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scene4-6 乙女の心を貪る悪魔

「仕方がないの。あの子にはそれしかなかった」


.

 ●●1


 カルセーヌが屋敷に戻ると、どこもしんと静まり返っていた。

 元気のない乙女がいるのは承知だが、昨日までこだましていたエサティカたちの笑い声も聞こえないのには、さすがにカルセーヌも訝しく思った。これまで出迎えがなかったことなど滅多にない。それに先ほどカイゼルから尋常ならざる話を聞いたばかりで、なおさら気分が悪くなる。

 自分がいない間に何かあったのではなかろうか。

 ざわつく胸を抑えながら居間を覗く。最近ようやく見慣れてきた大きな翼が、今日に限ってはどこにもなかった。

 それどころか乙女たちの姿もない。

 ただひとりパルギッタだけが、長椅子にゆったりと身体を横たえていた。絹の光沢に包まれて少女は眠っているように見える。

 いや、眼を閉じているだけのようだ。


「パルギッタ……様?」


 恐るおそる問いかけると、天子はゆるやかな笑みを浮かべて、カルセーヌを見上げる。


「おかえり、ルシ―。お疲れのようね」

「あ……ええ、お気づかい嬉しゅうございます」


 乙女の身体が一瞬強張った。たしかにカイゼルとのやりとりで疲れてはいるが、その原因が他ならぬパルギッタであるとは、決して悟られてはならない。

 誤魔化すのもそれらしくないと思い、曖昧な微笑で答える。

 幸いパルギッタはそれ以上追及することもなく、長椅子に寝転がったまま、軽く手足を伸ばした。上品な光沢のある生地からむき出しの肌が覗く。傷ひとつないすべらかな脚が眩しい。

 服の裾からはらりと舞い落ちたものがあって、乙女は何気なくそれに眼を止めた。

 羽根だ。親指の爪ほどしかない、小さな白い羽毛。

 それが鳥のものではないのは、その独特の風合いを見ればわかる。


「パルギッタ様、ナージェ様はどちらに?」


 ほとんど考えることなくそう口にしていた。

 もちろんカルセーヌには、他にも訊きたいことはあった。他の乙女たちがどうして天子の傍に侍らないのか、彼女たちはどこにいるのか、いったいいつからパルギッタはひとりなのか。それは方女の長として当然疑問とするべきことだ。天子に何かあってからでは遅い。

 だがナージェは、彼女は確かに大切な客人ではあったが、それでも天子の比ではない。守護方女としては皎翼ではないエサティカの動向はさほど重要ではないのだ。

 しかしカルセーヌが最初に尋ねたのは、ここにナージェがいないことだった。

 自分でも妙だと思いつつ、このとき乙女にはその理由までわからなかった。ただ、それを早急に確認しなくてはならないような気がしたのだ。

 パルギッタは微笑んで、帰ったわ、とだけ答えた。


「……里にお戻りになられたのですか?」

「ちょっと事情があってね。ルシ―が帰ってくる少し前に迎えがきたの」

「そうですか……最後にご挨拶もできなかったのは残念です」

「みんなもそう言うのかしら。居合わせたの、私だけだったから」


 カルセーヌはまばたきをする。


「他の者はどうしました?」

「お部屋。私からお願いしてそうしてもらったの……叱らないであげて」

「まあ、……いいえ、そういうわけには参りませんよ。とにかく一度、全員をここに呼びましょう」


 なぜだろう。カルセーヌはそのとき、違和感を覚えた。初めてのことだったので、それが何に対する違和感なのかは、すぐにはわからなかった。

 あとになって原因は天子の眼だということに気がついた。

 パルギッタはあのとき眼を逸らした。いつもはじっと覗きこむようにしてくる、それが癖になってさえいるパルギッタが。

 でも、なぜ。

 これが他の乙女なら、カルセーヌはこう結論づけただろう。"彼女は私に嘘をついているか、何か後ろめたいことがあって、それを悟られまいとしている"。カルセーヌが帰ってきたときに、パルギッタに微笑みかけて誤魔化したのと同じように。

 だがパルギッタは天子だ。どんな理由でもカルセーヌに嘘をつく必要はない。

 たとえばナージェがじつは里に帰ったのではないとしても、実際もうここに彼女はいないのだし、それがどうして後ろめたいことになるだろう。

 それよりもカルセーヌは恐ろしかった。もしかしたら、と思った。

 もしかしたらパルギッタは、カルセーヌが今日カイゼルから聞いた話を、それをカルセーヌが知って拒絶しなかったことに、気づいているのではないだろうか。

 あのとき視線を外したのはそのためで、いつかカルセーヌには罰が下るのかもしれない。

 ……そうか。

 パルギッタが偽者だとかケオニが人為的に作られているだとか、それが真実だとしても、眼の前の天子がカルセーヌたちにとって抗いようもない力を持つのなら。すべてがおぞましい嘘だと知っていても、それを崇めるほかに生きていくすべがないのなら。

 結局のところカルセーヌやカイゼルには、選択肢などないのではないか。

 そのことに気づいてしまった。それはつまり、もう何もかもを諦めるしかない、ということだった。

 アビン博士の言葉を思い出す。


『翼という記号を使って民を惑わし、自らを最上と崇めさせ、従う者には施しを与えはするが、そうでない者にはこのような罰を与える、傲慢な独裁者……それが皎翼天子エサティカなのだ』



 ●●2


 ナージェ=エサティカの突然の帰郷は、翌日にはロシュテンの知るところとなった。というのもその日、彼の屋敷にあまり似つかわしくない女性がひとり、おっかなびっくり訪ねてきていたからである。

 朽葉色の髪が重く圧し掛かった眼鏡を押さえ、イリュニエールは静かに頷く。


「パルギッタ様のほかには誰もお見かけしなかったそうです」


 居心地が悪そうだ、とロシュテンは思った。

 乙女がここに訪れたのはこれが初めてのことではない。以前、ケオニ討伐に連れていくことができなかったパルギッタをヴォントワース邸で預かったことがあったが、そのとき他の乙女たちと一緒に天子を迎えに来ている。だがあれはせいぜい入り口までで短時間のことだった。

 広々とした客間も並べられた茶器類もあのときはなかったのだ。だからだろうか、来客用の瀟洒な卓の前で、乙女はいささか委縮しているようにも見える。

 ここは方女屋敷のそれより広い。あそこはもともと天子の住まいではなかったから、調度もそこまで高級品ばかりというわけではない。それにこうして女中がいそいそと身の回りの世話を焼くこともない。

 他の中級以上の家位を持つ乙女ならまだしも、最下級の男爵子女のイリュニエールには慣れない環境なのだろう。


「ほんとうに、突然お帰りになられたらしく……すみません、肝要なときに私が、お傍にいなかったもので」

「いいえ、それよりわざわざお越しくださって、嬉しいです」

「そ、れは……」


 ロシュテンの笑顔にイリュニエールはいっそう身を縮みこませたように見えた。そんなに緊張なさらないでください、と気休めに言ってはみたものの、あまり効果はなさそうだ。

 恐らくロシュテンの手紙が着いたのは昨日。それを受けてこれほどすぐ動いてくれるとは、存外なかなか行動力のある娘だ。もしかしたらあの手紙の真意もすでに見抜かれているかもしれない。

 ……いや。

 恐らく杞憂だ。乙女の頬は微かに桃色を帯びていて、明らかに平生とは異なる。

 きっと文面どおりにロシュテンの想いを受け取ってくれたのだ。やはり彼女はロシュテンの見込みどおり、率直で純粋な乙女。なおかつ天子にもっとも近い。

 あとは彼女から有益な情報をいくつか引き出すことができれば。


「……しかしナージェさまがお帰りになってしまっては、パルギッタさまも寂しがられるでしょう」

「え、ええ。今朝もぼんやりとしておいででした」

「まるで姉妹のようでしたからね」

「……あの、ヴォントワースさまがおいでになれば、天子さまもお喜びになると思います」

「ではまた近いうちに参りましょう」


 当たり障りのない話をしながら、乙女に何から尋ねるべきか考えていた。ロシュテンには多くの答えが必要であったし、そのほとんどをこの乙女が持っているのは明白で、それらを得るのに必要な手順についてはすでに考え尽くした。

 (それであの女を妻にしたのだが)

 脳裏で誰かが囁く。それはロシュテンではない、誰か。

 それが何者なのかということも、その言葉が意味することも、ロシュテンは知っている。

 (シェルジットとやりかたを変えているかもしれない)

 自分の中にいるもうひとり。魂に染みついた逃れようのない狂気。そいつがロシュテンを突き動かして、ロシュテンの顔でロシュテンの言葉ですべてを実行する。

 父が死んだあの日、そいつはロシュテンのところに帰ってきたので、やっとロシュテンにはあらゆる事象が繋がっていることがわかったのだ。

 初代天子のこと。ハネア=キイの恋文のこと。山に囚われた聖人のこと。

 なぜ父が……アッケルがあのような無残な姿で死ななければならなかったのか。


「……それから僕のことは、ロシュテン、と呼んでください」

「いいえ! ……そんなことはできません」

「なぜです? 今日こうして来てくださったのは、僕の気持ちに応えてくださったからだと……それとも僕が勝手に舞い上がっていただけでしたか」


 とにかくまずは彼女との距離を詰めたかった。それはひいては天子との接触に通じる。

 ロシュテンの身体は人形のように動いて、これまでそんなことは一度もしたことがなかったが、当然のように乙女の手を握った。以前カイゼルに無理やり教え込まれた女性との付き合いの作法だ。こんな形で役に立つとは思ってみなかったが、今はただ親友に感謝しよう。

 硝子越しの瞳をじっと見つめる。ほんとうは、ロシュテンの眼は己のばらまいた嘘で霞んで見えないというのに。

 かたかたと小さく震えるイリュニエールの手は、乙女のものとは思えないほど傷だらけだった。


「そ、の、件ですが」


 泣きそうな声でイリュニエールは言う。ああこの口、塞いでしまえたらいいが。


「私は天子にお仕えする身です……家位も釣り合いませんし、教養も足りません。とてもヴォントワースさまのお心に叶うような女ではありません。ですから、お受けしかねます。

 それにどうして私のような者に、そのような言葉を戴けるのか、それさえわからないのです」


 なるほど尤もな言葉だった。ロシュテンは満足してイリュニエールを見る。

 こちらの家位に飛びついてすり寄ってくるような女ではない。これまでの乙女の振る舞いから、最初は拒否されるであろうことは想定していた。思ったとおりで何より。


「手紙にも書きましたが、僕は、あなたのそういう控えめなところに惹かれたんですよ」


 できるかぎりの優しい声音でイリュニエールに囁きかける。握ったままの手にわずかに力を込めたのは、離したくないという意思の表れ。

 ロシュテンはイリュニエールが欲しい。それ自体は虚言でも演技でもない。ただ、それはあくまで手段であって目的ではない、たったそれだけが明確に違っている。

 乙女が欲しい。乙女の持っている情報が。


「もちろん無理強いはしません。あなたの気持ちが変わるまで待ちましょう。

 だからどうか、それまであなたの傍にいることを許してほしい。それ以外に何も特別なことは求めません。たまにこうしてお会いして、パルギッタさまのお話でもできれば、それでいいんです。

 ……イリュニエール……」


 甘い音で乙女の名前を呟くと、イリュニエールの肩がぴくりと揺れた。

 熟れた林檎のように頬を紅く染めあげて、乙女はほとんど泣きそうになっている瞳を、何度もぱちぱち瞬かせた。さすがにイリュニエールも年頃の娘だ。他の若い男たちにこの姿を見せたなら、きっと彼女の評判はずいぶん違ったものになるだろう。

 ロシュテンはしかし、かすかに残酷な痛みを覚えるだけ。それもやがて麻痺してわからなくなる。

 いつかは善悪の判断すらつかなくなる。たったひとつの手に入れたいもののために、周りのすべてを犠牲にして傷つけてしまう日がくる。解っているが止める手立てはない。

 (私はもう、餓えて待つのは、嫌なんだ!)

 ……胸中で叫んでいるそいつを止める術は、もうロシュテンのもとにはない。


「……あの」

「なんでしょう」

「このことは、他の誰にも内密にしていただけますか」

「そう、あなたが望むのなら」


 ロシュテンがそう言うと、乙女は消えそうなほど小さな声で、はい、と答えた。

 それが何に対する肯定なのかは明らかだった。彼女はロシュテンの懇願を聞きいれたのだ。このように男に迫られたことなどなかったであろう低級貴族の乙女には、最後まで拒み通すことができなかった。

 それはロシュテンの用意した譲歩がかなり低かったためもあるだろう。たまに話をするだけでいいと言われれば、立場の悪い彼女にとってはいっそありがたい選択肢だと言える。

 しかもふたりの階級の違いが、なおさら乙女の分を悪くする。

 やはり彼女は逸材だった。ロシュテンがつけいるのにこれほど条件の揃った娘は他にいない。

 肝心なのは彼女と結婚することではない。承諾など二の次だ。まず接点を作り、そこから介入できればそれでいい。

 むしろ内密にしたいのはロシュテンのほうで、これもまたこの慎み深い乙女を狙った理由のひとつでもある。

 ロシュテンは微かに微笑んだ。

 胸に巣食った悪魔も、一緒に笑っていた。


 (私は永久に餓える者)

 (帰らぬ鳥を待ち続ける者)

 (そして今日も、遥かな空に手を伸ばす)


→next scene.

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