scene3-4 見えない翼
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“浅はかなる私の民よ、汝らの罪はそのもとの土に購えん。
血肉を捧げて志とせよ。来る明朝、われはその声を聞く。”
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●●1
──どうして。どうして、こんなことになってしまったの。
彼女は泣きたいのを堪えてそれだけ呟いた。
足許には円形をした湖が拡がっていて、頭上からは柔らかな月光が降り注ぎ、彼女の姿が鏡のように湖面に映し出されている。そう、長く艶やかな真珠色の髪、陶器より白くなめらかな肌、冷徹な碧緑の瞳、そして唯一無二の曇りなき翼──が、映っているはずだった。
ところが彼女の眼にはそれらが見えなかった。代わりにひどく見苦しいものが半べそをかいて見下ろしている。どんなに眼を凝らしても、本来あるべき姿がそこにはいない。
「返してよ……私の翼を返しなさいよ……!」
その叫びが誰に対するものなのか、実際のところ彼女自身にもよくわからなかった。
●●2
幸いにして武装集団は大して強くなかった。もちろん単純に腕力では乙女らの勝ち目はないに等しいが、これまでの戦いで培ってきた俊敏な身のこなしと洞察力のために、先手をとられることはない。すると自然に戦局は乙女らに優位なものへ変わっていく。
そのうえ彼らはやはり天子に危害を加えるつもりではないようで、こちらに対して積極的な攻撃ができないというありさまだった。
しかし乙女たちへの憎悪には変わりがない。パルギッタを傍で直接守っているイリュニエールの代わりに、あとの三人はスエリ・テカの中へ斬り込んでいくが、彼女らに対しては容赦なく殺意の刃が襲ってくる。長らく天子とその威信を恣としてきた貴族に対する総合的な恨みつらみがその切先に煌めいているようだった。それでも乙女たちはひるまない。天子が傍にいる限り。
毅然と応えるカルセーヌ。軽やかに駆けるソファイア。意外なほど苛烈なミコラ。
守護方女が役職名のとおり女性ばかり四人とあって、恐らく油断していたのだろうスエリ・テカは、予想を超えた守護方女たちの戦闘力にたじろぐのを隠さなかった。最初に名乗りを挙げた男にしても、その表情からは予定を狂わされたことへの焦燥と緊張が窺える。
そしてパルギッタがおもむろに口を開いたとき、それは頂点に達した。
「イーリ、この人たちを殺すの?」
天子がその言葉を発したのは、ちょうど乙女が鎌を振り抜いた瞬間だった。びいんと空気の震える音がした。肩口を切り裂かれたスエリ・テカの女が飛びずさり、ぱっと鮮血の花が宙に舞う。
イリュニエールは初めてパルギッタをケオニ討伐に伴った日のことを思い出した。うなじのあたりを生温い汗が伝っていく。
ああ、あのときも、天子は同じことを尋ねたはずだ。思い返せばふたりの立ち位置までそっくり同じではなかったか。パルギッタは背後から乙女を見つめている。
(イーリ、殺すの?)
そうだった。そしてイリュニエールは、天子という生きものの本能を垣間見たように思ったのだ。
「いいえ」
乙女は努めて平静を保ちながら答えた。
「罪びとは罰されなければなりませんが、罪にも軽重がございます。わが主の法は、もっとも重い罪にのみ死を与えるものだと、私は存じております」
「そうね」
「……彼らの処遇について何かお考えが?」
「うん。話してもいいかなあ」
いったい誰が天子の発言を拒めるというのだろうか。
スエリ・テカたちからの攻撃は、何かの合図があったでもないが、このときには完全に止んでいた。彼らは天子の言葉を聴こうとしていたのだ。
乙女たちはすかさずパルギッタに駆けよって、少女の四方をしっかりと固めた。そして恐らくはカルセーヌだろう、スエリ・テカに対し、平伏しなさいとの一声を放った。今度は誰もが従った。天子に対し頭を下げていないものは何人たりともいなかった。そして静寂があった。
「愚かなりし私の民よ」
けれども続くパルギッタの言葉は、まるでどこかの古い詩篇から抜き出してきたような一文から始まった。平たく言えばパルギッタ自身のものではないようだったのである。少なくとも乙女たちはそう思った。普段のパルギッタを知っている者なら、誰だってそう感じるに違いない。
「おまえたちの意思はわかりました。しかし浅薄です。とても残念に思います」
「て、天子さま」
「おまえたちが為すべきことは、ここで血を流すことではありません。私が降りてきたときのように争いを止めないのなら、私の翼は、これきり私の代で途絶えることになるでしょう」
パルギッタは静かに言葉を紡ぎ、その合間には誰かの嗚咽が漏れ聞こえた。それは直に天子の玉声を耳にした喜びによるものであり、また思いもよらぬ叱責への衝撃であり、あるいは天子の御心に適わなかった己への激しい憤怒でもあり、悔悛でもあっただろう。何人かは地面に頭を擦りつけながら悔やむように聞き入っていた。
では天子はどうだろう。粛々と語りかけるパルギッタの横顔を見つめても、そこに怒りや悲しみのような感情の色を見出すことはできない。
イリュニエールはそれだけに、稚いはずの少女の声さえ凛と響き渡るのを聞いて、なにか不思議な感覚を覚えた。そして真珠色の御髪の向こうにミコラの顔が、蒼ざめてひどく強張っているのを見つけた。歳若の乙女は怯えているようですらある。手にしている血塗れの直刀と相まってそれは些か滑稽な様相を呈していた。
だがとても笑うことなどできなかった。なぜなら乙女は、今このとき自分自身もまったく同じ姿を晒していることに薄々気づいていたからだ。
「そして……忌わしい日はまた一歩、近づいてきました」
ふ、と微笑みさえ浮かべて天使は囁く。
「おまえたちが恥ずべきは、その日を待とうとしなかったことでしょう。よいですか、私の民よ、真にわが名を重んじるのなら、己の立つ大地を穢すことなく守りなさい。それが正しい行いです」
スエリ・テカはひれ伏して答える。是、と。さざ波のように広がる言葉に乙女たちは思わず息を呑んだ。しょせんは下級民衆の寄せ集めでしかないはずなのに、彼らはひとつにまとまっている。すべては天子の威光の成せる業だというのだろうか。
そのとき、斜め隣で彼らを見据えているパルギッタの背中に、少女を守ろうと拡がる純白の幻想を見た。
イリュニエールは瞬きした。そんな、……そんなはずはない。柔らかな絹地は特別の仕立てで、すべての天子の衣装がそうであるように、背中は翼があることを想定してむき出しになっている。もちろんそこにはあの痛々しい傷痕があるだけだ。巨大な翼はもちろん、近いうちに傷が開いた痕跡さえもない。古くなり乾いた赤錆色をしている。
やはりパルギッタにはまだ翼が戻っていないのだ。それを今一度はっきりと確認したとき、イリュニエールはたしかに安堵した──そして何より、そんな自分に対して驚愕を覚えた。
自分は今、何を、考えていたのだ。
そっとミコラを覗う。乙女は相変わらず不安を浮かべた眼をして、しかしちらりと眼が合った。その瞬間だけミコラは泣きそうな顔をした。
今度はカルセーヌへ眼を遣った。方女頭は真剣な眼差しでスエリ・テカたちを牽制している。
それから最後のソファイアは、うっとりとパルギッタを見つめていた。
何もおかしくはない。これまでイリュニエールたちが誠心誠意で世話をしてきたパルギッタの、ほぼ初めてになる民衆への演説なのだ、感慨深いに決まっている。ソファイアは正しい。方女頭としての職務に隙のないカルセーヌも、やはり正しい。ミコラと自分のほうが、……あるいは己ただひとりが絶対的に異端なのだ。
イリュニエールはぞっとして、それから表情を誤魔化すために歯を食いしばった。本能的にそうするべきなのだと悟った。ソファイアやカルセーヌにこの感情を気取らせてはならない。
結局パルギッタの演説ののち、スエリ・テカたちの大部分は警吏に引き渡された。一部の一定程度負傷していた構成員に関しては先に医療施設に送られるという。天子の示した慈悲深さに彼らは幾度となく拱手平伏したため、引き取りに来た地元警吏団のほうも唖然としていた。それが拝翼信徒として本来的に正しいのかは別として。
「イーリ?」
小さな声が自分の名前を呼んでいる。イリュニエールはその、たどたどしくて短すぎる呼びかたを、それなりに気に入っているつもりだった。
ところが今はどうだろう。先ほどまでのパルギッタの天子然とした姿を見たあとでは、どうしてもあの整然と話すさまを思い返してしまう。その呼称をひどく不自然に感じてしまう。もう彼女は、自分の名前を覚えられないほど幼くはないはずなのだと。
「どうされましたか」
「ううん。……ねえイーリ、あなた、さっき私から眼を逸らしたのね」
「え?」
嫌なものが背筋を這う感触がした。パルギッタはただ、イリュニエールのほうを向いて静かに微笑んでいる。それがむしろ乙女には恐ろしくてならなかった。何か失態をしただろうか、と、頭の中ではそればかりがぐるぐると回る。他の乙女の顔色を覗っていたことが、もしかしたら許されないことだったのだろうか。
弁解することは敢えてせず、黙って天子の瞳を見返す。光線の具合で淡い緑色に見えるそれは、まるでどんな無礼を言っても許されてしまいそうな、そんな温かさに充ちている。冷たい色には見えない。
でもそれは昔のパルギッタがそうであったからで、では今の少女は見た目こそ幼さの残った頑是ない姿だけれども、中身も未だにそうであるとは言いきれまい。
「イーリは正直。そういうところはとても好き」
そう言って天子の伸ばしたきれいな手は、まだわずかに血糊のこびりついた方女の腕にすがりつく。
「これで、私はひとつ正解を選んだ……イリュニエール、あなたが生きていて、よかった」
「天子さま……? 汚れてしまいます、お手を」
「私は汚れません。大丈夫よ」
優雅な微笑でもって断言する彼女は確かに天子にふさわしい。そのままするりと手を離し、名残も残さず他の方女たちのほうへ去っていってしまった。花を移っていく蝶のような仕草だとイリュニエールは思った。
ただ何か腑に落ちない。今とても、とても名誉な言葉を貰ったはずなのに。
イリュニエールの記憶が正しければ、生きていてよかったと誰かに言われたのは、これで人生二度目のことになる。一度目は叔父夫婦からだ。恐ろしいできごとから生き残ったことへの言葉だった。叔父にとってみれば兄とその妻がともに凄惨な死にかたをした直後だったから、ほとんど無傷で助かった自分を見て心の底からそう思ってくれたのだと思う。
(おまえだけでも助かってくれて、ほんとうによかった、イリーナ)
彼らはただその事実に驚嘆するだけで、それ以上のことは訊かなかった。子ども相手に酷だと思ったのかもしれないし、そもそも当時の自分が冷静に話をできたかと言われれば、どう考えても無理だろう。今でもあまり口にしたくはない。
自分の両親が眼の前でむごたらしいことになっていたときに、あのケオニはこう言った。
『おまえは喰えない。そういう決まりだ』
なあ、そろそろ答えが見えたろう?──思考に沈む乙女の傍らで、ひどく醜い姿をした幻影が、舌舐めずりをしながら囁いた。
●●3
ロシュテンにとって、カイゼルが自分の説を信じてくれるか否か、ということはひとつの賭けだった。脆く崩れ落ちそうな精神をあと一歩のところで支えるには、どうしても誰かの助けが必要だったのだ。そして彼に心の依りどころとなれるような人物は、すでに亡き両親や信じるべきパルギッタを除いては、もはやただひとりの親友しか残らない。乳母や下男下女は皆これまで父の配下に置かれていたのだということを今さらになって思い知った。
方法はどうあれ成功した。いや、カイゼルは未だ懐疑的な部分を残しているが、それでも全面的に受け入れることを承諾してくれた。
このさい同情だっていい。ロシュテンが今もっとも恐れているのは孤独だった。ここでもしカイゼルに愛想を尽かされたとしたら、恐らくロシュテンの心はひたむきな拝翼によって癒されようとするだろう。そこに既に生まれている多数の亀裂や矛盾を無視する形で。
最終的にそれでずたずたにされることが明白な今、それは単なる自滅行為でしかない。
「ああ、つまりロッソ、ヴォントワース卿の死には天子が関わっていると、そういうことだね?」
「そうだよ。証拠はこれだ」
「……なんてことだ、ひどい完全犯罪じゃないか」
ロシュテンの手中にあるものを見てカイゼルは呻く。
それはひとひらの純白だ。柔らかな綿毛に包まれた美しい羽根。飽くほどに白く、羽毛の筋はわずかに薄い燐光を放ち、根元からは薫香がして、恐らくこれを眼にした何者をも虜にするであろう代物だ。
しかしそこにはただ一点、赤黒くくすんだ個所がある。ロシュテンによればそれは血痕であるという。
「これは鳥のものじゃない。父の部屋には見たことのないような長い白髪も落ちていたよ。それに女中頭を問い詰めたら父の書斎裏に隠し部屋のようなものがあってね、そこにも同じものが……女物の衣装や生活用品も」
「ロッソ……」
「最初は父の地位がそうさせたのだと思ったんだ。天子さまに何かあれば、侯爵がいちばんにお助けしなければならないからね。でも、ミンダ……女中が、言ったんだ。その知らない天子さまは父のことを何と呼んだか」
そしてその言葉を聞いた自分がどれほどの衝撃を受けたことか。
信じたくないと思った。思えば思うほど、可逆的に確信が深まることに気づいた。思い起こせばずっと昔からその兆候はあったではないか、と、頭のどこかで冷静に呟く自分がいた。
……胸のなかで疼き続けていたものが、ひとつの死を前に、ようやく形を持とうとしている。
→Next scene.