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scene3-5 呪われた人

「彼女はとくべつな人だった。

 だから、触れることもできなかった。汚してしまうのが怖くて。

 でも彼女はこんなおれを抱きしめてくれたんだ。

 やっぱり彼女はとくべつな人なんだろうな。


 だからさ──彼女を奪った天子のことが憎かったんだ、どうしようもなく」


 ある受難者の言葉

 ●●1


 その身体にはひとつの流動的な魂が眠っている。彷徨いながらも、因果に従って同じ運命を繰り返す魂が。

 彼女はそれをただ見ているだけ。

 それが許せなくて、牧師は種を蒔くことにした。宿命から逃れるための種を。誰あろう彼女のなかに、わざと日付を間違えて植え付けた。意外にも無理強いする必要はなくて、彼女はそれを敢えて受け入れることで、新しい変革を刻もうと考えた。

 こうして芽生えたものは見苦しい感情の表れだった。

 だから隠された。誰の眼に触れることもないようにしなければならなかった。

 人が苦しいことを吐き出すためには信仰を寄り代とする。吐き出された苦しみからは醜い芽が生え育つ。それは幼すぎて己の醜ささえ理解できないから、すくすくと天を目指して葉を広げようとする。大人たちはそれを拒んで葉を切り落とす。たとえ誰かに見つかっても、それがあの傲慢から生まれた鉢なのだと気づかれないように。


「そして、ついに彼女は見つかった」


 葉を切り落とされて茎と花しか残らない滑稽なそれを見て、しかし愚かな人びとは、彼女を愛する。



 ●●2


 長かった喪が明け、ロシュテンは久しぶりに方女屋敷を尋ねた。

 どんな顔をしていいかわからない。それでも彼の足は自然とそこへ向かうようになっていて、あるいは馬車に乗るとその名称が勝手に口をついて出る。呪われているのだろうと自分でも思う。

 とにかく彼女に会わなければならない。彼女に会って、できることなら確かめたい。それが無理でも、というよりもともと不可能に近いだろうとは思っているが、せめて彼女をひと目見なければ気が済まない。自分が納得するために。

 複雑な感情を押し殺して呼び鈴を鳴らすと、同じように複雑そうな表情をしたミコラが応対した。


「あら、ヴォントワースさま」

「やあどうも。……その、パルギッタさまはいらっしゃるだろうか」

「ええ」


 不自然に口ごもってしまった。不味いだろうかとミコラを覗うと、乙女はさして気にしたふうもなくロシュテンを招き入れようとしている。上手いことまだ父の死を引きずっているようにでも見えたのだろうか。それとも今のこの乙女のようすでは、ロシュテンの不調に気が回せるほどの余裕がないのかもしれない。

 どちらにしても幸いだとロシュテンは素直に中へ入った。背後で扉の閉まる音がやたらに大きく聞こえたのは、たぶん心が動揺しているからなのだろう。

 いつもの居間では明かりとりから差し込む柔らかな日差しの下、イリュニエールに指導されて、パルギッタがいそいそと勉学に励んでいるところだった。なにやら分厚い書物を音読している。その隣では珍しいことにカルセーヌとソファイアが縫い物をしていた。

 ふと本から視線を上げて、パルギッタはにこりと笑う。


「久しぶり、ロッテ」


 ロシュテンもなんとか微笑んで返した。そのためには、どうしてもしばらく息を止めなければならなかった。

 ややあって息を吸い直し、ぎこちなさが滲みでてはいないかとロシュテンは心配だったが、パルギッタは何事もなく朗読に戻った。ほっとして傍のソファに腰を下ろす。ミコラがロシュテンのぶんの紅茶を運んでくるので、きちんと礼を述べてから一口いただく。

 努めて今までどおりの「ロッテ」を演じながら、それでもパルギッタへ送る視線にいつもの優しさを込める余裕は、今日ばかりはほんの少し足らなかった。眼頭にどうしても力が入る。自分でもそれに気づいていたロシュテンは敢えて眼を伏せた。

 パルギッタは一節きっちり読み終えると、「ねえ休憩にしようかイーリ?」乙女は頷いて本を受け取る。

 歴史書のようだ。同じ装丁のものを父アッケルの書斎で見たことがある。一度読んでおくようにアッケルから言われていたが、気が乗らなくてついぞ手に取りさえしなかったという一冊だ。嫌な偶然だなとロシュテンは思った。


「お元気そうで何よりです」

「ロッテ、それはこっちの言葉だと思うの。みんな心配してたのよ、ねえ、ソフィー」

「ええ、パルギッタさま」


 こういう場合に相槌を求めるべき相手を少女はよく心得ていて、名指しされたソファイアは活き活きとして答える。もっともそのお陰でおろそかになった乙女の手から、まだ糸のついたままの縫い針が落ちてしまい、絨毯の毛の中に埋もれてしまった。イリュニエールはすぐさまパルギッタをその場から離れさせる。

 慌てて磁石を絨毯に押し当てるソファイアの傍らで、カルセーヌがふと顔をこちらに向けた。


「ああそういえば、あなたへの手紙をいくつか預かってますわ。カ……ニルヴァー伯から」

「カイゼルから?」


 カルセーヌは頷いて立ちあがると、傍にあった文机の引き出しから封筒を数枚取り出した。いや、ひとつは少し膨らんでいるから、小包というべきか。中に何か入っているようだ。

 それらを受け取りつつもロシュテンは釈然としなかった。カイゼルはどうしてこれをわざわざカルセーヌに託したのだろうか。いくらこちらが喪中だったとはいえ、どうせ受け取るのは喪が明けてからなのだから、それを待って自分で渡しにきたらいいものを。いやむしろ直接口頭で伝えてくれればもっと早いだろう。

 それをわざわざ、……彼としても警戒せねばならないと言っていた方女たちのもとに送って寄越すなんて。

 ロシュテンがいちばんにここを訪れることを見越していたのかもしれない。だからといってすべてに説明がつくとはどうしても思えないのだ。


「カルセーヌさんたら、お名前でお呼びすればいいのに」

「……ミコラ、ソファイアのようなことを言うのじゃありませんよ」

「あ、ご、ごめんなさい。でも、そろそろ正式に発表されてもよろしいんじゃありませんか?」

「私の口からはなんとも言えません」


 年嵩の乙女のつれない返答にミコラは苦笑いを隠さない。ふたりの婚約は未だに公然の秘密だ。

 それから乙女ふたりはソファイアがまだ苦戦している針拾いを手伝い始めたが、乙女たちはどうも手慣れていないと見えて、怖々と絨毯の毛をめくってみているばかりだ。いずれもお屋敷育ちの貴族の令嬢ばかりなのだから、それも仕方のない話ではある。刺繍や手芸の趣味でもなければこれまで針を持ったことなどほとんどないのではなかろうか。

 ロシュテンは頭の中ではまだカイゼルの行動について悶々と考えながら、ぼんやりと視線だけそれを追っていた。するとイリュニエールが乙女たちを退かせ、糸を引いてするりと絨毯の波から縫い針を掬い出してみせた。3人とも繋がった糸を引けばてっとり早いということには思考が回らなかったらしい。それぞれ称賛のようなものをイリュニエールに浴びせかけるので、イリュニエールは少しばかり恥ずかしそうにしていたが、それにおいうちをかけるようにパルギッタが微笑を向ける。乙女は恐縮して顔を真っ赤にした。

 貴族とはいえピンからキリまである時世、イリュニエールの父デュソロウ男爵のことをロシュテンはほとんど知らない。つまり貴族議会議員になったこともなく、高等生活区(1番区から3番区)への居住経験もないような、権力も財力も少ない末端貴族なのだろう。その娘なら縫い物くらいは自分でしていたかもしれない。

 彼女のような低位貴族の娘はだいたいふた通りの道を歩むことが多い。

 ひとつは裕福な商人階級の人間と婚姻して、貴族の地位と引き換えに財力を得る道。この場合、上手くすれば数代あとに必要な税を払いなおして貴族に復帰することもできる。貴族のいた家系はそうでない場合に比べてより容易く貴族階級を得られることも後押しになる。

 もうひとつは高位貴族と婚姻して自分の地位を高める道。ただしこちらは相当の努力を有する道であり、相手にもよるが正式な妻になれることも少ないので、世間体が悪いとの声もある。たとえばカルセーヌの父ハーシモスの見初めた女性は正妻となったにも関わらず、ふたりの位がつり合わないことを理由に屋敷へ上げられなかった。娘のカルセーヌが別宅に暮らしていたのもそのためである。

 総領娘である彼女とカイゼル改めニルヴァー伯爵の婚約は、そういった背景を鑑みると、ハーシモスが娘を救える唯一の手立てだったのかもしれない。正式な伯爵夫人になれば親族内でのカルセーヌの立場は今よりもましになるだろう。

 一方でその婚約がなかなか公表されないのも、親族たちの感情に配慮している結果なのだろうか。


「でも先ほどは確かにお名前を言いかけていたのじゃありませんこと? ねえパルさま」

「ねえソフィー。ふふ、ルシ―ったら、照れなくてもいいのよ」

「天子さままで……やめてくださいな」


 ロシュテンはふとイリュニエールを見る。乙女はソファイアから奪ったらしい縫い物をしていて、一連の会話には加わる気などないようだった。多感な年ごろ、他の乙女らに混じって恋愛話に花を咲かせてもいいような若い娘であるのに、イリュニエールはその点で他とは一線を画している。

 装いは意匠も控えめなら色遣いも地味で、比較的服飾にあまり頓着しないと自覚しているロシュテンから見ても小ざっぱりしすぎている感を禁じえない。そのうえ眼鏡だ。女性の眼鏡着用に偏見を持っているつもりはないが、硝子を挟んで枯草色の瞳がよく見えず、それが何か壁のようなものを感じさせる気がする。おそらく前髪が重苦しく影を落としているせいもあるだろう。

 こうして見ているぶんには、カイゼルの言ったとおりのただの地味な娘のように思える。けれどもこうして幾度もこの屋敷に足を運んできたロシュテンには、それとはまた別の、ひとつ新しい解釈を見出すことができそうだった。

 つまり、彼女のほうでわざとそうしているのだという考えだ。

 ロシュテンの前ではまだ乙女らの談笑が続いている。けれどもイリュニエールはそれに一瞥さえもくれずに黙々と針を動かしている。それがまるで裏づけのように感ぜられて、ロシュテンの脳裏には、あるおぞましい発想がその顔を上げようとしていた。鼓動が早くなるのを抑えようとくちびるを舐める。

 イリュニエールは天子に最も近い場所にいる。方女のうちもっとも篤く信頼され、誰よりも天子の傍に侍っている。彼女は天子の一挙一動を至極間近に見ながら勤勉に日々を過ごしているのだ。

 その彼女なら、天子に少しでも変化があれば、絶対に見逃すはずがない。


方女方(ほうじょがた)、聖堂よりご通達です。壮報にございます」


 ロシュテンの思考を遮るように突然呼び鈴が鳴り、乙女らがはっとして玄関へ視線をやると、そちらから若い男性の声がした。発言から察するに、大聖堂から手紙などを運んでくる通信職の人間のようだ。

 平生のようにすぐさまミコラが応対に向かう。しばらくして戻ってきた彼女の手には、“壮報(ベンテ)在中”と記された白い封筒が握られている。壮報というのは方女に対する職務の指示を記した書類全般のことであり、こうして封書として届くもののほとんどは、冒涜者(ケオニ)の発現情報と討伐依頼であると相場が決まっている。今回もやはり、内容を改めたところ即座にケオニの文字が目に入った。

 ミコラは少し蒼ざめていて、それをイリュニエールがじっと見ていた。

 そしてロシュテンもまた、そのイリュニエールをじっと見つめている。ソファイアが目聡くそれを見とめて意味ありげに微笑むのを視界の隅で確認した。我ながらひどい行いだと、ロシュテンは内心でひそかに自嘲する。


「……ねえ、今度は私も行っていいかな」


 急にパルギッタが口を開いた。少女の浮かべるたおやかな微笑みは、今ケオニの話をしているようにはとても見えない。

 その提案はあり得ないことではなかったが、これまでがこれまでであったので、乙女たちはすぐには返答しかねるといったようすで顔を見合わせていた。パルギッタには未だに翼がない。条件は前回と同じなのだ、結果もそうでないとは言いきれまい。


「今度は大丈夫。イーリやみんなの足手まといにはならない」

「そのような、……ではパルギッタさま、ケオニたちに、浄済を行うおつもりですか」


 翼もないのに可能なのかと乙女たちの眼は語っている。

 それは、かつて幼すぎた少女にはできなかった所業だ。当時は副作用的に翼の復活をも期待されていた。貴族議会からの承認が危ぶまれていたパルギッタを、一刻も早く天子の地位に落ちつけたくて、成長するのさえ待てないほど乙女たちは焦っていたものだ。ことにイリュニエールは。

 天子はやんわりと微笑んで彼女らを牽制する。ロシュテンはことの成り行きをじっと見守る。

 できると思うよ、と、パルギッタは囁くように行った。

 乙女たちはそぞろに息を吐き出して頷いた。基本的に天子の意向は絶対だ。もうパルギッタがことの分別もつかないほど幼いとは言えなくなってきていることを、この場の誰もが認めている。先の天子たちはもうパルギッタほどの歳で既に政治を動かしてきた。天子として今のパルギッタに、白い翼のほかに足りないものは、ただ経験を残すのみ。


「ルシ―、イーリ、ソフィー、ミコラ……私を守ってくれますね?」

「もちろんですわ」

「それが我々の職務ですもの。あなたさまをこの命に代えてもお守りします」

「うん、それは嬉しいけど、死んではだめ。約束だよ、私を悲しませないで。失望させないで」

「尽力いたします」


 乙女たちの言葉は、ほんとうに心から発せられたもののように聞こえた。ロシュテンはただ黙って彼女らのやりとりを見守ることにした。少女のもっとも美しい時代を辛い修行と宗教的な正義に費やしてきた乙女らの、強い意志の漲った瞳は、めいめいの色合いこそ異なれども同じ光を灯している。

 先ほどまで不安そうに壮報を見つめていた乙女がいたことなど、意識していなければ忘れてしまいそうだ。

 ロシュテンはだからこそ聞き逃さなかった。天子が何気なく言ったことをひとつひとつ、脳裏にしっかりと焼きつけるように、心の中で何度も反芻した。

 ──この美しい欺瞞を、それでも僕は愛せるだろう……。



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