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scene1-1 失翼の天子

(今更ですが)

本作品に登場する個人名・団体名・その他諸々かくかくしかじかは、全て作者の脳内で湧いたフィクションです。

実在する個人・団体とは一切関係ありません。あったら驚きます。


.

 ●●1




「牧師はその朝、日付を間違えて種を蒔き、子供達は揃って森の入口を目指すであろう。

 海はやがて色が飽和し、空も銀の光を注ぐであろう。

 聖なるユフレヒカは街を見下ろして嘆くであろう。

 粛清の鳥はトーエあるいはケチェスを長とするであろう。

 彼等の嘴は尽く同胞(はらから)を啄み、彼等の脚の鋭利なる爪に、地は割かれるであろう。

 陸地の全てを煉獄に変えたのち、銀は星となって水に舞い降りるであろう」


『天説百廿四項六節:マケロの予定』

※ユフレヒカは山の聖者。

※トーエ及びケチェスはユフレヒカの従者であり鷲の翼を持つ者。一説に、トーエは烏の翼を持つとも言われる。



 ●●2




 ──ざわり。空気の歪む感触に、少女はゆっくりと眼を開いた。

 たくさんの睫毛に縁飾られたまぶたの下から現れる真円形の虹彩は、泉のような澄んだ碧翠をしている。一筋の影も差さない硬玉色である。その表面を光の粒がくるくると滑っては消える。

 真白の光ばかりが溢れたこの庭園にあって、捉えられる色は殆んどなかった。そのはずだった。

 見慣れぬその色に少女は首を傾げる。

 ゆらり、光を吸い取る漆黒に、光の庭園は震撼していた。明らかな異物の侵入である。四人分の影はまっすぐに少女へと向かって来るけれど、地軸の壊れたこの場所ではなかなか辿り着けない。たっぷり通常の倍くらいの時間をかけて、彼ら──いや、彼女らはようやく少女の前に到達した。

 彼女らの一人が少女を見下ろし、その唇を震わせる。


「真珠色の御髪(みぐし)に碧翠の瞳……間違いないですね」

「……それにしても、ちょっとこれじゃあ小さくなくって? 私はもう十六って聞いてましてよ」

「仕方のないことよ。時間のないこの庭園にずっと()らしたのだから……さぁ、お連れしなくては」


 少女は大きな瞳を揺らして、彼女たちの会話を聞いていた。怯えた様子も、嫌がるような様子もない。それ以前に何かを感じたようでもなかった。恐らく会話の意味を理解していないのだろう。

 それまで一人だけ黙っていた影が、やはり無言で少女に手を差し延べた。白くて細い指なのに、その手には傷痕がたくさんある。多くは打撲、まめ、あるいは切り傷だった。まるで下働きの女中のような手だ。上等の絹織の衣装を纏っているくせに、手だけがぼろぼろなのは不可解だった。

 まだ幼い少女はぼんやりと手を見つめ、一、二度瞬きをした以外には、何の反応も示さない。


「……一緒に、いらっしゃいませ」


 少女は影を見上げた。眩い白の光に包まれて乙女の顔は殆んど見えなかったけれど、その影はどうも微笑んでいるらしい。よく眼を凝らすと微かに曲線を描くくちびるが見えた気がした。

 手を取った。温かいけれど、冷たい手だった。ああ、少女はこんな手を知っている。誰の手なのかは思いだせないけれど、昔、とても遠い昔に、同じように冷たくて温かな手が彼女の手を引いてどこか悲しい場所に連れていった。思い出したくないのでかぶりを振った。

 さて、少女はそのまま躊躇うことも知らず、四人の影に連れられて、永く暮らした光の庭園を出る。長い時間をかけて、影のはびこる暗い外界へと。今まで彼女にとっては恐らくもっとも遠かった場所へ。

 それでようやく、少女は時間という概念に気付く。あまりにも長い時間が経っていたことを。




 ●3●




 聖域を離れ、乙女たちは至極はっきりと少女の全容をその眼に映した。やはり少女の髪は真珠の輝きを放ち、瞳は深く水を湛えた湖のような碧翠だった。

 華奢な脚で慣れない漆塗りの床を捉えるさまは、見る者すら緊張を禁じ得ない。産まれたばかりの仔山羊か仔馬のように、ゆっくりと時間をかけて立ち上がると、少女は満足げに微笑した。向こうではほとんど使っていなかっただろう四肢は、どうにか揃ってその機能を失ってはいないようだ。

 しかしながら、それでは足りなかった。 乙女達の連れ出した少女は人間そのものだった──いや、そのものでしかなかった。あるべきものが、完全に欠落していた。


「つ、翼がないっ……!」


 思わず悲鳴をあげたのは、背が高く、紅茶色の縦巻き髪が艶やかな乙女であった。


「どうしたことでしょう……けれども聖域に存らした以上、人違いなんてことありませんよね」

「えぇ。シェルジット様がお連れなさった際に、なんらかの事情で失われたのやも」

「──あるいは、持たずに生まれたのかも知れぬかと」

「ちょっとイリュニエール、それは流石に邪推ってものでしてよ!」

「で、でも考えられなくもないですっ」


 イリュニエールと呼ばれた乙女は、何も解らず微笑む少女に向き合った。腰を落として視線の高さを少女に合わせ、まっすぐ碧翠を見据える。少女はぱちぱちと睫毛をしばたたかせた。

 真円の鏡に映る、己の姿──朽葉色の髪と蛍石の瞳、縁の華奢な眼鏡──は、柔らかく滲んでいる。


「あなたさまは、ずっと昔から翼をお持ちでないのですか?」


 対する少女は眼を伏せた。長い睫毛が、真円を叢雲のように覆う。


「……、わすれちゃった」


 乙女達が初めて聞いた少女の声は、子ども特有のとろんとした響きを持っていた。見た目どおりの高音と、舌足らずで語尾の撥ねる飾り気のない言葉が、聞く者の耳を優しく撫でる。砂糖菓子を溶かしたようなふわふわした声音だった。

 よくぞ口を聞けたものだと感心する乙女もいた。向こうでは話し相手もいなかっただろうに。もしかしたら言葉を忘れているかもしれないと危惧した者もあっただろう。

 さて、イリュニエールは更に問う。


御名(おんな)は何とおっしゃいますか?」

「ぱる……」

「あぁやはり、ご本人でいらっしゃる」


 四人の乙女は少女の前に、一様に跪いて面を下げ、両手を重ねて額に当てた。

 これは彼女らの社会で身分の高い者に対して行う礼儀作法、主に法帝に奏する際に遣われるものである。法帝とは、教会に連なる聖職者群を束ねる長であり、更には(まつりごと)の頂点に立つ最有力の貴族を指す。もっともこの頂点という言葉にはいくばくかの語弊もあるわけだが。最高の位はあくまでこの少女のものなのだから。

 果たして少女にはこの作法の意味が解されることこそなかったが、乙女たちはそれに構わない。

 乙女の内でも最年長とおぼしき、蜂蜜色の髪を項の脇にまとめた玲瓏たる乙女が、一歩先んじて僅か前に出た。乙女らはもう一度深く一礼し、先頭の乙女は視線だけを少女へ向ける。


「パルギッタ=エサティカさまを、これより我らが主君にお迎え申し上げます。わたくしは守護方女(メルシエ)の頭、カルセーヌ=ビオスネルクと申します」


 湖に似た碧翠の中心に、淡く色のない光が躍るのを、カルセーヌは見た。

 瞬間、少女は解き放たれる──否、枷に囚われる。くっきりとした黒へ沈み込むような感覚を、これも久方ぶりとなる落涙さえ伴って、少女は感知した。またここに戻ってきた、と。覚えているはずもない場所だったが、そんなことはどうだっていい。戻ってきてしまった。

 『皎翼天子(エサティカ)』。天より降されし子。その姓を持つがゆえに、少女には常から幾重にも及ぶ(いましめ)に就く必要があった。彼女が生まれたその日から、いや、それよりもずっと昔から。

 一度はそれを逃れて今に至る。もっとも少女自身がそれを望んだのではなかったが。

 だからこそ、少女──パルギッタは何も持っていない。殺がれた翼と共に、かつて少女を充たしていた全てが失われたから、今の少女は空の器と同義だった。いや、その背が未だ呪われているというのなら、彼女の器にはまだなにか禍々しいものが棲んでいるのかもしれない。翼を取り返そうと、虎視眈眈と狙っているものが。

 少女は一人、瞑目する。身体がひどく重かった。どうしてこんなに重苦しいのかわからないのに、ただ、身体の芯に鉛を入れられたように重たく感じた。いくら影が多いといってもここは決して闇のなかではないのに。

 伸びきった髪に覆われた背中が、思い出したようにふと痛んだ。けれど今の少女にはその理由さえわからない。




→next sense.

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