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scene4-2 愛すべきエサティカ

「あれは何年前のことだったか。当時の趣味は登山で、あちこちの山を回っていたのだ。

 そこで私は不思議な人物に出逢った。

 小さく光もろくに射さない山小屋に暮らし、質実とした生活に甘んじながら、日に三度天子への祈りを忘れない、そういう人だった。今にして思うと彼は聖人か何かだったのかもしれない……」


 ある貴族の言葉


_

 ●●1


 イリュニエールはそれを見た。

 暗がりに佇む、ひとりの冒涜者を見た。彼は何かを食べているわけでもなく、ただ身体を左右に揺らしながら、イリュニエールのことを見ている。

 彼はきゅうにけたけたと笑いだした。身体の揺れが大きくなる。だいぶん脆くなってしまった身体はその振動に耐えきれないのか、みしみしと軋みを上げている。皮膚が割れて透明な体液が流れ出す。冒涜者はそれを指で拭い、舐めた。

 イリュニエールは強い嫌悪の思いで、彼を見た。


「ここにいたのか。そうだな、そう考えるべきだった」


 呟くと方器を構える。イリュニエールの鎌はまるで、鳥が翼を広げたような恰好をしている。


「イーリ、彼は」

「いいえパルギッタさま、この者には浄済は必要ありません。殺します」

「……何を言っているの?」


 イリュニエールの張り詰めた声音とは裏腹に、天子はおっとりと尋ねてくる。平生と何も変わらない優しい声だ。何も恐れない、何にも敗れることのない存在感。

 元来天子とはそういうものなのだろうとイリュニエールは思った。

 返事をするのは億劫だが、天子の言葉に黙っているわけにもいかないので、短く答える。

 ──この者だけは、私の手で。

 それに対するパルギッタの返答はなかったけれども、イリュニエールはそれを肯定だと受け取った。静かに頷く少女の姿が心に浮かんだのだ。

 地を蹴る。鏡のように磨き上げられた刃は一閃し、冒涜者の(はらわた)を抉る。彼はなんとも表現し難い不気味な悲鳴とともに、床の絨毯の上に這いつくばった。ぼたぼたと血の泡が流れ落ちる。

 まだそんなに血があるのか。イリュニエールは薄く笑みを浮かべる。

 これならまだいくらでもじっくりとなぶり殺しにしてやれる。


「イーリ」


 背後からパルギッタの声がする。いつかと似たような状況だが、イリュニエールは今度こそ返事をしなかった。

 もっとこいつを痛めつけてやらなければ。ただその感情だけが今の乙女を支配している。

 虐げなくては。苦しめなくては。傷つけて傷つけて、早く殺してくれと、その口に──イリュニエールを孤独に追いやったその忌々しい口から言わせてやりたい。

 イリュニエールの心は今、そのために餓えている。


「……イーリ。」


 もう一度咎めるように天子の声がした。イリュニエールはいい加減それが鬱陶しかった。

 ──邪魔をするな。

 声には出さなかったが、確かにそう思った。

 返事の代わりに鎌を振り上げる。今度は肩を割いてやろう、と狙いを定める。振り下ろす。

 だが、その刃は冒涜者に届く前に、止まった。


「イーリ、やめなさい」

「……天子さ、ま」

「やめなさいと言っているでしょう」


 イリュニエールにはわからなかった。何が起きたのか、理解できなかった。

 自分の身体だというのにぴくりとも動かない。無理に動かそうとしても、震えてしまうだけだ。そしてやはり背後からは、射竦めるような、天子の視線。

 うう、と、おかしな声が出た。

 今、振り向いてはいけない。

 なぜか強くそう感じた。そもそも振り向くことなどできないはずだが、そんなことはどうだっていい。今は振り向いてはいけない。パルギッタを見てはいけない。

 ……パルギッタの翼を、見てはいけない。


「そう、それでいいの。いい子ね」

「──っ」


 急に傍で声がしたのでイリュニエールは息が止まりそうになった。次の瞬間、ひやりと身体に冷たいものが走ったかと思えば、小さな手が乙女の肩に乗せられる。

 すると、イリュニエールの身体はがくがくと震えだした。


「あ……あ……っ」


 何か言おうとしたけれど声にならない。舌がもつれて、喉が絞まって、声が出てこない。

 自分のすぐ後ろに天子がいる。それがなぜだか恐ろしい。怖い。よくわからないままに涙が出てくる。

 違う。

 後ろにいるこの人は、皎翼天子では、ない。慈愛の化身、聖母、愛されるべきエサティカ、そんなものではない。決してない。そう感じている。そう思っている。こんなに恐ろしいものがあのパルギッタであるはずがない──。

 すっと、肩越しに天子の腕が伸びてくる。

 穢れひとつない真っ白なそれを横目で見ながら、イリュニエールは泣きじゃくる。


「人違いよ」


 天子は囁く。


「この“受難者(ガユンニ)”はまだ若い。イーリの探しているケオニなら、もっと歳をとっているのじゃない? もう眼で見てもわからないくらいにね……。

 さあ、始めましょうか」


 もう片方の腕がイリュニエールの首に巻きつく。まるで後ろから甘えて抱きついてきたような体勢で、パルギッタは浄済を始めた。

 冒涜者は──受難者とも呼ばれたそれは、その眼に何を見たのか、ひれ伏す。


「あなたは、己の過ちに気がついたのですか?」


 天子の言葉に、冒涜者は言葉を使えなくなってしまっているらしく、返事の代わりに頭を床につけた。


「では、私はあなたを赦しましょう。苦痛を解かれ、眠りなさい」


 冒涜者は今度も返事をしなかった。床に頭を擦りつけ、そのまま崩れるようにして倒れる。そして実際に彼の身体は真っ白な灰となって、みるみるうちに崩れていった。

 あとに残ったのは、静寂ばかり。

 イリュニエールはそこで意識を手放した。



 ●●2


 カルセーヌは書斎と思われる部屋にいた。壁一面が書架となっている。下流貴族であるにもかかわらずこの規模ということは、どうやらこの屋敷の主は相当な読書家であったらしい。

 ここへ来る前には子ども部屋があったが、そちらも遊び道具よりたくさんの本があった。


「ああ、……なんということ」


 見上げて、思わず独りごちる。

 窓枠にはまた天宮紋が彫り込まれていた。家紋の雀とかたばみは、そこにはない。明らかに表面を削り取ってから彫り直した痕があった。

 だが、それはおかしいことだった。

 カルセーヌは書架を見る。いちばん眼に着く場所に堂々とおかれた聖伝──天子の教えと聖人たちの伝説をまとめた書物は、二種類ある。本伝書と呼ばれる基本的なものの隣に、対して外伝書と呼ばれる、付属的な内容を記したものだ。

 外伝書はふつう、家には置かない。外伝書の内容を重要視するのは一部の宗派だけだからだ。

 その一部の宗派というのは、主にはその名のとおりの外伝派、聖人教会派、そして正文派の三つ。つまり天宮派は含まれない。ここでひとつカルセーヌの立てていた仮説が否定された。

 前回、冒涜者は偶然天宮派の家に棲みついたわけではなかったのだ。

 よくよく考えてみると、イリュニエールの言っていた教会も、立地から考えると天宮派であるよりアルエネル派だった可能性が高い。そもそも天宮派の信者数自体は決して割合でも絶対数を見ても多くはないのだ。


「天宮紋……天宮に何があるというの……」


 思えば、天宮を最初に気にかけたのはカイゼルだった。彼が議題に上げなければ、もしかしたら天宮は今でも残されていたかもしれない。

 もしかしたらそれが彼の目的だったのではないか?

 ああ、今、カイゼルを訪ねたい。彼にすべてを話して二人で考えられたなら、どんなに心強いだろう。カルセーヌひとりではことが大きすぎるような気がして、気が滅入ってしまう。

 ふと乙女たちのことを考えた。ひとりで抱え込もうとしていたのは、カルセーヌも同じだったのか。

 カルセーヌは溜息をつきながら方器を背後に向かって突き出した。案の定そこでは醜い悲鳴がする。佇む乙女を見て食欲のままに突進しようとしたケオニだ。

 そこへ堰を切ったように大量のケオニがなだれ込んできた。

 カルセーヌの方器の便利なところは、上手くすれば一度に何匹かを葬ることができる点である。一突きで貫き通すことのできる、その鋭利さと言うべきだろうか。

 血飛沫を避けながらカルセーヌは進んだ。

 逆に弱点を述べるのなら、多方面から一気に責められたときは弱い。この槍は側面での攻撃には強くないのだ。仕方がないので力押しで薙ぎ払ってから、一体一体順に仕留めていく形になる。


「……え?」


 ある一体を屠った瞬間、カルセーヌは瞬きをした。今、方器が輝いた気がする。

 パルギッタに何かあったのかもしれない。方器というのはもともと儀式用の武器なので、装飾に何かの(まじな)いが施されていることは充分に考えられる。

 ……浄済が行われたのだろうか。


「この中に天子の赦しを得たい者はいるか!」


 乙女は叫んだ。ケオニたちは天子という言葉に反応してびくりと身体を縮ませる。

 そのうちの一体が、否、と答えた。

 カルセーヌは彼を見る。恐らくは男なのであろうそのケオニを見る。黒ずんだ褐色の肌、痩せ細った身体、しかし不自然に大きく丸く膨らんだ腹、落ち窪んで膜の張った眼。ごくふつうのケオニだ。

 彼はもう一度はっきりと、否、と答えた。


「私は天子の赦しなど請わぬ。そして私も天子を許すことはない」


 不気味なほど理性的な声音だった。ケオニであるのにまるで人間のような。

 カルセーヌは思わず彼に尋ねた。おまえは何者だ、と。ただの町民や身分のないものたちのような気がしなかったからだ。


「我が名はデルフィト=ベスエスタリウス・アビン」

「アビン……まさか」

「いかにも、立侯士会(シクァトーク)名誉委員のアビンだ。かつては天宮庁専任博士をしていた」


 カルセーヌは気絶しそうになった。シクァトークで元天宮庁専任博士のアビンといえば、かの有名な反翼論者、アビン博士ではないか!

 彼が政治の表舞台から姿を消してもう何十年と経っている。人間であれば生きているか否かも怪しいほどになるはずだが、ケオニになっていたとは。そのうえ、理性を失わずに方女の前にも天子の名にも平然としているその姿。

 アビンはカルセーヌに向かって、嘲笑を込めた言葉を吐きかける。


守護方女(メルシエ)。おまえが仕えているあの女が何をしてきたのか、知っているか」


 知らないだろう?──ぐしゃぐしゃの顔に下卑た笑みを浮かべたアビンは、一歩カルセーヌに近付いてきた。

 乙女は咄嗟に方器を彼に突きつけて牽制する。それ以上こちらに近寄られてはいけない。いや、近寄られたくない、が正しいか。


「貴様もかつては敬虔な拝翼者だったと聞いているが」

「それも昔のことだ。私は、いや、私だけでなくあらゆる民は、天子に裏切られたのだ……そんなことも知らず、虐げられた民を傷つけるか、守護方女。それも金の槍を持つ乙女とあれば、方女頭(メルク)なのだな?」

「何を、わけのわからないことを」

「方女頭。あの女にとってはな、この世界などただの余興にすぎぬのだ。翼という記号を使って民を惑わし、自らを最上と崇めさせ、従う者には施しを与えはするが、そうでない者にはこのような罰を与える、傲慢な独裁者……それがおまえの主だ。それが皎翼天子(エサティカ)なのだ」


 カルセーヌは押し黙った。アビンの言うことが一見、正しいような気がしてしまったからだ。

 確かに天子を冒涜した者はケオニになる。それを見た者は誰しも、自分はああはなりたくないと、天子を崇めるようになるだろう。あらゆる権力は天子に集中するだろう。

 でも、それは、歪んだ発想だ。

 落ち着け。カルセーヌは自分を叱責する。生きることはすなわち天子の加護を受けるということなのだ。その返礼に彼女たちを愛するのは、当然のことのはず。

 わが愛を受け、心正しく生きよ。それが天子の教え。そのどこが間違っているというのか。


「天子はいずれこの世界を滅ぼすぞ。それも近いうちにな」


 続くアビンの言葉は呪いのようだった。


「抗いたければもう一羽の鳥を探すのだな。御し、殺させ、そして殺すのだ。そのために断翼台があるのだということを忘れるな」

「もう一羽の鳥だと? それはどういう──」

「ふん、理解が及ぶまで終末説でも読み返すがいい!」


 言い終るより早くアビンは身を翻した。カルセーヌはそれを止めようと前に出るが、それまでおとなしくしていた他のケオニたちが群がってきて邪魔になる。まるで彼らがアビンに協力でもしているようだ。

 カルセーヌは軽く悪態を吐きながらそれらを払いのける。

 だが、そうしている間に逃げられたようで、アビンの姿はなくなっていた。あとには似たような姿のケオニが転がっているばかりで、それも皆のろのろとカルセーヌに向かって這ってくる。

 乙女は槍を構えなおした。低い呻き声が室内にこだまする。アビンを追っている余裕はない。

 方女頭ともあろう者が、反翼主義者の言葉になど惑わされてはいけない。


「……どうしたの、ルシ―?」


 まとわりついてくるケオニを蹴飛ばしながら倒していると、背後からおっとりと話しかけてくる人物がいる。

 カルセーヌには振り返らなくてもそれが誰なのかわかる。自分のことをそうやって短く呼ぶのは、世の中広しといえども、愛すべきエサティカしかいない。

 ただ、少女はイリュニエールと一緒に、敷地内の西側にいるはずだった。それがどうして北側にいるのだろう。イリュニエールの声や気配もしないが、まさかひとりだというのか。

 ケオニの攻撃をかわしながら一瞬だけ後方に視線を向けたが、やはり天子の姿しか見当たらなかった。


「パルギッタさま、イリュニエールは」

「イーリなら大丈夫よ。ただ意識がないの……手が空いたら迎えにきてちょうだい」


 また、誰かが倒れた?

 ミコラの次はイリュニエールが。一体この世界には、どんなに恐ろしいケオニがいるというのだろう。

 乙女は軽い眩暈を覚えたが、天子に対しては、仰せのままに、と答えるほかなかった。



→next scene.

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