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scene3-7 愛した鳥

 北風は命を運び、

 西風は来訪を告げ、

 南風は旅人を誘い、

 そして東へと風は去っていく。


詩集「キスパリヤ=オオトの散文」より抜粋

 ●●1


 その男が教会へ戻ると、そこには険しい表情のハーシュダンがいた。

 男は一生懸命にことの成り行きを説明したのだけれど、しかしハーシュダンときたら仏頂面を変えないで、こんなことを言った。


「おまえの愚かさには呆れた。その人は我々が愛するべきエサティカではない」


 男はさっぱり意味がわからなかった。あの少女は方女たちに囲まれていたし、真珠色の御髪をしていたし、瞳は優しげな碧緑だったのだ。あれが当代の天子“パルギッタさま”でないはずがない。だいいち、実際に見てもいないハーシュダンがなぜそんなことが言えるのだ。

 思わずそう反論すると、彼は不敵な笑みを浮かべて返した。


「その少女が影武者である可能性は考えなかったのか?」

「な、──言われてみればそうかもしれないが……いや、ハーシュダン、あなたはなぜあの方が天子でないと思うのか」

「簡単なことだ。私にはその方が話したという言葉は聞こえなかったよ。私の天子さまは語りかけていてくださるのだ、と前にも言ったろう?

 あの場所を教えてくださったのも天子さまだ。それに天子さまはこうも仰っていた、偽者にはくれぐれも注意するように……とな」


 にせもの。男は反芻するようにその言葉を口にした。ハーシュダンは頷きを返す。

 しかし男はそう易々とは信じられなかった。あの少女が口を開くたびにその場の気配は震えるようだったし、その身体が毛髪の先までかすかに輝いているのもこの眼で見ている。少なくとも彼女はエサティカだ。男や方女たちと同じ人間だとは、思いたくない。

 では、エサティカの影武者などいるだろうか。あの方女たちは、他のエサティカに断翼させてまで影武者を立て、でなければ自分たちは天子を守ることもできないと考えているのだろうか。

 男にとって方女は敵だ。彼女らを非難する材料ならいくらあってもいい。だが不思議なことに、なぜだか後者の発想には違和感を覚えた。貴族たちが天子を利用しその恩恵を独り占めするために、エサティカにとって不都合なことをするとは、考え難い。あの慈悲深い天子がそれを赦すはずがない。


「ハーシュダン、私にはわからないのだ。いったい、罪もないエサティカが翼を断たれることがあるのか?」


 かの天子の背にあった生々しい断翼の傷痕をハーシュダンは見ていない。彼が見たのは朽ち果てた古い翼と、石や煉瓦を積み上げた教会の壁と、上段に飾られた天子の絵姿だけだ。

 男は思う。

 いつもハーシュダンが耳にしているのは、ほんとうに天子の言葉なのだろうか。あの天子が影武者や偽者で、真の天子は姿を見せることなく、ハーシュダンにだけ語りかけているというのだろうか。

 男は思う。

 ──愚かなりし私の民よ。と天子は切り出したが、あんな説から始まる言葉を男は知らない。知らないのはハーシュダンが語ってくれなかったからだ。「羽根の印(スエリ・テカ)」構成員のほとんどは貧しくて、学ぶ時間もすべて労働と奉仕に捧げてきたので、文字が読めず、当然かつての天子たちの言葉に触れる機会がない。だからハーシュダンを通して“天子さま”の言葉を聞くことが慰めだった。

 男は、思う。


「オーホロ……天子さまは断翼されてなどいなかったのかもしれないのだよ。だが、偽者の背には決して白い翼などないのだから、断ち切る以外それを隠す術はなかった。それが真実だ」


 このハーシュダンと名乗る、かつては鉄鉱加工施設で労働に就いていたという男は、なんの前置きもなくある日の集会中に現れた。天子の言葉を聞くことができると彼は言い、その日からハーシュダンはここですべてを取り仕切るようになった。

 それまでのスエリ・テカは天子をどう救い出せばいいのかわからず葛藤していた。だからハーシュダンの存在はすぐに圧倒的なものになり、何かあればハーシュダンに尋ねた。彼に天子の言葉を聞かせてもらうことで構成員たちの士気は高まり、男オーホロもまた、そうしてハーシュダンの語る天子の姿を胸中に描いては幾度とない安らぎを得ていたものだ。

 彼を疑ったことなど一度もなかった。一度だって、ハーシュダンが間違っていたことはなかったからだ。

 しかしオーホロは、思う。

 確かにあの少女はパルギッタさまだったのだろう。そしてかのお方が仰ったとおり、我々は愚かだったのだろう、と。初めから何もかもが間違っていたのなら気づかなかったのも無理はない──。

 ハーシュダンは、間違っていたのだ。いや、今でもなお、間違っている。彼に語りかけているのは天子パルギッタなどではない。そもそも彼がほんとうに誰かの声を聞いているのかどうかは、「羽根の印」のうちの誰にもわからないではないか。彼の聞いた言葉はもしかしたらすべてでっち上げたものかもしれないし、あるいはまったく別の何かが彼を惑わそうとして天子を騙っているのかもしれない。

 視線を落とすと自分の掌が眼に入った。そこには羽根の印が刻まれている。

 急にハーシュダンを信じられなくなってしまったオーホロには、今では羽根の印だけが、天子と彼とを繋いでくれるものだった。力強い言葉に引きずられてはいけない。百聞は一見にしかず、だ。瞼の裏にはエサティカの姿が焼きついている。

 オーホロは立ち上がった。教会は静まり返っていて、他のスエリ・テカたちがやって来そうな気配はない。ハーシュダンには外を見てくると言い置いて聖ディニアを後にする。

 羽根の印の目を覚まさせねばならない。

 きっと皆はオーホロの言葉を受け入れてくれるだろう。直接、あの天子の言葉を聞いたのだから。



 ●●2


 来訪は、西からの風が連れてくる、と、古い詩にある。

 それはそうと、今日の方女屋敷は意外な来客に少しばかり慌ただしくしていた。その来客は未だかつて見たことのない人物だ。見たことがない、というのは、あらゆる意味においてである。

 なぜなら彼女──そう、来客は女性だった──は肩までの真珠色の髪に瞳は柔らかな碧緑で、そしてその背には大きな翼があった。

 その翼は白い地毛にいくらか薄茶色の羽根が混ざった、斑の鳥に似ている色合いをしている。皎翼でないエサティカによくみられる羽色であるらしい。彼女ははるばる遠い地にあるエサティカの里からパルギッタに会いに来てくれたのだという。


「初めまして、ナージェ……ナージェ・エサティカと申します。天子さまのお噂は里にも届いておりますわ」


 和やかな声で歌うように話す彼女に、パルギッタは些か緊張した面持ちで応える。


「お里は遠いんですってね。みんな元気にしてるのかしら?」

「ええ。お見つかり遊ばした日以来、パルギッタさまのご即位を心待ちにしていますのよ……」


 ナージェはふと語末を陰らせて、じっとパルギッタを見る。いや、パルギッタの向こうの、今はない翼のことを。その視線に気づいたのかパルギッタはきまり悪そうに紅茶を飲んだ。

 エサティカが里を離れることは滅多にあることではない。

 彼女自身が皎翼であったときか、または天子に何か変事があった際に見舞いに来るか、だ。ナージェの場合は後者であろう。翼のないパルギッタのことが、おそらくエサティカの里でも問題になっているのだ。

 乙女たちは少し離れた場所に控えてふたりのようすを覗っていた。この珍しい来客が何か打開策を携えてくれたのなら、それは喜ばしいかぎりだが。


「翼はまだ……」

「はい」

「傷痕が痛んだり、疼くことはありませんの?」

「そうね……前は少しあった気もするけれど、もうあまり覚えていなくて」


 パルギッタの返答にナージェはしばらく考えていたが、いい考えは浮かばなかったようだった。

 そのあともふたりは翼についての話をした。翼のある生活についてパルギッタが尋ね、ナージェは丁寧にそれに答えた。たとえば、大きな翼は重いのか、という問いに対し、いいえ、とても軽いので普段はまったく気になりませんよ、などのように。たおやかなナージェの笑みは、パルギッタを励まそうとしているようだった。

 優しいのねと、パルギッタが少し切なそうな声音で言うと、ナージェは照れ隠しなのか口許を袖で覆ってうつむいた。


「ナージェ、あなたがいてくれるのなら私は心強い。しばらくはここに居てくださる……?」


 パルギッタの──天子の頼みとあればナージェが首を振るはずはない。エサティカの客人は快諾したので、パルギッタはさっそく乙女たちを呼びつけてナージェ滞在のための用意を指示した。なお、一般エサティカの宗教的地位はおおよそ最高位貴族に匹敵する。つまりナージェへの対応は、方女屋敷でできる最高待遇、ということになる。

 乙女たちはそれぞれ、客室の確認や外部の下働きへの連絡などのために部屋を出ていった。

 部屋にはふたりのエサティカが残された。かたや有翼、かたや失翼。かたや天子、かたやそうでないもの。パルギッタは成長しているもののナージェよりは幼く見える。だが失われた歳月を思えば、ちょうど同じくらいの年頃なのではないだろうか。

 それにふたりは、その性質こそ全く異なってはいるけれど、髪と眼だけはうりふたつだった。



 ●●3


 慣れないことをしている。そのせいか、手にした羽根筆が少し重く感ぜられる。

 ロシュテンはその日、手紙を一通したためていた。それも女性に宛てて、というのは、彼の人生においてそうそうあることではない。慣れない恋文はずいぶんと難儀なものだった。

 まず言葉がでてこない。思うように書き進められなくて、さすがのロシュテンも苛立ちを覚えた。

 (当然だ)

 これではいけないと、一旦筆を置いて深呼吸をする。

 (僕は“彼女”を愛しているのだから)

 心を落ち着かせて考える。宛先はあの仕事熱心な乙女なのだから、華美に飾り立てた文章は受けが悪いかもしれない。質素好みな彼女に合わせたほうがいいだろう。それから、あまりその気にさせてしまうと、後でいろいろと面倒なことになりそうだ。

 もう一度筆を執る。できるだけ上品で大人しい表現を考えよう、と自分に言い聞かせながら。

 これは罪深い恋文だ。にせものの想いを伝える手紙。生真面目な乙女であれば、きっと真に受けてくれるだろう。そして誰にもその内容を打ち明けず、そこへロシュテンが現れなければ、ひとり心の中に閉じ込めてしまうに違いない。

 そしてロシュテンは、ただひとつの真実のために、悪魔にすらなれるだろう。


「カイゼルが知ったらなんと言うだろう」


 ふと呟く。ロシュテンを支えてくれる友のことを思い出して、ああ、と息を吐いた。この非道な行いを知ったら、カイゼルはなんと言ってロシュテンを諫めるだろうか。これが堕落ではないことを彼は理解してくれるのだろうか。カルセーヌを愛しているカイゼルは、こんなロシュテンを軽蔑するだろうか……。

 一旦考え始めると止まらなくなった。胸の内を彷徨っていた良心がやっと抗議を始めたらしかった。

 いや、間違ってはいない。間違ってなどいない。だが他に方法が思いつかないのだ。

 どうしたらこの想いを果たすことができるのだろう。ただ傍にいることさえ難しいのに、それでも足りないのに、いったいどうしたらこの心が届くのだろう。

 今ならわかる。ユフレヒカが、どうして過ちを繰り返してきたのか。今なら感じる。山の聖人、否、囚人は、どんな思いで山頂からこの世界を見守っていたのか。触れることすら許されず、想うことさえ苦痛で、それでもなお見下ろしたのか。あるいは空──誰より近くにいるはずなのに届かないそれ──をどれほどの歳月仰ぎ続けてきたのかを。

 今なら理解できる。これは罰だ。焦がれて焦がれて手を伸ばし続ける罰だ。罪であり罰なのだ。

 この魂は永遠に苦しみ続けるように作られている。それくらいに愛している。だからこそ、また誤る。何度でも。ロシュテンが生きる限り、そして、ユフレヒカが死ぬまでずっと。

 慈悲と残酷とは表裏一体。

 二羽の鳥は、もしかしたらその象徴なのだろうか。ロシュテンは呻いた。


「あ、あの、ぼっちゃま……」


 背後から女中の心配そうな声が聞こえる。振り返ると、まだ顔色の良くないミンダがこちらを見ていた。どうしたのかと尋ねると、ニルヴァー伯がいらっしゃいました、お通ししますか、と掠れた声で答えた。ロシュテンは微笑んで頷いた。

 書きかけの手紙を、そっと机の中にしまう。

 罪悪感も疾しさも一緒にしまっておけば辛いことなど何もない。ややあってカイゼルが入ってきたけれど、今度もロシュテンは問題なく微笑むことができた。


「やあロッソ、調子はどうだい。僕は今日も聖堂で法帝の額を拝んできたところさ」

「それは難儀だったね」

「もう少し有意義にことを進めてくれればいいんだけどね……にしても表情が冴えないな。ちゃんと寝てるかい?」

「寝すぎるくらい寝てるよ、むしろ。最近部屋に籠もりがちだったからかな」

「それはいけない。空気が悪いんだ」


 カイゼルは相変わらずよく喋る。ほっとしてロシュテンも相槌を打つ。

 とにかく換気をするべきだと言われたので、適当に窓を開けた。風と陽光とが(カーテン)を押して入ってくる。柔らかで心地よいそれらがだんだんと部屋の中を侵食していくようで、ロシュテンは息をしながら、唐突に泣きだしたくなった。

 ここに慈悲の鳥はいない。この屋敷に囚われていた鳥はもう飛び立ってしまったから。

 そのことに気がついたロシュテンは、思わず声に出して呟いていた。


「……ああ、僕が愛したのは残酷の鳥だったよ、カイゼル」



 →next scene.

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