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scene1-2 負った翼

●●1



 時を問わず薄暗い小講堂の錆色のひびに覆われた壁に、蝋燭の灯が影を踊らせていた。そこに満ちるひとの囁き。夜半、決して治安が悪い訳ではなかったが、表を歩く者は少ない。

 幾つかの星だけがこの奇妙な会合の傍観者であった。

 重そうな、砂を削る音を伴って扉が開く。流れ込む冷えた空気に灯りが震えた。

 入ってきたのは一人の男性だった。歳は二十代の半ばだろうか、この部屋にいる人間の中ではかなり若いが、どうやら会合の主宰者であるらしい。彼が入室するとほぼ同時に、それまで雑然としていた講堂内から、まるで眼に見えぬ糸で絡めとったように声が消えた。

 彼は軽く周囲を一瞥してから口を開く。


「……皆様。先ほど、公のご息女──方女頭から、天子を保護したとの報告がありました」


 途端に歓声があがって、蝋燭の灯りが大きく揺らめいた。


「喜ばれるのはちと早うございますよ。天子──パルギッタ様は、皎翼天子の証である翼を喪失していらっしゃるのです」

「では……翼の色は」

「無論、判明しておりません」


 これを聞き、その場の全員が落胆した。あちこちで沈み込むような溜め息や、嘆くような言葉が交わされ、やがてそれに混じって訝る声さえ聞こえてきた。

 無理もない。彼らは待ち続けてきたのだ。


「それでは純血統でない可能性もあるだろう。ならば再調査を要請する。エサティカ一族の所在をより正確に把握して、」

「何をおっしゃる。パルギッタ様は前天子の嫡子なのですぞ」

「翼のないエサティカなど天子とは呼べないのでは? そもそも見つかったというのは真にパルギッタ様であると言えるのか?」

「落ち着きたまえ君達。真実パルギッタ様が天子だとしたら、今の発言は逆罪に値するのだぞ」

「しかし……」


 講堂内がざわめき、ある者は声高に疑問を投げ掛け、またある者はそれをなだめるのに躍起になっていた。誰かが蹴り飛ばしたのか、椅子の倒れる音が響いた。それは御影石の床材によって部屋を満たすようにこだまする。

 混沌、という言葉の似合う光景だった。恐らくそう言われることだろう、──沈黙した星の他にこの会合を傍観する者があったなら。

 主宰者であるかの男性は、しばらく黙ってそれを見つめていた。彼一人が他者より一段高い場所に立っているのは、彼の階級が高いことを示している。ただし段下でひしめいている面々の身なりも、庶民のそれとは決して違う、品の良い優雅なものである。蝋燭の小さな揺らめきを、布地はちらちらと反射していた。

 ふいに主催者が口を開く。


「皎翼の真偽は方女に任せることに致します。私は憶測が好きではありません」


 ややあって、是、と会合は応えた。


「──ただ、貴殿方には、前皎翼天子の罪を忘れないでいただきたい。彼女によって、“忌日”は早められたのですから」


 そう言って、彼は不愉快そうな笑みを浮かべた。それに従ってか、段下の面々も同じように瞳を曇らせた。

 ただ、星だけは表情ひとつ変えないで、その様子を見ていた。



●●2



 小鳥のさえずりを伴わない朝がきて、街並みは煉瓦の影ばかりくっきりして見えた。手すりの蔓草は花をこぼし、乙女はしおらしい欠伸でもって、その小さな花弁を愛でたのだった。

 薄い紗の寝間着はいかにも高価そうな刺繍が施されている。よく葉を蒸らした紅茶のような強い緋色の髪が、朝の尖った風になびいていた。彼女の持つ生来からの巻き毛は珍しいので、もしこれが人通りの少ない朝でなければ、さぞや人目を引いたことだろう。

 乙女は花を撫でてから、踵を返して室内に戻った。


「ソファイア、おはようございます。朝餉にしましょう」


 黒髪の乙女が微笑して言ったのを、乙女──ソファイアは微笑で応え、背後の窓を閉めた。


「パル様はもうお目覚めかしら」

「ええ。……ちゃんと朝餉を召し上がってくださるでしょうか」

「あら何か問題でもあって?」

「ずっとあちらにいらしたでしょう。あちらでは何も食べる必要がなく、空腹も覚えないと、カルセーヌさんが仰ってました」


 しかし乙女の心配は杞憂に終わった。

 生活という概念の欠けていたパルギッタは、初めこそ並べられた食事の意味を解さなかった。だが、イリュニエールの真似をしてパンを口に入れると、思い出したかのように──いや実際そうだったのだが──咀嚼と嚥下を始めた。

 十年近い歳月を無食無眠で過ごした彼女の胃は空であったはずだし、それに見合う食べっぷりを披露してくれた。ただ食後に少し苦しそうだったところを見ると、どうやら限度まで忘れていたらしい。


「イーリ、イーリ、お散歩行こう」

「それでは上着を召していただきますよ」

「はいっ!」


 かくして長らく過ごした特異な空間から脱したパルギッタは、すっかり普通の生活に慣れたのであった。

 その邪念のない瞳や愛らしい仕草に、乙女達はどれほど救われたことだろう。少女がそれを知り得ないのは、まだ彼女が乙女達の『仕事』を手伝えないからであり、つまりその背に翼がないからである。

 今日も少女の背は疼いた。

 細かな虫が這うような、錐の先でつつかれるような、どうにもしがたい不快感である。それにも臆せず、幼い容姿に見合った無邪気で、少女は微笑う。

 ああけれどこれは宿命であったから、いずれ彼女も空を抱かねばならないのである。その背に純白の翼を提げて。乙女達はそれを知っている。少女が為さねばならないことを。それが真に意味することに気づいているか否かは別として。

 ただ少女だけが、何も知らない。



→next scene.

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