているのかな。
演技をするのは辛くはない。慣れている。
相手の気分や調子に同調すること。共感を示すこと。そうやって心を近付けて、ほんとうに知りたい言葉を零れさせること。
何度も、──何年でも、続けてきたこと。
「わかりません。ただ、ソファイアさんのご実家が、南十字星という協会に所属しているそうです。彼らは天子教会が正式に認めた団体ではないそうなのですが、ケオニを造っているのがその南十字星なのだと。
……これはパルギッタさまが仰っていたことなので、事実だと……」
しかし今度は、ロシュテンはほんとうに芯から驚いた。
パルギッタが自ら南十字星について口にするとは思っていなかったのだ。予想外のできごとに、しかし湧き上がってくるものは焦燥でも、悲しみでもない。腹から喉元まで支配しようとするこの感情は、喜びだ。
もうそこまで。
そこまでパルギッタが、天子化している。
彼女が徐々に本来の自我を取り戻しつつあったのは気づいていたが、こうやって具体的に言葉で示されるのはまた違った感動がある。できるなら直接会ってその声を聴きたいものだ。
ハネア=キイの恋文を笑っていたあの日の少女が懐かしい。
父アッケルが死んだ日。そして同時に、ロシュテンが変わった日。
この胸に悪魔が戻った、いや、継承されたと言うべきか。
天子の魂が脈々と肉体を越えて伝わるのと同じく、かつて深い悔恨を遺して死んだ男の魂が、ヴォントワース家の人間にも受け継がれてきたのだ。彼は恐れ多くも一个の人間の身でありながら、荒んだ世界を救うべく降り立った天子を愛してしまった。
いや、愛したことは正しい。むしろ誰もが天子を愛するべきだ。それだけならよかったのに、こともあろうに彼は、自分もまた天子にとって特別な存在でありたいと考えた。
それがあの、恋文である。
山の聖人、ウリュデのユフレヒカ、そう呼ばれた日もあった。呪縛された魂は縋りつくように彼の子孫へと続いていった。死ねばその子に還り、その呪いのためかヴォントワース家は異常に男子の出生率が高い。
恐らくは天子の魂も同じように、先代の死でもって次代に受け継がれていくのだろう。パルギッタは十年間、時間の流れが特別に淀んでいるという場所に隠されていたから、すぐには天子としての覚醒に及ばなかったようだが。
聞けば天宮兵による襲撃の前にナージェも姿を消したという。たまたまパルギッタ以外が不在だった、とイリュニエールは言ったが、もちろんそれは偶然ではない。
あの血で汚れた羽の娘は排されたのだ。ナージェ、いや、本来あちらがパルギッタだったか。
彼女の出生についてもロシュテンは把握している。直接アッケルの記憶を引き継いではいないものの、ユフレヒカの魂にもある程度のことは印象されていたからだ。こう言ってはなんだが、アッケルは、歴代のユフレヒカの中ではかなり失敗した部類に入る。
まさか直接行動に出てしまうとは。
ユフレヒカがいつもヴォントワースを完全に支配できるわけではないらしい。アッケルのように半ば暴走状態に陥るものもあれば、過去にはまったく天子との繋がりを持たないまま生涯を閉じた者もいる。
だが、ロシュテンはそうではない。何よりアッケルの犯した罪によってこの世界は急速に崩壊へと近づいている。彼がひた隠そうとしていた、平穏という崩壊に。
「とにかくそんなことがあっては、皆さんつらい思いをされたことでしょう。……何か僕にできることがないだろうか」
「そのお言葉だけでも充分です。少なくとも私は、こうしてヴォントワースさまにお話できたことで、少し楽な気持ちになれました。ありがとうございます」
イリュニエールは小さく頭を下げて、それから固かった表情を少し崩した。ぎこちないが、ロシュテンに心配をかけまいとしているのだろう、いじらしいではないか。
穏やかな笑みで応えて、ロシュテンも彼女を和ませようと努めた。
こうしていると意外なほどイリュニエールはかわいらしい。飾り気のない田舎娘だという先入観のせいもあろうが、少し笑んでみせるだけでも素朴な魅力があった。ロシュテンがまっとうな青年であったならこの娘と恋をすることだって可能だったかもしれない。
まあ所詮は仮定の話、あと数百年早かったならまだしも、もう何もかもが遅すぎる。
「イリュニエール。あなたと過ごす時間はあっという間に過ぎてしまうね」
「そうですね、もうこんな時間に……そろそろ屋敷へ戻らなければ。あの、……今日はほんとうにありがとうございました、失礼します」
「馬車までお送りしましょう。それから、ひとつお願いをしてもいいかな?」
「ええ、私にできることでしたら、何でも致します」
イリュニエールの手をとって立ち上がらせると、ロシュテンはそのまま彼女をそっと寄せて、その耳元に囁いた。
吐息が近くて驚いたのだろう、乙女の肩がぴくりと跳ねる。それにしても小さな肩だ。
「これをパルギッタさまに言伝て願います」
まるで愛の言葉でも唱えるような甘ったるい口ぶりで、ユフレヒカはそう言ってのけた。
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