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scene4-4 恋文

『はい、絶対に口外するなと言われて、猛毒を飲まされました。

 おかげで私はご覧のとおり喋ることができません。舌が解けてしまいましたので。

 ええ、生きているのが不思議です。これも天子の慈悲でしょうか?

 そんな慈悲は要らないと言えたらどんなにかいいでしょうねえ』


 ある女の手紙 風の月46日、ニルヴァー邸に届いたもの

 ●●1


 先日の討伐から、方女屋敷のようすは一変した。

 頭たるカルセーヌは以前にもまして忙しくなったようで、これまで最も集まりのよかった夕食でさえ欠席が続いている。しかし急に職務が倍増するというのも妙な話だ。

 では個人の用事なのかというと、あまりにカルセーヌが捉まらないので、誰も乙女が出掛ける理由や行き先を尋ねることができずにいる。

 今日も朝からカルセーヌの姿を見ていない。夜には帰ってきているようなので、かなり早くに出ていったのだろう。ここ数日はろくに挨拶も交わせていない。

 逆にミコラは部屋に閉じこもりがちになった。食事は呼べば来るが、ひどく辛そうな眼差しで皿を眺めることしきりで、結局あまり手をつけないで席を立ってしまう。

 可憐なる黒髪乙女と讃えられた彼女であるのに、今ではすっかり塞ぎこんでほとんど口も聞かないありさまだった。

 当人は語らないが討伐地で何かあったのは明白だ。

 そこへきてソファイアもそんなミコラをうるさく構ったりしなかった。詮索ずきの彼女らしからぬ話である。どうも乙女はミコラが落ち込んでいる理由を知っているように思えるのだが、それならそれでカルセーヌなり自分なりに相談するのが筋ではないかと、イリュニエールは思う。

 ソファイアはよく人に絡むけれど、それだけ情の濃い娘だ。そういう人となりを知っているイリュニエールにしてみれば、多忙極める方女頭やミコラなどより、ソファイアのほうがよほど不可解だった。

 しかし三人が三人なら、イリュニエールもイリュニエールでおかしい。

 そして自分のことだけに原因はわかっている。


「イーリ、今日はね、きっと面白いことが起きるよ」


 地味好みの乙女が居間で読書をしていると、パルギッタが急にそんなことを言いだした。

 イリュニエールは瞬きをして天子を見る。……いや、見ようとする努力はしたのだけれど、どうしても直視することができなかった。

 あの討伐地でのできごと以来、パルギッタに対しての恐怖心が拭えないままでいた。何に起因する感情なのかすらわからないのに、とにかく天子が、エサティカたちが恐ろしいと思えてならない。それもパルギッタに対しては、ひどく顕著に。

 それでも職務を全うするため耐えて乙女は天子に仕える。

 今日もまた、恐れる心を克服するためにと、わざわざエサティカたちの集っている居間を選んで本を読んでいたのだ。この場合その内容はどうだっていい。これは訓練のようなもの。

 そうして話しかけられても動揺しない程度には効果があった読書だが、視覚からの刺激にはまだ耐えられそうになかったようだ。


「……面白いこととは、どのようなものですか」

「ふふ。それはねイーリ、起きてからのお楽しみというのよ」

「そうですわ、イリュニエールさん。先に知ってもつまらないじゃあないの」


 くすくす笑っているエサティカたちが怖い。どうしてかはわからないけれど、とても。

 パルギッタだけでなくナージェにもどこか底知れないものがあるような気がして、そしてその背の大きな翼は威圧的でさえあって、イリュニエールの恐怖を助長するのには充分だった。


「心配しなくていいのよ、イーリにとっても嬉しいことだもの。それよりね、嬉しいことがあったら、それをミコラにおすそ分けしてあげてほしいのよ」

「ああ、ミコラさんはお元気がないようですものね。何かあったのかしら……。ソファイアさんは何かご存知?」


 ナージェがふいにソファイアに尋ねると、乙女は肩をすくめて、わかりませんわ、とだけ答えた。天子によく似た生きものが返答の代わりに翼を揺らす。乳香の匂いが鼻先をかすめていった。

 ──彼女は嘘をついている。

 ふいに心の裡で誰かが囁いたので、イリュニエールは驚いて本を閉じた。手許にパルギッタの視線を感じる。

 イーリ、読み終わったの、と幼い声が尋ねてきた。乙女は不自然にならないよう頷いて、本を手にそのまま居間から出ることにした。違うものを取りに向かったように見えるだろうか。

 座っていた椅子から扉までは大した距離ではないが、なぜだか妙に遠く感じた。

 扉を開けたちょうどそのとき、玄関のほうから声がした。呼び鈴の音も聞こえるということは誰か来客があるらしい。イリュニエールは見てきますと言って、退室するついでに応対に出ることにした。そしてできればもう居間には戻りたくなかった。

 時間帯からして恐らく郵便配達だろう。

 方女屋敷にはよく手紙が届く。実家を離れてくらしている娘たちを心配して、家の者がここを訪ねる代わりに手紙を寄越すのだ。両親のいないイリュニエールにさえ、叔父から折に触れて知らせが届くことがあった。そして時にはケオニ討伐を指示する壮報(ベンテ)も。

 そしてやはり顔を覗かせたのは配達人の服装をした若い青年だった。ここがどういう屋敷が知っている彼は、イリュニエールを見て少しそわそわしながら手紙の束を渡す。

 受け取ったものを検め、たしかに方女宛ての手紙であることを確認すると、イリュニエールは配達人に会釈して戸を閉めた。


「あら、お手紙ですか」


 いきなり隣から聞こえた声にイリュニエールはぎくりとした。いつの間にか、ナージェ・エサティカが立っていた。

 どうしてエサティカというのは動くときに音を鳴らさないのだろう。


「これはソファイアさんに? こちらはカルセーヌさんへのものね……まあ、パルギッタさまへはないのかしら」

「天子に手紙を差し上げるなんて、ふつう畏れ多いものです」

「それもそうね。あら、……こちらはあなた宛て。殿方のようですわよ」


 ナージェは楽しそうに笑むと、意外に隅に置けないんですのね、とソファイアあたりが言いそうな科白を口にした。浮世離れした容姿のくせに案外俗っぽいのだなとイリュニエールは冷静に思った。少しだけ恐怖感が薄れたので、ちょっぴりほっとする。

 その彼女が手渡してきた手紙はというと、見るからに上質な紙を使ったものだった。

 男性からだと聞いて叔父だとばかり思っていた乙女は絶句した。叔父であり養父でもあったフェンシャールも、亡き父と同じ男爵位で決して裕福ではないどころか、貴族とは名ばかりの平民に近い暮らしなのだ。手紙は封筒だって便箋だって、いつも質素で安い紙を使っていた。

 こんな高そうな封筒を使う人間は、イリュニエールの知り合いにはいない。あまつさえ男性に住所を教えることなど。

 驚きでイリュニエールが封筒を凝視していると、ナージェに他の手紙を取り上げられてしまった。


「他のお手紙はみんな他の方女宛てですわ。私が届けておきますから、イリュニエールさんはそのお手紙をお部屋でゆっくり読んでいらっしゃいな」


 そのままナージェは居間へ戻っていった。取り残された乙女は唖然としてそれを見送り、やがて我に返って、手にした手紙を見る。……ああ、これは何かの間違いではないのか。

 宛名はたしかに方女屋敷のイリュニエール・デュソロウへ、とある。流麗な筆致からも差出人の育ちの良さが滲み出ているようだ。封は緑色の蝋で、型はよくある花の形をしている。

 しかし封筒の表にも裏にも、その差出人らしき人物の名前はなかった。

 とにかく手紙を持って自室にひきとったイリュニエールは、とりあえず封を切ろうと思い、鋏を手に取った。が、なぜか手が震えた。これほど上質な紙を切ったことなどなかったからだ。

 封筒に傷をつけたくなくて、できるだけ端のほうに刃を当てる。

 必要以上に時間をかけて開けた封筒からは、これまた質のいい便箋が二枚入っていた。色柄はまったく派手でも豪奢でもないが、こんなに指触りのいい紙は、触っているだけで時間が経つのを忘れてしまいそうだ。


 ──突然お手紙を差し上げて、驚かせてしまったかもしれませんね。僕が差出人と知れれば騒ぎになってしまうでしょうし、きっとそれはあなたにとっても好ましくないでしょうから、表では名乗らず失礼しました。


 語り始めた手紙の主は、穏やかな文章で続ける。

 自分はいつもパルギッタのために方女屋敷を訪れてきたが、じつはひっそりと、イリュニエールに会うことも楽しみにしていた。寡黙な乙女がどれほど天子のために心を砕いてきたのか、自分にはわかっているつもりだ、と。

 遣う言葉そのものは務めて丁寧ではあるものの、文字の端々から甘い感情が零れているような、そんな文面だった。

 イリュニエールははじめ、手紙の言わんとしていることがわからず茫然とした。それから何度も何度も読み直し、五度目か六度目に「あなたにお会いすることが僕の秘かな喜びでもあったのです」の一文を眺めて、そこでやっと理解が及んだ。わかった瞬間かっと顔が熱くなった。

 これはいわゆる、恋文、ではないか?

 自分がどれほど地味でかわいげのない女かをよくわかっていたイリュニエールは、思いもよらない事態に焦った。しかも、しかもだ、手紙の末尾にはこう書いてある。


 方女屋敷のかわいい人へ

 ──ロシュテン=ヨエルク・ヴォントワース


 あのパルギッタお気に入りの侯爵の名前である!

 イリュニエールにとって彼は、パルギッタに信頼されているとても高貴な人間で、身分の低い己からすれば遠い存在だ。守護方女に選ばれていなければ一生顔を拝むこともなかったであろう。

 ただでさえ雲の上の相手であるし、イリュニエール自身人付き合いというものに消極的なのだから、彼のことはほとんど知らない。そもそも直接言葉を交わしたことだって、……先日のあれが初めてのことだった。彼の母親がすでに亡くなって久しいことも、それが中流以上の貴族社会では常識の範疇であるらしいことも、最近知ったばかりなのだ。

 その彼が、この自分にこんな手紙を送って寄越すなんてことが、ありえるのだろうか。

 どう考えてもおかしい。

 イリュニエールは手紙を掴んだまま手近な椅子に倒れ込んだ。こういうことがないように、女として最低限の生活を保ってきたはずなのに。

 決して身を飾らず磨かず、かといって天子の傍に侍っても遜色のないよう、清潔と慎ましさを守ってきた。いつか両親の仇を討つまでは誰とも婚姻したくなかったからだ。だから誰かに浮ついた感情を抱いたり、あるいは抱かれることのないように、地味で飾り気のない、魅力のない女であろうとしてきた。

 イリュニエールの社会的地位は極めて低い。それはどんな貴族から求められたときにも、こちらから拒むことが難しいことを意味している。

 侯爵からの求愛となれば拒絶は不可能だと言っていい。仮にお断りの文でも書こうものなら、高位の貴族、それも家位の高い相手を愚弄したとして、貴族じゅうから白眼視されてもおかしくはない。ロシュテンが恥を懼れてそのことを伏せたとしても、必ずどこかから話が漏れる。

 そして断ろうが拒もうが、最終的には本人そっちのけで婚姻の話がまとまってしまっている、そういう世界なのだ。

 もっともそれは最悪の場合であって、ロシュテンがそこまで強引な性格でなければ無理やりに結婚させられるということはない。が、家名を傷つけられたことには変わりないから、イリュニエールだけでなく叔父夫婦にも何かしらの不都合を押しつけられることになるだろう。


「……ほんとうに、そうかしら」


 けれどもなぜかイリュニエールは、気がついたらそう呟いていた。

 あのロシュテンが、いつも天子をあんなに優しい瞳で見つめている人が、そんなことをするだろうか。名前を伏せて手紙を送ってきたくらいなのだから、もっとずっと控えめな人柄なのかもしれない。

 先日とんでもない失礼を働いてしまったときにも、一言もイリュニエールを責めなかった彼が。

 もう一度手紙を眺める。なんてきれいで柔らかな文字だろう。どんなに豊かな環境で育てられたのか、それだけでもよくわかる。

 かわいい人、という言葉を一瞥して、胸の裡が跳ねたのを感じた。

 こんな自分をそんなふうに思えるものだろうか。ソファイアのような美しい髪ではない、ミコラのような大きな瞳もない、カルセーヌのような洗練された立ち振る舞いもできない自分。

 もしかしたら冗談で、とも、もちろん思った。だがこんなに真面目で礼儀正しい文なのだし、なにより差出人はあのロシュテンである。そんな悪趣味なことをするとは思えない。ふざけているようには、とても見えない。

 ──どうにかして、直接お会いできないだろうか。

 イリュニエールは落ち着かない心を宥めながら考えた。まずはロシュテンの真意を確かめなくてはならない。ほんとうに自分などをそんなふうに思っているのか、どの程度真剣なのか。

 そしてその上で、できることなら穏便に断る。いや不可能でもやらなくてはいけない。絶対に断らなくては。

 たとえイリュニエールに特別な覚悟がなかったとしても、そもそも釣り合わない相手なのだから。

 そう思うと、なぜだか胸が痛んだ。わかりきっていることなのに。



 ●●2


 乙女は彼女の姿を見て、もはや潮時だと考えた。

 病でも患っているかのようなその眼を天子に向けることは罪深い。その個人的な絶望を天子に向けるのは間違っている。たしかに彼女は悲しく辛い経験をしたのだろう、それは多少なりと乙女にもわかるが、かといって決して理解できる類のものではなかった。

 ミコラが嘆いているのはおぞましいケオニの死なのだ。方女としてそれは正しくはない。

 正しくないものは、裁かれなければならない。


 ──ミコラ・ダーチェル=フィッケンベレンに、翼下の裁定を、要請する。


 →next scene.

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