scene4-5 パルギッタ
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『わかっていたの、ほんとうは愛されてなどいなかったって。
でも離れられなかった。
仕方がないじゃない。だって、私は愛していたんだもの』
"ある貴族女性の今際の言葉、雷の月5日"と記された走り書きより
●●1
彼は杖を手にとって歩きはじめた。
ただ、その歩みはいつもよりずっと重かった。それは初めてのことだった。こんなにも進むことが苦痛だったのは、後にも先にもこのときだけだ。
この先に誰がいるのか彼は知らなかったが、それでも確実に、何かが彼を阻もうとしている。彼を己に近付けさせまいとしている。
それから何里も歩き続けてやっと、杖がひどく重いのだということに気がついた。地面に衝けるたび、まるで吸い込まれるようにして突き刺さる。それでこんなに歩きづらいのだ。
そんな芸当ができる相手など限られているけれど、敢えて彼はそれを思考にするのをやめた。
●●2
ナージェはそっとパルギッタを見た。
居間にはエサティカがふたりいるだけで、珍しく乙女たちはみんな自室に引き取っている。こんなことは恐らく方女屋敷を使い始めて以来初めてのことだろう。忙しいカルセーヌや落ち込んでいるミコラならまだしも、そして手紙を読むために下がったイリュニエールはともかく、世話焼きでお喋りなソファイアまで。
しかしパルギッタは平然として本など読んでいる。つまりは、ナージェが少し席を外している間にソファイアを下がらせたのはこの少女なのだ。
だが、どういう意図で。
訝りつつも、それを顔に出してしまわないように、務めて穏やかな表情を作った。
「パルギッタさま、何を読んでいらっしゃるの?」
「歴史の本よ。正しく伝えられているかどうかを確かめているの」
天子はちらりともこちらを見ないで答えた。
いつもながら、少女の言葉はどこか妙だ。やはり天子の座にある者は、見かけではいくら幼く繕われていても、侮ってはならないらしい。
不思議なことを仰るのねと囁けば、あなたもね、と返ってくる。ナージェにはその意味が掴めない。少しずつ腹立たしくなってきて、それを発露する代わりに、背の翼を大きく拡げた。
影が書物に落ちたのか、パルギッタがこちらを見た。
睫毛は髪と同じ真珠色をしている。ナージェのそれと同じだ。そして瞳もやはり、ナージェと同じ碧緑をしている。
それなのにどうしてだろう、両者でまったく違う色のように思えたのは。
ナージェのそれは南の海のような柔らかな色合いなのに、パルギッタのほうはひどく冷たく澄んでいて、まるで森の奥深くに人知れず湧いた底なしの泉のようだ。
眼光に嫌なものを感じてナージェは一瞬怯んだ。だがすぐに、そうするべきではないと悟った。
──私はなにを怖れているというのだ。
「ねえ、ひとつお訊きしてもよろしくて?」
なぜなら私は、
「ええどうぞ。お答えするわ」
私こそが、
「あなた、誰なの?」
私こそがほんものの皎翼天子パルギッタなのだから。
パルギッタだと思われていたその少女は緩やかに微笑んで、それはどういう意味かしらと言った。ナージェ、否、真のパルギッタは、そのままの意味よ、と答えた。
少女は本を閉じて机に置く。その手は震えていなければいら立ってもいない。ただ平生と同じように動き、それから身体を温めるような仕草で肩を抱いた。
小さな指の間から、はらりと白いものが零れ落ちる。
「だってパルギッタは私だもの」
「そのようね」
「あなたは方女を誑かして天子を騙っている。早くその地位から退くべきだわ」
「……ああ、そう見えるの」
真のパルギッタはできるだけ冷静に少女を追い詰めるつもりだった。少女は人心を操ることにこそ長けているけれど、所詮は紛いものの天子。自分よりもはるかに劣った力しか持ちえないはずだ。
少し脅してやれば簡単にたじろぐ。そして最後にはこの翼に平伏するだろうと、そう思っていた。
ところがどんなに威圧しても、少女は揺らぐことなくそこにいた。
それが腹立たしかった。偽者のくせになんとふてぶてしい女。ただでさえ醜い姿をしているというのに、心根まで曲がっているらしい。
手加減の必要はないなと思った。
排除しよう。かつて父にしたようにやればいい。
天に授けられたこの翼で、魂の容れものである身体を引き裂いて、汚れたその魂を取り出す。そして裁くのだ。許されざる罪を犯した者として、永遠に苦しむよう定めてやる。
……実際には父の魂を裁定することには失敗したのだが、今度こそ上手くやってみせる。
やれるはずだ。自分は選ばれた真実の皎翼天子なのだから。
拡げた翼に力を込めたそのとき、少女はふいにこちらを向いて、そして笑うように言った。
「それにしても醜くなったのね、パルギッタ。あれほど気をつけろと言ったのに」
その言葉は、真のパルギッタを煽る結果になった。
「……っ貴様のような者に醜いと言われる筋合いはない! 我なる皎翼天子に対し、どこまでも愚弄するかこの女!」
「皎翼天子って、あなたが? その黒ずんだ翼で?」
少女は冷徹な眼差しを真のパルギッタの翼に送る。たしかに翼は父を屠った際、浴びた血がこびりついて汚れてしまった。それ以来、何度洗ってもどうやっても取れないのだ。
しかし、それまでは純白の翼だった。一点だって他の色など混ざっていなかった。
だから彼女は絶対に間違いなく真実の皎翼天子のはずだ。
そう言うと少女はくすくす笑った。ほんとうに皎翼ならそれくらいで汚れたりしないわ、と。ひどい挑発に真のパルギッタはかっとなって、ついに翼の刃を少女に向ける。
……それは一瞬で終わる。
長い羽根が短剣のように少女の皮膚を斬りつけ、細かな羽毛がその中まで入り込んで、内側から彼女の容れものを破壊するのだ。父、いや、あの男のときもそうした。実行するのは初めてで、誰かに習ったわけでもなかったが、そうすればいいということを本能的に知っていた。
死んだら魂を取り出そうと真のパルギッタが手を伸ばすと、誰かがそれを掴んだ。
ぎょっとして身を引こうとするが、相手の握りしめる力は存外強く、なかなか振りほどくことができない。それが恐ろしかった。今この状況でそんなことをする人物など、いるはずがないからだ。
しかし視界は舞い散った羽根と羽毛とで覆われていて、白くけぶったその中に、相手の姿を見ることはできなかった。
「……愚かな子、おまえに私が滅ぼせると思う?」
ふいに耳元で静かな声がして、パルギッタは思わず悲鳴をあげそうになる。殺したはずの少女の声だったからだ。まだ生きているというのか。
やがて羽毛がほとんど床に舞い落ちると、そこには信じがたい光景が拡がっていた。
先ほどまで小さな少女の姿をしていたものが、まったく違う形になっている。そして彼女の手は真のパルギッタの腕をしっかりと掴んでいた。冷たく柔らかい手だった。
そうだった、この女は、こういう本性をしていたのだ。
「嫌だ、は、離せ! 化けもの!」
「あら、母親に対して随分な言い草ね。アッケルはあなたをきちんと教育しなかったの?」
「は……は、おや……? 何を言っている、お母さまはずっと前に亡くなったはずだ! だから次は、次の皎翼天子はこの私で」
──この私のはずで。
だんだんとパルギッタの内側は強張り始めていた。ほんとうに自分が皎翼天子なら、どうしてこの女を簡単に葬り去ってしまえないのだろう。どうしてこの翼は黒く染まってしまったのだろう。
でも母シェルジットが死んだのは確実だ。
たしかなのに、眼の前にいる恐ろしいものは、幼い日に見た母と同じ影を持っているように見える。そして同時にあの醜いおぞましい姉であることも間違いなかった。パルギッタは双子だったのだ。
ふたりも天子がいてはならないと、これは理に反すると言って、醜いほうは隠された。
美しかったパルギッタだけが正式にシェルジットの娘だと公表された。だから人間はみんなシェルジットの子はパルギッタひとりだと思っている。それは正しいのだが、問題は途中で取り違えが起きてしまったことだ。
シェルジットは通例ではあり得ない双子を産んでしまった咎で、断翼された。
が、まだ娘は幼い。パルギッタが育つまではシェルジットが天子を務めなくてはならないので、翼核を完全に取り去らない、天子を殺さないで苦痛を与えるためだけの仮断翼になるはずだった。
しかし実際には、彼女の翼核は聖堂に納められている。シェルジットの意向で完全断翼刑に変更されたのだ。つまり彼女は死ぬつもりでいたのであり、その死に場所として、あの光の庭園を選んだ。
庭園は天子にしか開けられない。稀に天子の意を問わず開いてしまうことはあるが、そのために守護方女たちは天子となる少女を探すのに10年もの歳月をかけてしまった。
その庭園に隠されていたのがじつはパルギッタではなく姉だったとは、誰も思わなかったろう。
あまつさえシェルジットは姉を仮断翼し、翼の色などを判別できないようにしていた。パルギッタはアッケルに預け、誰にもその存在を知られることのないようにと、容易に人が近付けない天宮に匿われた。その真意はわからないが、これでは双子を取り違えても無理はない。
真相を知っている唯一の人間、父と呼んでいたアッケルは、パルギッタ自身が手に掛けてしまった。
「失敗だったというの? この私が間違ったと?」
父を生かしておいて、自分こそがパルギッタであると発言させればよかったのか?
人間の理はよく知らないが、アッケルは地位の高い人間だったらしい。彼の言うことならみんな信じただろうか。方女屋敷にいるのは偽者で、ほんものは天宮やアッケルの屋敷にいるのだと、そう言わせれば。
「いいこと、パルギッタ。あなたは所詮人間の子なのよ」
「……嘘だわ」
「愚かな父を持つ愚かな娘よ。あなたはパルギッタであって、シェルジットでもアルエネルでもユエラウェッラでもなかった、それだけのこと」
「嘘! 私があんな、弱く小さい人間の娘だなんてことが、あるはず……」
真のパルギッタは己の狼狽にさえ慄いた。まったく計画どおりにことが運ばず、それどころか自分が追い詰められねばならない道理などあってはならない。それなのに続く言葉が出てこない。
まるで心のどこかで眼前の女が言うことを認めているようではないか。
それは、なぜ? 翼が穢れてしまったから? ヴォントワースの血毒に中って醜くなってしまったから?
汚してしまったのは、他ならぬパルギッタ自身ではないか。
それは母がパルギッタを父に預けたせいだ。彼の檻に入れたせいだ。……どうしてシェルジットはパルギッタを愚かなアッケルに預け、醜い姉だけを連れて楽園に消えてしまったのだろう。
「どうして私が醜いのかわかる? パルギッタ」
女は──名前も知らない姉は、うっすらと微笑んでパルギッタに問う。
「それはね、これが人間の心の在りようだからよ。あなたの父アッケルは十七年前、シェルジットの肌に触れる許しを、跪いて乞うた」
「やめて……」
パルギッタは呻いて耳を塞ぐ。姉の話からは、なんだかとても嫌な感じがした。なにか身体の内側から汚されるような感覚があったのだ。
何者にも冒されない存在ならばその必要はないのだとわかっているのに、どうしても我慢がならなかった。
姉は構わず続けた。アッケルは恐ろしい勘違いをして、自ら人間の誓いを破ったのだと……。
「不可侵たる天子の身体を望み、己に打ち立てた信奉を汚し、人間として初めて天子と夜床を共にした」
「いや……いや、それ以上その話をしないで!」
気持ち悪い。吐き気がする。頭が割れるように痛い……いや、胸も腹も喉も痛い。
背中でパルギッタの翼はざわざわと揺れはじめ、その振動が脳を掻き混ぜる。
「パルギッタ……わかるわね? 私たちは穢れの子。あなたは人の身体を、私は人の心を身に表わして生まれ落ちた」
「やめてったら! いやだ、き、聞かせ、ないで……っ」
「これは私たちふたりだけの秘密。シェルジットが死んだら、必ずやり遂げなければならないこと。
私が新しい形貌に為るには、もう一度、私たちを統合する必要がある」
「離してっ、手を離してよぉおお!」
──魂を、返してちょうだい。
●●3
彼がそこに辿りつくと、もうすでに彼女は抜けがらのようになっていた。それを見てすべてを理解した。
傍らには愛するべき天子が静かに佇んでいる。
天子の足許にその身を伏せて、彼は言葉を待った。その姿は祈りに似ている。彼が毎晩欠かさず窓辺に捧げている、平和への切なる祈りに。
ようやくあるべき形を取り戻した天子は、彼を労わるような優しい声で、こう言った。
「ナージェを連れていっておやり。もうこの子は人間の中では暮らせないから……」
彼は頷き、冒涜者にも似た姿になった彼女を抱える。
「アールフエネール……」
「なあに?」
「どうかお泣きにならないでください。人の心は脆いのです。きっとみんな、溺れ死んでしまう」
切実そうな彼の言葉に、天子は瞬きをした。それから困ったように笑った。
どこからか降り注いでくる光がその眼許に溜まって、まるで涙を堪えているようだった。
髪は真珠色。どんな暗闇にあっても見えるように。
瞳は碧緑色。冷徹と慈悲を湛えた小さな泉。
その背に潜んだ翼は、昔むかし誰かが残酷の鳥と呼んだ。天子が自らに鳥の形を取り入れたのは、初めはきっと、単純に地上と天空とを繋げるための演出だった。そもそも象徴に空を選んだのは、人間が自然にそれを仰げるようにするため。
届くことのない空に悠久の母がいる。母に恥じることなく生きよ。
ただそれだけのことなのに、どうしていつもこの世界は、彼女の思惑どおりには育たない。
「残念だわ、ザーニャ」
→next scene.