scene4-8 落星の声
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人はみな幾つもの顔を持っている。神もそうでないと誰が言えるのだ。
天子は人間には優しいが、受難者には恐ろしい審判者となるのだから。
『ある貴族の言葉 記録日時不明』
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●●2
ミコラはそれでも抵抗を止めなかった。騒いで噛みつこうとしたので、男どもはミコラの口に布きれをねじ込んだ。
整えられていた黒髪は今やぐちゃぐちゃに絡まって絨毯に散らばり、涙に濡れた頬にも貼りついている。
呼吸を乱し激しく上下している胸元へ、仮面の下からおぞましい視線が送られていることに、乙女は気がついていただろう。ミコラはどうにか押さえつけられた腕を動かそうともがくが、さすがに男の力には敵わない。相手は死にかけのケオニではなく、生身で、戦闘経験もあるのだ。
悔しさと恐ろしさで涙が止まらなかった。
どうしてこんなことに。男たちに連れていかれてしまったら、ミコラはどうなるのだろう。ケオニにされるというのはほんとうだろうか?
「きれいな顔に傷をつけたくなきゃ抵抗を止めろ。それとも大人しくなるまで殴ってほしいか?」
「う、ううー……」
「天子の御前でなきゃもっとかわいがってやるんだがなぁ……美人の泣き顔も悪くない」
「ははは、同感だ。しかも貴族は婚前交渉禁止だろ。ならまだ処女だよな」
ミコラの危機感のとおり、男たちは笑いを滲ませた口調で下卑たことを囁き始めた。
ときおり顔を上げるのはパルギッタの動向を窺っているのだろうか。たしかに天子の御前で交わしていい会話ではない。彼らにとっても、パルギッタの不興を買うのは好ましくないらしい。
天子はイリュニエールの背後で、すべてを見ている。
そうだ。いま天宮兵たちの暴挙を止められるものがいるとしたら、ソファイアにその気がないのなら、パルギッタだけ。
天子たる少女がやめろと一言言えば、彼らとて。
ミコラはカルセーヌと天子とを相互に見た。それに気がついたカルセーヌは振り返って、パルギッタに視線を送る。そのとき方女頭には、視点のずれたぼやけた空間で、ソファイアが肩を抱いているのが見えていた。
イリュニエールはあまりのことに声すら出せずに立ちすくんでいる。
「……ねえ、ミコラ」
カルセーヌの視線に気がついたのか、やっと天子は口を開く。
「ミコラは私のこと、好き?」
「うう、ううう」
「そうよね。私もそう思うわ……それにね、私は、そんなものを認めた覚えはないのよ」
パルギッタは困ったようにそう言って、溜息をついた。場の状況にそぐわない静かな声だった。
そして、びりびりと、空気が震える。
指先が痺れるのを感じたのはミコラやカルセーヌだけではなかったらしい。乙女たちが方器を取りこぼしたのと同時に、男たちが揃って呪具を落とし始めたのだ。がしゃ、がしゃん、と耳触りな音が続く。
「て、って、天子さま……?」
「お黙り、ライツェルト。アルゴールとバイタンはミコラから退いて、放してあげなさい。
……あら、ほかの全員も名前を呼んでほしいのかしら、甘えん坊さんね……」
恐らくライツェルトというらしい天宮兵が、口を閉じて後ろにひっくり返った。それにぎょっとしている暇もなく、アルゴールとバイタンという名前なのだろうか、ミコラに馬乗りになっていた男と足を抑えていた男が弾かれたように立ち上がった。
そのどちらかわからないが、勢いあまって仮面が外れ、その下の蒼白になった顔が露わになる。
まだ若い男だ。ただその顔がなぜだか天宮兵であるようには見えなかったので、ミコラは疑問に思った。なんというのか、そう……まばらな日焼けの痕や顎の細さは、武人というよりは、どこかの農夫のような印象があった。
ともかく解放されたミコラは這いつくばってカルセーヌのところに逃げた。
天宮兵の何人かはそれを追おうとしたけれど、そのたびパルギッタに名前を呼ばれて立ちすくむ。グレンス、ベルジュ、ディフール、ケンテ、どれもあまり聞かない名だ。
カルセーヌは転がるように逃げてきたミコラを抱きとめて、口にねじ込まれていた布をとってくれた。
「天子さま、どういうことです! 我々は正式に南十字星の要請を受けてきたのに!」
「そうだろう!?」
天宮兵たちはパルギッタやソファイアを見て叫んだ。狼狽している。
しかし天子は落ち着いたようすで乙女の名前を呼んだだけだった。いつもの愛称ではなく、ソファイア、と。
「こんな騒ぎを起こしてくれたからには、あなたには相応の処分が必要ね?」
「わたくしは努めを果たしただけです!
あの子は……ミコラは、ケオニに情けをかけていた。方女にあるまじき言動でしたのよ。わたくしは南十字星である以前に同じ方女として、許せなかった……!」
「あなたの話はあとで聞くから、部屋に戻っていなさいな。それからカルセーヌ、あなたにはミコラをお願いするわね、手当てをして休ませてあげて。イーリは私と一緒に」
「……御意に」
パルギッタの指示に従って、乙女たちが下がっていく。
ソファイアは自室に。カルセーヌとミコラはひとまずカルセーヌの部屋に、というのもミコラの部屋では、二つある階段のうちソファイアと同じ側から登らなければならなかったので。
そして残ったイーリはパルギッタとともに、少しだけ男たちに近づいた。
仮面を取りなさいと天子は言う。その言葉に従い、彼らはめいめいの鉄面を剥がし、床に置いた。
「さて、どうしましょうか?」
天子は笑う。そしてイリュニエールは他人事のように、ああこの寒気を知っているなと、思っていた。
●●3
しばらくしてカルセーヌが玄関に戻ると、もう男たちの姿はなかった。どうやって追い返したのかは知らないが、どんな理由にせよ天子自身に下がれと言われたら、天宮兵は従うしかない。
絨毯が汚れたというのでイリュニエールは掃き掃除をしていた。泥も払わず天宮兵たちが土足で上がり込んだものだから、毛足の長い絨毯に土やら砂やら絡みついてしまっている。履き掃除だけでは限界があるようだったので洗ってもらいましょうとカルセーヌは言った。
「ミコラさんのようすは?」
「最初は怯えて泣いていたけれど、それで疲れてしまって、今はよく寝ていますよ。大した怪我もなくてほんとうによかった……」
「そうですか、よかった。……あの、ところで方女頭、私には事の次第が未だよくわからないのですが」
イリュニエールの問いにカルセーヌも頷く。とはいえ、カイゼルの話を打ち明けるには、彼女は少し天子に近すぎる気がする。
しかしカルセーヌにも、パルギッタが南十字星を知っているようすだったことなど、腑に落ちない点がいくつもあった。カルセーヌでさえ知らなかったというのに、十年外界から閉ざされていた少女がそれを耳にする機会などあっただろうか? 天子消失前の記憶があるとも思えない。
乙女たちが気まずい沈黙に包まれていると、パルギッタがとことこと歩み寄ってきた。
「ソファイアのところへ行きましょう。ほっぽってしまったから、きっと今ごろ寂しがってるわ」
そして天子はイリュニエールに、ミコラの傍にいるようにとの指示を出した。あんなことがあったあとでひとりにしておくのは可哀想だというのだ。イリュニエールは頷いた。
カルセーヌはパルギッタとともに、ソファイアの部屋へ。
先ほどは取り乱していた乙女であったが、しばらくひとりになって頭が冷えてきたのだろう、このときは椅子に腰かけて俯いていた。扉の開閉音に気がついて、こちらに向けられた瞳が光る。
……泣いていたらしい。
気丈な乙女の弱々しい姿にカルセーヌは驚いた。ソファイアの涙など、いったい何年ぶりに見ただろう。
「さてと、まずはあなたの言い分を聞きましょうか」
パルギッタの問いに、乙女は震えの残った声で答える。
曰く、──先日のケオニ討伐において、ミコラはケオニと親しげな言葉を交わした。そのケオニはソファイアが殺すつもりでいたのだが、彼女はそれを止めようとした。
まるで知り合いのようだった。
すでに致命傷を負っていたケオニを、ミコラは庇うように抱いていた。彼の死を悼んでいた。そしてケオニを屠ろうとするソファイアに対し、非道だ、とかどうとか詰ったのだ、と。
ソファイアはミコラのケオニ観に疑念を抱いた。彼女はケオニに対して親近感を抱いているらしいのだ。
「冒涜者とは天子に逆らい和を乱すもの、それを庇う方女など聞いたことがありませんもの。……このままではあの子は方女としてやっていけなくなると、そう思い、南十字星に連絡を……」
もしかしたら今までも何匹か逃がしていたのではないか。そうでなくとも、今後も同じことを繰り返す可能性があり、回を追うごとに頻度や人数が増えるかもしれない。
そうなる前に手を打たなければならないと、ソファイアは思ったらしい。
なるほど、とカルセーヌは納得した。そういう事情があったならまったく理解できないでもない。今度はミコラに、そのケオニについて尋ねる必要がありそうだ。
しかしだからといって、今日のミコラへの仕打ちはひどすぎる。
そのことに言及するとソファイアは青い顔をした。知らなかった、というのが彼女の言だった。
「あんな乱暴なやりかただなんて夢にも思わなくて……抵抗された場合ある程度手荒くなるとは聞いていましたが、それにしたって、あんな……っ」
「ソファイア、落ち着いて」
「落ち着いてなんていられませんわよ! カルセーヌさん、あなた仰いましたわよね、そうやってケオニを作ってるって……どういうことですの!?」
「それは」
ソファイアの詰問に今度はカルセーヌが青ざめる番だった。そのことはカイゼルから聞いた話で、天子制に対してひどく不都合な内容を含んでいる。とてもパルギッタの前で話すわけにはいかない。
どうしたものかと視線を泳がせた乙女は、しかしよりにもよって、その天子と目が合った。
こんな状況でも穏やかな表情を崩さない天子パルギッタが口を開く。なぜだかカルセーヌにはひどくゆっくりとした動きに感ぜられた。
──そういうことよ。
確かに、そう言ったと思う。
その意味がとれず、乙女たちは黙ってパルギッタを見つめながら、次の言葉を待った。まったく意味がわからなかったわけではないが、ただ理解しがたかった。
ケオニを作る。誰かが、人工的に、天子のために。そんなこと、理解してはいけない。
「南十字星を冠した組織が受難者を選別している。ソフィー、あなたのような純粋な子を使ってね」
「受難者?」
「私は彼らをそう名づけた。冒涜者という呼び名はもともと南十字星の慣わしです。いつの間にか、そちらのほうが通ってしまったけれど……私は彼らに冒涜されたと思ったことなどないのに」
パルギッタはそこで言葉を一旦切って、ソファイアの手をとった。
突然のことに乙女の身体は凍りついたように動かない。まだ眦に残っていた涙粒がふるりと揺れたのを見て、そんなに怯えないで、とパルギッタは優しく言った。
微笑ましい光景だが、カルセーヌには納得がいかない。奇妙だ。確かにパルギッタはとても優しい、まさに慈悲深い天子そのものの少女だったけれど。
けれどなぜだか、目の前の天子が、自分の知るパルギッタではない誰かのように思えてならなかった。
口にしている内容も科白もパルギッタのそれとはどこか違う。そして、これはよく思い出せないけれども、以前にもこういうことがあったような気がした。
「ソフィー。人は弱い。あなたのように。だから間違える。私はそれを理解している」
どこか遠くから響いてくるような声。
「その過ちを赦すし、そこから正しい道を選ぶと、信じている」
乙女を通り越え、遥か彼方を見つめている瞳。
『……ずっと信じて見守ってきたのに』
誰かがパルギッタのふりをしてパルギッタの顔で呪詛を吐く。
はっとして天子を見ると、少女は何ごともなかったかのように微笑みさえ浮かべて、ソファイアの髪をなでていた。乙女は今度こそわんわん泣きじゃくりながら謝罪の言葉を繰り返す。──ごめんなさい、ごめんなさい、私が、私が浅はかでした。
さっきの恨み言のような声は何だったのだろう。よくよく考えてみれば、パルギッタの可憐な声とは似ても似つかない、老婆のような暗くしわがれた音だった。
けれどソファイアはそのとき黙って少女の言葉に耳を傾けていたし、もちろん乙女の声でもない。そしてこの場にはふたりの他にはカルセーヌしかいない。
では、誰が?
カルセーヌはじっと眺めていたけれども、ぼろぼろ泣き崩れるソファイアにも、慰めるように寄り添うパルギッタにも、とくにおかしいところは見当たらなかった。それどころかふたりとも、今の呪言など聞こえていなかったかのようだった。耳にしたのはカルセーヌだけらしい。
それなら空耳か、何か他の音を聞き違えたのだろうか。しかし状況がこれではふたりに尋ねるわけにもいかない。
「ソフィー、あんまり泣かないの。眼がうさぎみたいよ。それに私にじゃなくて、ミコラに謝りなさいな」
「でもどうしたら、何と言って謝れば……きっと、とても恐ろしい思いをさせてしまった……」
「難しいことなんてないのよ。さ、ルシーも一緒に、ミコラのところへ行きましょう?」
だからこそ、何もかもが妙だった。
少女が笑って手を伸ばす。もう片方の手はソファイアに繋がれている。それは本来なら美しい光景のはずだけれども。
このエサティカのなりをした、パルギッタそっくりの少女は、いったい誰なのだろう──カルセーヌは頷きながら、そんなことを考えていた。
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