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scene3-8 彼の視るもの

聖伝に曰く、トーエの尾羽根を得る者は、万病より逃れる。

聖伝に曰く、ケチェスの眼の玉を得る者は、災いを退ける。

外伝に曰く、トーエに尾はなく、ケチェスは盲目の鳥なり。


_

 ●●1


 ナージェが滞在を決めてから三日も経たないうちに、二通目の壮報が届いた。

 貴族議会と大聖堂でそれぞれ審議している間、乙女たちは討伐のための支度にとりかかった。今度はパルギッタも同行するとあってこれまでとは雰囲気が異なる。衣装や武器の手入れはとくに念入りに行われ、天子の衣装はじつに十一種類も用意され、出立日の一週間ほど前に仕立て直しをした。

 なお討伐の際の天子の衣装というのは、基本的には方女のものと揃いである。地色は黒で、灰色や銀の糸で刺繍を施し、その他の装飾は極力省かれている。ただ、やはり天子の着用するものであるため上質な布を使い、背中が大きく開かれ、そして方女たちのように立ちまわる必要はないので丈がやや長い。ちなみに布地の黒は喪の色である、というのが有力説だ。

 用意された衣装のうち、二着ほどは聖堂の旧天宮管理部から送られた、過去の天子が召したものだった。パルギッタに着せるにはあまりに丈が長いので測ってみたところ、なんと腰から下だけで八尺近くあった。もちろん大人でも長すぎる丈だ。これでは、裾を誰かに持っていてもらわなければまともに歩くことも難しい。

 これを着ていた天子は浄済の間ずっと空を飛んでいたのだろうか。


「ところで、討伐の間ナージェさまはどうなさるのです?」

「ご心配なく。ヘーンケピテン伯爵のお屋敷から、ぜひにとお招きがありましたから」


 エサティカの少女も自分の荷物を小さくまとめている。彼女の背にある翼を見るたびに、乙女たちはなんともいえない高揚を感じてしまうのだった。いつかパルギッタにもこうして──そんな思いが胸のどこかにあるのだろう。

 パルギッタはパルギッタでナージェをよく慕っていて、先日は翼で飛ぶところが見たいと「お願い」していた。ただその要望は聞きいられなかったのだが。

 風切り羽根を痛めているから、というのが、ナージェの返答だった。

 上手かったのはそのあとのとりなしだ。しょげてしまったパルギッタに「だから今はあなたと同じ飛べない天子なのですよ」。パルギッタは少しばつが悪そうに、でも少し笑って、おそろいねと言った。

 ふたりのエサティカのやりとりを見ていた乙女たちのうち、まるで姉妹みたいですわね、と言ったのは誰だったのだろう。


「しかし今度の討伐ですけれど、ミコラは留守番させたほうがよろしいのじゃないかしら」


 ふとソファイアが不安げな声でそう言った。それまでナージェの髪を梳いていたミコラは驚いたような表情で乙女を見る。他の乙女やパルギッタは、むしろミコラのほうを覗った。


「まあ、どうしてですか!」

「だってあなた、この間はああして……あたくしは心配しているのよ。どんなケオニに遭ったのかは知らないけれど、一度敗北した相手というのは、次からは恐ろしくなるものだわ」


 乙女の言葉にミコラは蒼白になって答える。


「ソファイア、確かに先日のわたしの失態はその、……自分でも恥ずかしいくらいですわ。でも、だからこそ今度はしっかりおつとめします」

「やり遂げる自信があって?」

「はい。……今度こそ、きちんと仕留めてみせますから」


 だそうですわよ、とソファイアはカルセーヌに目配せをする。乙女の表情は、まだ不安が拭いきれてはいないようだった。カルセーヌは小さく溜息をつく。

 仕方がない。パルギッタを連れていくと決めた以上、手を減らすわけにもいかない。本人は大丈夫だと言っているけれど、まだこの天子には翼も、そして浄済の経験もないのだ。身体もやっと歳相応に近付いてはきたが、そうしてもなお子どもなのだ。

 ミコラの言葉を信じる他に、方女頭としてカルセーヌのできる決断は少ない。


「わかりました」

「……カルセーヌさん!」

「ただし、条件があります。あとで私の私室に来ること……よろしいですね?」

「承知いたしました」


 そうはいってもカルセーヌは、この件に関して必死なようすのミコラがどうしても痛々しく思えてならなかった。幼い、と感じるのだ。もう十年以上のつき合いになるが、こんな乙女を見るのは、もう何年ぶりのことになるだろう。

 ──いや、幼いこと自体は構わない。

 カルセーヌにとっては、討伐やその他の行事以外では、方女たちは妹のようなものだった。昔はよく相談ごとを聞いたりもした。どこそこのご子息とこんなお話(デート)をした、大人に叱られてしまった、何かで失敗してしまった、ときには戦闘訓練が厳しくて辛いと泣きつかれたこともあった。そういうとき最年長のカルセーヌはいつも、頼りになる姉役をした。

 最近ではそういうこともあまりない。カルセーヌ自身が忙しくて屋敷にいられなくなったこともあるが、乙女たちも多くのことを自分で解決できるようになったからだ。

 成長を見るのは嬉しいが、同時にどこか寂しいものである。だがそれだけではない。

 何かを抱え込んでいるのに、それを打ち明けない、そういう乙女がいることには気づいている。

 ふとカルセーヌは天子を見た。

 (そういえば、それはパルギッタさまがお帰りになってから、ではないか……?)

 恐らくは翼を持たない幼い天子が現れたことで、きっと乙女たちは姉になろうとしたのだろう。弱い姿を晒さず、したたかであるには、いつまでも妹役に甘んじていてはいけないと。

 それでもカルセーヌの妹であることに変わりはないと、カルセーヌ自身は思うのだけれど。



 ●●2


 「彼」は普段、とても暗い場所にいる。

 彼は、男であるとは限らない。ただ、彼は彼という存在である。

 棲み処は粗末な藁敷きの寝台と水桶のある石造りの小屋で、明かり取りの窓が必要最低限の小さなものしかなく、室内はいつでも暗く湿っていて冷ややかだ。そこで彼は毎日寝起きして食事をして睡眠をとっている。その点においては他の生物と対して変わらない。

 だが彼は、生物であるとは限らない。

 それではいったい何者なのか? ……残念ながら、彼を分類することはとても難しい。

 彼には名前がない。自らに対する呼称も、ない。なぜなら彼はいつも独りだからだ。

 普段は滅多にこの小屋から出てこないからだ。

 しかし孤独ではない。

 それから、村八分を受けているわけではない。そもそも彼の棲み処に隣人など存在しない。彼が暮らすのは町や村のような集落ではないからだ。

 では病気なのかというと、そうでもない。彼はいたって健康であるか、あるいはつねに安定した状態にある。

 彼が出ていこうと思えばいつだってそれは可能だが、それでも彼がこの小屋を離れないのは、そうするよう定められたからだ。

 必要があるときだけ、彼はここを出る。そのときは必ず一本の杖を持っていく。

 この杖こそが彼を彼たらしめている重要な道具だ。

 そして彼は、町へ行く。


「あなたは天子を愛していますか?」

「天子はあなたに何かを与えましたか?」

「あなたは、天子をどのような存在だと考えますか?」


 彼の口にするべき言葉はあまり多くはない。定型文を使い回しているようなものだからだ。

 町で彼は以上のような質問する。

 大抵の人は、天子を称賛する。──もちろん愛していますとも。我々の子どもたちを見てください、彼らはすべて天子からの贈りものです。天子は第二の母のようなものです。聖伝を読んでいると、非常に多くのことが学べます──。

 そういった言葉に彼は満足して、彼らに天子からの施しを与える。彼の持っている杖がそれを可能にする。

 施しを受け取った人びとは、彼に感謝と愛を込めてくちづけをする。

 だが残念ながら、すべての人がそうではない。ときには口汚く罵る者、そもそも天子の教え自体をよく知らない者、まったく関心を持たない者がいる。天子の存在を信じていない者さえいる。

 彼らは口ぐちに、天子が実在するなら連れてこい、何か芸でもしてみせろ。それで自分たちの暮らしが良くなるなら、何かが得られるのなら、幾らでも信仰してやる。何も与えられない限りは天子を憎み蔑むだろう、と喚くのだ。もっとひどい言葉を吐く者も少なくない。その奇形の女はどこの売春宿にいるんだ、と嗤いながら尋ねてきた者もいた。

 彼はそういった悪口雑言を聞くととても悲しくなる。

 悔しくなる。

 切なくなる。

 だから彼は杖を鳴らして、こう宣言するのだ。その声に深い憤りを込めて。


「天子冒涜の罪で、あなたを落刑に処します」


 何もそれは、彼がなんらかの特別な呪いを人びとに与えたわけではない。人びとが気づかないうちに得ている天子の愛と施しを、その罪の重さだけ、没収するだけのことなのだ。

 その結果として彼らは(かつ)えた冒涜者の姿に変わる。

 もっとも良いとされる領域を最上とするなら、彼らの陥った領域は最底辺ということになる。なのでその罰のことを落ちる刑、即ち落刑と呼ぶのだ。

 彼らが改心すれば、再び彼らの身体は天子の慈愛と恩恵とに充ち満たされて、自然と本来あるべき姿に戻ることができる。彼の理論上ではそうなる。しかし愚かな彼らはそのほとんどが自らの過ちに気がつかず、その苦しみを天子の責任であるとの勘違いを続けるものだから、いつまで経っても満たされることがなくなってしまう。

 彼にはわからなかった。

 どうして人びとは簡単に天子の愛を見失ってしまえるのだろう。そこかしこに天子の温かい手が差し出されているというのに。

 彼自身の生活も、冒涜者となり得る人びとからすれば粗末で貧しいものなのだけれど、彼にとっては十二分に満ち足りたものなのだ。光などなくてもいい。たくさん食べなくてもいい。恥ずかしさなど微塵もない。

 心に天子の愛を感じていれば、たとえ地獄ででもまっすぐに生きていられる。

 そんな彼だからこそ、この任に選ばれた。

 彼のことは聖伝や天子に関するあらゆる書物には記されていないだろう。もし記述があったとしても、それは伝承の域を出ない曖昧なものであるはずだ。

 なんといっても、彼自身が理解していない。自分は何者で、どうしてここで生きているのか。あるいは死んでいるのか。

 恐らく、かつては何者かであったのだろう。名前もあったかもしれない。だが、あまりにも永い年月が過ぎ去ってしまった今では、何ひとつ思い出すことができない。

 確かなのは、彼の存在がただ天子のためだけに存在している、その事実だけである。


「“アールフエネール”よ」


 それ以外で彼の特記するべき点は、彼が天子を呼ぶ際の呼称だけだ。

 何代天子が替わっても、彼は必ず初代天子の名前を、それもひどく古い発音のまま呼ぶ。彼の中で天子が一貫していたせいなのだろうか。あるいは、表に出ることの少ない彼は、世代交代したことを知らないのかもしれない。


「今日も多くの者が忌まわしい身に堕落しました。民の眼は曇ってしまったかのようです。

 それでもわたくしはまだ、あなたの(うみ)を見たくはありません……」


 小さな窓から漏れる月光に祈りを捧げて、彼はいつものように眠りについた。



 ●●3


 彼は思わぬ人物の姿に、声が出なかった。

 それもそうであろう。久方ぶりに訪れた方女屋敷に、見慣れぬ翼を見たのなら、誰だって我が目を疑うに違いない。

 ロシュテンは何度もパルギッタとナージェとを見比べて、よく似ておいでですね、まるで姉妹のようだ、と感心したように言った。どこかで聞いたようなその言葉にエサティカたちはくすくす笑う。


「それなら今度は揃いの衣装で出迎えましょうか」

「あら、それでもしロッテが見分けてくれなかったりしたらどうするの?」

「とんでもない」


 冗談だとはわかっているが、ロシュテンは半ば本気で否定する。そんなことはロシュテンに限ってありえない。エサティカたちはまだくすくす笑っている。

 このナージェというエサティカは、普段は里と呼ばれるエサティカだけが暮らす集落に住んでいるのだという。なお里のある場所は一般には知られていない。貴族議会(エオレルマ)と聖堂のそれぞれの上層部によって、エサティカに関する情報は厳しく管理されている。

 それにパルギッタは母親の代から皎翼天子であるので、里に行ったことはない。そして今後も行くことはないだろう。

 ともかくロシュテンが名乗ると、ナージェは少し考えるようにしてから、こう言った。


「ヴォントワースというと、郊外の大きなお屋敷の主人でいらっしゃるのね」

「ああ、そうです。……しかし、もうエサティカの里にも父の死の知らせが届いているとは、意外ですね」

「……あらそうでしたの?」


 おや、と青年は首を傾げた。なにか会話が噛み合わなかったような気がしたのだ。ナージェもそれに気がついたのか、それともロシュテンの反応を見てか、ちょっと困ったような顔をした。

 ナージェは何について知らなかったのだろう。父アッケルの死のことだろうか。それとも、辺境にあるというエサティカの里には情報が届いていないだろうという、ロシュテンの先入観を──貴族なら誰しもそう考えているものだが──疑問に思ったのだろうか。

 よくわからないが、ナージェはにこりと微笑んでロシュテンに背を向けた。

 ちょうど客間のほうでパルギッタが呼んでいる。腑に落ちないままだが、とにかくナージェとともにそちらに行くことにする。

 エサティカの背後にいるのだから、当然ロシュテンにはナージェの背を包むほどの翼が見えた。

 真白い翼は折り畳まれている。それでこの大きさなのだから、拡げたらかなり大きいだろう。背の肉が薄いのか、付け根のところには体内の翼核(サリェ)がかすかに浮き出ている。

 翼には赤茶の斑模様が入っているが、これがなければきっと白鳥のような美しい純白の羽に見えたことだろう──。


「純、白……」


 ロシュテンは妙な感覚に陥った。前にもどこかでこれを見た気がする。

 飽くほどに真白い、正義そのものの白の上に、わずかに散った鈍い赤褐色の光景を。


「ロッテ? 早く来ないと、紅茶が冷めてしまうよ」


 ひょこりとパルギッタが扉の向こうから顔を覗かせる。ロシュテンがなかなか来ないのでしびれをきらしてしまったようだ。

 ああでも、紅茶をもらっても飲めそうにない。今、ロシュテンの内側では、おぞましさやその他の不快な感情がいっしょくたに渦巻いているような気がする。……吐き気がした。それから眩暈も。

 しかしロシュテンはできるだけ優しく微笑んで、今行きますよ、と言った。



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