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scene3-6 彼女が見たのは残照か


 天子とは、われらの祖なり、母祖なり。

 天子とは、われらの妻なり、恋人なり。

 天子とは、われらの星なり、子宝なり。

 我らの印は、愛されるべきかの翼のために、散るまで戦う。


「羽根の印 同盟宣言書」序文



_

 ●●1


 偶然ですね、と彼は言った。他に思いつかなかったので、そうですね、と返した。

 そのときイリュニエールはパルギッタのための買い物をしている途中で、だから普段は行かないような高級品取り扱い店にいたのだった。買い物といっても先に注文しておいた品を受け取って代金を渡すだけなのだが。

 天子の使うものは日用品も嗜好品もすべて、聖堂から認可されている店舗で特注し、必ず方女が直接受け取りにいくことになっている。そうでなければイリュニエールのような地味好みで低位貴族の娘がこんな店──故ヴォントワース卿の子息が馴染み客になるような超高級店などには来ない。来たいとも思わない。

 だから、これは、たぶん、ほんとうに偶然だ。ロシュテンの革靴を眺めながら乙女は思った。

 これがソファイアだったら「運命的ですわね」とか言ったかもしれない。

 相変わらず爽やかな笑顔を浮かべているこの青年は、天子パルギッタのことをとても真摯に考えてくれている。その点では評価に値する人物だ。ただ、イリュニエールには彼の持つものが眩しすぎるので、なんとなく彼の眼を見ることができないでいた。それで仕方なくぴかぴかに磨き上げられた美しい靴ばかり見ていたのだ。

 この人は人を殺したことなどないし、全身血塗れになったこともない。生まれながらに高い身分を持ち、当たり前のようにたくさんの下男下女に囲まれて、そして方女でもないのに天子に触れることが許される。

 自分とは違いすぎる。だからイリュニエールは内心彼が苦手だった。パルギッタほどではないにしろ、ロシュテンはあまりにも汚れていなくて、きれいで、彼ならあるいは血毒(じぶん)に触れても病んでしまうことがあるかもしれないと思うのだ。そして何より、彼を前にすると自分が汚く惨めに思えてならないのだった。

 けれどもイリュニエールは、翼の下にある平等がこの程度のものであっても、天子のために命を賭けることができる。そう考えている。

 たぶん本質的な意味で、天子に優ることがらが存在しないのなら、その天子のために差し出す命なら、それが低位貴族(イリュニエール)のものでも高位貴族(ロシュテン)のものでも同等の価値にしかならないのだろう。むしろそのほうがいい。イリュニエールがかろうじて認識できるのは、天子のために戦う自分自身だけなのだから。

 (そしてあの化けものを殺す日まで、私はたとえ胸を貫かれたとしても死んだりしない)


「こちらにはよくいらっしゃるんですか?」

「いえ、天子さまのご用品を」

「ああそうでしたか。壮報が出たあとですから、やはりお忙しいでしょう」

「それほどでもごさいません。まだ行動方針が整っておりませんので」

「では当分は討伐に向かわれないんですね……そうだ、よろしければお屋敷まで送らせてください」


 彼はイリュニエールを待つ馬車がないことを見とめ、紳士的な提案をした。もちろん拒めるはずもない。さしたる量の荷物ではなかったが、おとなしく同行する。

 侯爵家の馬車は意外にも装飾がそう多くはなく、屋根に張られた革の色合いも控えめだ。一時期この界隈で大流行した、今でもほとんどの馬車に残っていることが多い銀の滴型の屋根飾りさえ、見たところつけていた痕跡さえない。乙女は意外に思いながらも、もともと自分が渋好みだったせいかそれをおかしくは思わなかった。それどころかほとんど華美でなかったことに安心していた。

 御者はいかにも低位貴族らしい風貌のイリュニエールを見て不思議そうな──もとい不可解そうな顔をしたが、ロシュテンが方女屋敷へ向かうように指示を出すと、納得したように手綱を引いた。


「そういえばおひとりなんですね」

「大した量ではありませんから。それに、屋敷に人が残らなければ天子さまが寂しがられます」

「というと、今日は人がいないんですか」

「カルセーヌさんはお忙しい方です。今日はミコラさんも出掛けています」


 留守番はソファイアだ。実は普段ならソファイアが注文品を取りに行くことが多いのだが、なぜか今日はイリュニエールが行くように言われたのだった。ソファイアが縫い物をしたいと言っていたからだ。……それほど手芸が好きなようにはとても見えないのだが。

 そして外出した結果がこれなので、きっとあの紅毛艶やかな乙女なら運命だと言ったに違いない、というわけだ。


「ミコラさんはどちらに?」

「……毎月この日は西通りで蚤の市が開かれるのだと仰っていました」

「へえ……骨董品が好きなのかな、意外だ。イリュニエールさんは、そういったものはお好きですか?」

「いえ、あまり。部屋に物を置きたくないので」

「そうなんですか? 僕はてっきり、女性というのはみんな花や置物で自室を飾るものなのかと思っていましたよ……昔、母の部屋にはたくさんの花があって、とても美しかった」


 思い出にひたるような調子で呟いたロシュテンを、乙女はいささか訝しく見つめる。そういえば、と方女屋敷での他の乙女らのしていた世間話を思い返しながら、ひとつ気がついた。彼の父親である故ヴォントワース卿の話はよく耳にした気がするが、侯爵夫人のことは話題に昇ったことがない。それに先日の葬儀でもそれらしい人物を見かけなかった。

 ここで普段のイリュニエールなら、敢えて素知らぬふりをしただろう。けれども今日はロシュテンと半ば運命的といえる出逢いをし、流されるままにこうして送迎を受けながら、なぜか少しずつではあるが彼との会話を続けている。もちろん乙女には親族以外の男性と一対一で言葉を交わす経験など数えるほどしかなく、それもあまり歳の離れていない若い青年ともなれば、およそ初めてといっても過言ではない。

 慣れない状況が、乙女を慣れない行動へと導いたのかもしれない。


「今……お母さまは、どうしていらっしゃるのですか?」


 気がついたらそう尋ねていた。しまった、と思って口を塞いでも時は既に遅すぎて、顔を上げればロシュテンがこちらをまっすぐに見つめている。

 育ちの良さを感じさせる澄んだ眼は、しかし馬車の中で少し薄暗く見えた。


「病気で、僕が幼いころに亡くなりました。だからほとんど覚えてはいないのですけどね」

「申し訳ありません、その」

「いいんですよ。あなたがご存じなくても無理はないでしょうし、ほんとうに昔のことなので、恥ずかしながら顔も少し忘れてしまったくらいで……」


 イリュニエールは恥ずかしさで胸が一杯だった。耐えきれずにもう一度謝罪を口にすると、ロシュテンの手が方に触れたので驚いて再び顔を上げる。思ったよりも近くに彼の顔があったので心臓が止まりそうになった。

 何も言えずに茫然とする乙女の肩をしっかりと掴んで、ロシュテンは微笑んだ。

 言葉はなかったが、それがロシュテンからの赦しであることが、イリュニエールにもよくわかった。同時に彼の優しさが身に突き刺さるようで、乙女は自分がかすかに震えるのを感じた。あまりにも身分不相応な扱いだということは理解している。それなのに、イリュニエールとしては不可解な現象ではあるのだが、自分の頬が熱を帯びていくのをどうにも止められそうになかった。

 触れ合っている個所が痛い。いや、……熱い。

 ──このままではこの人が、私の血毒で汚れてしまうのではないかしら。

 このあいだパルギッタは汚れないと言ったけれど、信じられない。それにロシュテンは天子のように血毒さえ祓う力を持っていないのかもしれない。そうに決まっている。

 そう思った瞬間イリュニエールは身じろぎしていた。ロシュテンはそれに気づいてすぐに手を離す。


「すみません、不用意に」

「いいえ、こちらこそ、少し驚いてしまって……」


 乙女はすぐさま眼鏡を外し、それが怪しまれないように手巾(ハンカチ)で拭く素振りをした。ほんとうは青年の顔が見えないようにしたかったのだ。今はできれば見たくなかった。余計なことを考えそうで。

 それからしばらくふたりは黙り込んだ。その間にどうにか心臓と気持ちを落ち着かせたイリュニエールは、そっとロシュテンを覗う。端正な顔は窓へ向けられていて、こういう表現はおかしいのだが、気兼ねせずに眺めていることができた。下がり気味の目尻が彼の鷹揚さを表しているかのようだった。

 それから一言も交わすことなく時間が過ぎ、やがて馬車は方女屋敷へ到着した。

 出迎えたソファイアは去っていく馬車を眼の端で追う。それから出発前とはようすの違うイリュニエールを見とめると、なぜか満面の笑みを浮かべたのだった。



 ●●2

 

 話は数日前に遡る。カルセーヌから受け取ったカイゼルの手紙で、ロシュテンは驚くべき事実を知った。

 ひとつは民間の過激な拝翼主義団体による方女襲撃があったということ。乙女らの、とくにミコラが疲労しているように見えた原因はこれだろうかと青年は思った。

 異例の事態とはいえ、本来なら天子の周囲に起きた事件は現侯爵のロシュテンにすぐさま情報が入ってもおかしくはないのだが、ヴォントワース家がたまたま喪中だったのと、パルギッタ直々の恩赦があったので表沙汰にはされなかったらしい。この数日間は家の下男下女も高級地区内へ出ていないから、噂話にでも耳にする機会がなかったようだ。

 とはいえ方女たちが一言もこのことに触れなかったのは妙だ。とくにあのお喋りずきそうなソファイアなら、開口一番に不安を訴えてきそうなものだった。足しげく方女屋敷に通っているロシュテンがそこまで頼りにされていないとも思えない。となると考えられるのは、パルギッタのほうで話題に上がらないよう取り計らったのかもしれない、ということくらいだ。それはたしかに万民平等を掲げる拝翼の教義に沿った行動であると言える。

 しかしいち貴族としては、それは些か甘すぎるようにも感ぜられる。税を支払い天子の生活を支えているのは平民ではなく貴族のほうだ──むろん、だから貴族にのみ恩恵を与えろというのは、いかにも傲慢な発想なのであるが。


「しかし貴族の特権が天子に拝謁願えることだけ、ってのはどうなんだろうね」


 ふてくされた調子でそう言ったのはカイゼルだった。

 手紙を受け取った翌日、ロシュテンはニルヴァー邸を訪ねていた。手紙の内容について詳しく話をしたかったのと、方女に預けたその真意を知りたかったからだ。


「贅沢してるったって、いちおうは自分で稼いだ金じゃないか。そりゃ労働には従事してないが……それを特権階級だ不平等だと言われるのは癪に障るね」

「どうした、今日はどうも苛々してるようだけど」

「いやそういうわけではないんだ、ただ最近は少し納得のいかないことが多くてね」


 もうひとつは、ビオスネルクの貴族議長(エオリエー)への就任が決まったことだ。平たく言えば親友だったアッケルの後釜に納まるわけで、そのうえ既に議会のほうでは、更に次期の貴族議長としてロシュテンを指名しているらしい。恐らくは侯爵であるロシュテンが相応しい年齢になるまでの代理として、それに次ぐ権力と地位を持つハーシモスを置くということだろう。

 もしそれまでにこの世界が終末を迎えていなければ、議長ロシュテンと法帝カイゼルの時代も夢ではない。

 が、青年たちはそんな甘い想像に耽るほど無知ではなかった。カイゼルはこのところますます次期法帝への期待が高まっているのか、ちょくちょく法帝庁に呼び出されることも少なくなかったが、そこで彼が目にしてきたのは現法帝トーキスの素晴らしい拝翼っぷりと山積みになった旧天宮跡地の利用案だけだった。


「やはり聖堂はあまり心証がよくないよ。……ところでロッソ、僕は考えた。天宮跡地には高級住宅街を作ろうという話があったんだが──事前に生活環境は整えてあったからね、当然の発想だ──試験的に大工を何人か入れたりしたんだけど、結局は資金不足でしばらく工事はやらないことになったんだ」

「では相変わらず放置されてるのと同じだね」

「だろう。だから……逃げた天子はそこにいるかもしれない。大工小屋なら残っているし。住宅街をうろつくよりはよほど人目につかないだろう、ほら、翼は相当目立つから」

「それも純白のね。それはあり得ない話ではないけど、じゃあそこに乗り込んでみようとでも言うのか?」


 青年がそう言うと、ロッソこそ意地が悪いな、とカイゼルは苦笑した。


「きみが言うようにパルギッタさまとシェルジットさまがある意味で同一なのなら、もうひとりの天子のことを知らないはずはないだろう。彼女はそれらしいことを何も言わないのかい?」

「そうだね。でも……僕にはわかるよ。パルギッタさまはもう翼を取り戻しつつある」

「へえ、そいつは興味深いな……で、その翼は白いのかい、ロッソ」


 ロシュテンは曖昧な笑みで誤魔化す。それから、ところでカルセーヌさんとは上手くいってるのかい、とカイゼルの気が逸れるような話題を振った。

 案の定というかカイゼルはちょっと複雑そうな顔をして、それで納得いかないんだとかなんとか言いはじめた。

 彼の言うに曰く、あの日ごろから気難しそうなカルセーヌはやはりカイゼルの前であってもしっかりと生真面目なのだけれど、ふたりきりのときは笑顔もよく見せてくれるし、(先日のことがあったので聞いてみたところ)お互い名前で呼び合っているのだそうだ。それなら結婚前の若い貴族たちとしては順風満帆のような気もするのだが、問題は彼女との会話がほぼ天子の話題であるということだった。

 あのカルセーヌが活き活きとパルギッタのことを話しながら笑顔を浮かべる、というのはロシュテンにはいまいち想像に易いことではない。それはやはりカイゼルの為せる業だろう。冷静な観点から言えばただののろけ以外の何者でもないが、カイゼルが真面目ぶいた面持ちで、このままでは天子さまに嫉妬しそうだよ、と呟くので、ロシュテンは思わず声に出して笑った。


→next scene.

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