scene4-3 金色の乙女は憂う
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「あの娘を哀れと思うなら妻に迎えてやってほしい。このまま時が過ぎるということは、あの子にとってはあまりに惨いのだ」
ある高位貴族の言葉
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瀟洒な造りの丸い屋根をかたかたと揺らし、カルセーヌを乗せた鴬色の馬車が進む。
一番区では高位の聖職者と、それに準ずる位とされる上流貴族の居住区がある。住宅街と呼んでもいいのだが、個々の屋敷の間には広大な土地がそれぞれ庭園という名称で横たわっているため、隣の屋敷を訪ねるのでさえ馬車を出さねばならないほどだ。
じつは、方女屋敷はその中では比較的小ぢんまりしたものの部類に入る。その理由は定かではないが、古い書物の伝えるところでは第二十三代皎翼天子ニナイラジアの頃、天子自身の望んだ形式と規模で建てられたものであるらしい。ニナイラジアの言葉では以下のように命じたという記録が残っている。
──守護方女の身を知るに、是、最良なれども、過ぎたることはなし。
天宮の機能していた当時、方女屋敷が天子の住まいとして利用されることはなかった。それで方女四人が暮らすにはその程度の広さで充分だと考えたのだろう。
もっとも、その基準では今の貴族たちの屋敷は広すぎることになるのだが。
カルセーヌは窓の外へやっていた視線を正面に戻した。今は向かいの座席には誰もいない。ただ乙女たちのうち誰かが置き忘れたらしい花模様の絹の手拭だけが、銀灰色の座席に色味を投じている。
つい先日馬車に五人で乗り込み討伐に向かったのが、まるで随分前のことのようだ。そう感じるのはカルセーヌ自身が早く忘れてしまいたいと思っているからだろうか。
忘れものを拾おうと手を伸ばすと、ちょうど馬車が止まった。停車はゆるやかなものだったが、体勢が悪かったせいか少し手をつく。
カルセーヌは久しぶりにニルヴァー邸を訪れた。先に連絡をしておいたわけでもないが、女中は慣れたようすで乙女を出迎える。どうもカルセーヌが主の内密の婚約者であるということを知っているらしい。
「カルセーヌ! おいでになると知っていればお迎えにあがったのに」
そんな乙女の未来の夫は、相変わらず大仰な仕草と相反する知的な笑みで現れた。カルセーヌもどうにか笑おうとする。彼の嘘めいた話しかたも、今は慰めになる気がした。
乙女の表情がいまひとつ冴えないことにカイゼルも気づき、女中を戻らせる。
「参ったな、討伐からは無事に帰ってきたものと聞いていたけれど……そうではないようだ」
「ええ。今日こうして参りましたのも、あなたのご意見を覗いたくて」
カルセーヌはさっそく話を始めた。
まず、討伐地にいつも天宮紋が見つかること。それが本来はアルエネル派の教会や外伝派の貴族の屋敷だったということ。
それから、カイゼルが議会で天宮の話を持ち出した、ほんとうの理由が知りたいということ。
青年貴族は大いに驚いた表情でカルセーヌの話を聞いた。それから返事をする前に、部屋の周囲で聞き耳を立てている者がいないか確認しにいった。随分な念の入れようだ。
やがて戻ってきた彼は、真剣な面持ちで口を開いた。
「カルセーヌ、僕は思うのだけどね。どうしてケオニはいつもどこかに集まるのだろう」
「それは共食いをするためですわ」
「では、ケオニはみんな共食いを?」
「年月の経ったものなら……そういえば、そこまで進んでいない若い個体でも、群れには加わりますね。なぜかしら……考えたこともなかったけれど」
カルセーヌはちょっと考えて、それからカイゼルを見る。
「集まる理由がほかにあるのでしょうか」
「そう。誰か、彼らを一つ所に集める人物がいると考えたほうが自然です。そして恐らくその情報が議会に伝えられ、あなた方のもとへ壮報が届く。……ただし僕も議会の人間ではあるけれど、ケオニに関する情報の集積は他の議員の職務なので、詳しいことはわかりませんが」
ただし、と前置きをして、カイゼルはとんでもない話を始めた。
彼の考えでは、ケオニたちは自然に発生するものではない。どこかに、誰をいつどこでケオニとするか、裁定をする者がいる。あるいは組織的なものかもしれない。
翼を仰がないものに対して罰を与える機関が存在するとしたら、それは同時に、ケオニたちから一般の民衆を守る働きもしているはずである。もしケオニが町に現れ人びとを襲えば、拝翼思想は危ういものとなるからだ。
ケオニはだから、何らかの力でいつも廃墟に閉じ込められている。
方女に討伐依頼が出されるのは、ケオニの数が増えすぎたりした場合であると思われる。逆にケオニが少ない場合、方女への依頼は途絶え、代わりにどこかでたくさんの人間が消えることになる。
十年以上前、貧民街で人口の激減が起こった。その原因は伝染病であるということになっているが、死んだ人間をどう処分したのか、どこに埋葬したのかといった記録が残っていない。実際には彼らは死んでおらず、集団でケオニになったのではないだろうか。
その直後には五番区災害があった。下流貴族たちがケオニに襲われ、地区全体が廃墟と化した痛ましい事件だ。
しかし下流貴族の多くは拝翼意識が希薄だったという記録もある。彼らは貴族であり税も納めてはいるが、天顔の拝謁や大聖堂への参拝などが制限されており、またその生活にも余裕がなかった。そのためか、上流貴族に比べて教会への奉仕活動が少なかったという。
つまり五番区災害は、下流貴族に対する制裁だった可能性がある。
「待ってください、めちゃくちゃです。それではまるで、パルギッタさまが──」
あまりのことにカルセーヌはいきり立った。そして、まるで天子が独裁者か何かのようだと言おうとして、そこで言葉を詰まらせた。
天子のことをそう喩えたのは、あのアビン博士だったではないか。
では、こんな話をするカイゼルは、彼も立侯士会の一員だとでもいうのだろうか。天子に仕える守護方女の代表、方女頭の将来の夫となるべき人物が。反翼主義者だったというのか!
あまりにもひどい裏切りに、カルセーヌの両手は膝の上でわなわなと震えた。信じられない。めちゃくちゃだ。涙さえ込み上げてくる。
だが動揺を抑えきれない乙女とは裏腹に、青年は落ち着いた口調で続ける。
「パルギッタさまではないかもしれない」
「どういう、意味です」
「天子はもうひとりいるんです。パルギッタさまのほかに、白い翼を持っているエサティカが」
そしてカルセーヌは、今度こそ頭が真白になった。
「あ、……あなたは、自分が何を仰っているかわかっているの? そんなことあるわけがない! 私たち方女が十年かかってやっと見つけ出したパルギッタさまのほかに皎翼天子がいるわけがない!
それなら私たちがお守りしているあの方はいったいどなたなのですか!?」
「落ち着いてください、カルセーヌ」
「やめて!」
カイゼルが触れようと伸ばした手を、カルセーヌは思いきり弾いた。ばちんと室内に響くほど大きな音が鳴った。
そのまま肩で息をする。……こんなにひどい侮辱を受けたことがいままであっただろうか。母ともどもビオスネルクの屋敷に上げてもらえなかったときでさえ、これほど悲しくはなかった気がする。
どうしてあのパルギッタが、カルセーヌやミコラやソファイアや、彼女にいちばん近いイリュニエールを、欺き続けてきたというのだろうか。どうやって? なぜ? どうしてそれに今まで誰も気づかなかったというのだ?
もしそうなら彼女が浄済を行えたはずがない。
もしそうなら彼女があんなに輝いているはずがない。
彼女こそが天子であると、清く正しい天子なのであると、信じたい。
「……信じてもらえなくても構いませんよ。僕だって理論的な説明ができるとは思わない。けれど、これは真実なんです。この世界に天子はふたりいるんだ。ひとりはパルギッタさまで、もうひとりはつい最近まで天宮やヴォントワース邸で匿われていました」
「……」
「ロシュテンの父君が亡くなったのは、その天子の仕業です。彼女が殺した」
“人を殺した天子”。
その言葉に乙女はうなだれる。聞こえてくる言葉のすべてがわずらわしく、彼女の心の大切な部分を崩落させようとしている気がした。
正しいものなど、どこにもない。守ってきたものが、指と指の間から、水のように逃げていく。それはいつまでもとどまることがなく、そのうちに深い海になって、カルセーヌを沈めてしまう。
「カイゼルさん」
誰もかれもが彼女を裏切るというのなら、秘密を抱える乙女たちもまた、どこかでカルセーヌに斬りつけようとしているのかもしれない。この世界のなにか重大な真実を知っていて、それをある日突然に突きつけてくるのかもしれない。
今やっとのことでここに存在しているカルセーヌに、次はきっと致命傷を与えるだろう。
「何を信じたら、いいのかしら」
不思議なもので、涙は出ない。驚きすぎてどこかに引っ込んでしまった。悲しみが大きすぎて、それをほんの少し流したくらいでは、慰められそうもない。
カイゼルは今度こそカルセーヌを抱き締めて、こう言った。
「できれば僕を信じてもらいたい。けれど、こんなにもあなたを傷つけてしまった以上、無理強いはしません。
……どうせいつかは話さなくてはならないと思っていたことだ。今後あなたが僕を裏切り者だと罵ることも、班翼主義者だと告発することも、婚約を解消することも、僕は甘んじて受けるつもりです」
「でも、どうしたらいいの」
「それはあなたが考えるべきだ。方女頭としてではなくカルセーヌ・ビオスネルク個人として。僕も次期法帝候補としてではなく、僕個人としてあなたに告白したのだから」
「個人?」
乙女はその慣れない響きの言葉を反芻する。
幸いにしてカルセーヌは聡明だった。女性というものは往々にして興奮しやすいものだが、それでもかなり冷静な部類に入る。それはもちろん身分の合わぬ婚姻をした両親のもとに生まれ、幼いころから自制と自律を余儀なくされてきた、彼女の悲しい半生に由来するものだ。
らしからぬ騒ぎのあとでまだ乙女の心は落ち着いたわけではなかったが、かといってカイゼルの声が届かぬほど荒れているわけではなくなっていた。水切りの石が沈むように青年の言葉が降りてくる。
今までのカルセーヌは、まず何より方女頭だった。
それまでビオスネルクと名乗りながら本家の家系図には名前さえ記されていなかった彼女に、存在意義を初めて与えたのが、聖堂からの大命降下の知らせだったのだ。まだ幼かったカルセーヌにもその重さと確かさだけは理解できた。三人の「妹たち」とともに血を吐くような訓練を耐えぬいたのもひとえにそのためだ。
──私は守護方女の長、方女頭のカルセーヌ──そう思うことが励みになった。
そうでなければ、カルセーヌはいったいなんだというのだ。ハーシモスの娘であれど、ビオスネルクの家の者として扱ってはもらえない。「ただのカルセーヌ」には居場所がない。
階級社会は非常なもので、方女頭のカルセーヌでなければ、どこに顔を出しても誰にも相手にされないのだ。
そしていつかカルセーヌも歳をとる。天子も世代を代え、守護方女は若い娘たちに編成し直される。
方女頭ではなくなってから、再びただのカルセーヌとならないために、娘のことを憐れんだ父の計らいによって乙女はカイゼルと婚約したのだ。今度はニルヴァー家のカルセーヌとなれるように。ニルヴァー家の家督はすでにカイゼルが握っていて、ふたりの婚約に反対できる者がいないのを見越してのことだ。
天子の加護でもあったのか、カイゼルもその提案を快く受け入れてくれた。
「……少し、混乱しているの。今日のお話は、その、落ち着いてから考えさせてください」
「もちろんです。僕としてもそれが望ましい」
「さっきは声を荒げてしまって、ごめんなさい。はしたない真似を」
「あんな話を聞けば誰だってそうなる。こちらももう少し配慮すべきでした。……さ、帰りもお気をつけて」
救い主でもあったカイゼルを、そんなに簡単に憎むことなど、カルセーヌにはできない。それではあまりに短慮がすぎるというものだ。
信仰を挫かれた痛みが薄れることは決してないけれど。
それでも、まだ結論を出すには早すぎる。カイゼルの話したことが事実かどうかも見極めなければならない。もしかしたら彼の思い違いなのかもしれないのだ。できればそうであってほしい。
でも、もしもそれが真実なら。白い翼の天子がふたりいて、ケオニを操るものがいて、そうやってこの世界が操作されているというのなら。騙されていたというのなら。
虚構を崇めていたのだと知った、そのときは。
「最後にこれだけ言わせてください、カルセーヌ。僕があなたを未来の妻に選んだのは、あなたが方女頭だからでもビオスネルク伯の娘だからでもない、個人としてあなたを素晴らしい人だと思ったからだ」
そして別れ際の彼の言葉が嘘ではないのなら、そのときはきっと、カルセーヌはもう懼れることはないだろう。
肩書きや翼に頼らなくても、立っていられる場所がある。もしも沈んで溺れてしまっても、引きあげてくれる人がいる。
妹たちはなんと言うだろう。なんと罵るだろう。いったいそれのどこが短慮でないと言うのか、なんと無責任な方女頭だ、と蔑まれるだろうか。それも甘んじて受けねばなるまい。
──どちらにしてもまず、世界の真理をこの眼で確かめなくては。
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