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scene3-2 御命は下った


「知らなければよかったと思えることは、我々の人生においてそう少なくない頻度で訪れるものだが、このことに関して言えば、もしも知る前に死んでいたらどれほど幸せだっただろうかと、そればかり考えている」


(ある高位貴族の言葉、1883年白の月第21日)

 ●●1


 きみがこの文面を読めたということは、暗号がきちんと解読されたということだろう。

 わざわざ変な文章にして送ったのにはもちろん理由があるんだ。天子さまを、今度こそ理解できない。彼女の言葉が、おかしいんだ、ありえないことを言ったんだ。ああ、混乱しているのは自分でもよくわかるけど、知ってのとおり父の葬儀の準備もあるから、落ち着いている暇がない。

 パルギッタさまの口にする言葉には何か魔力のようなものでも込められているのだろうか。でなければ僕にはなんとも理解しがたい。もはや僕には彼女がひとりの少女には見えない。もしかしたら、これが本来あるべき信仰の意思なのか、とさえ思う。

 とにかく僕が考えたことについてきみの意見が聞きたい。とりあえず聞いてくれ。

 ──もしかすると、アルエネルは死んでいないのかもしれない。

 僕がこの発想に至った経緯については直接会って話したい。ただ、その、ほんとうに突飛な発想だということは自分でもわかっているんだ。生物学的にありえないからね。

 でも、それ以外に説明がつかないんだ。



 ●●2


 風の強い日だった。

 ヴォントワース卿の葬儀は大聖堂でしめやかに行われることとなった。この葬儀が終わったら、上二位の貴族すべてに適応されるように、聖堂内の墓地に埋葬される。最奥の、かつての天宮に最も近い納骨部屋に。

 二階部分の色硝子を嵌めた窓が強風に煽られて、がたがたと泣きわめいているようだった。そして実際、聖堂内を埋め尽くす参列客にも、中には涙を隠さない者もいるのだった。誰もが口々に囁いた。ヴォントワース卿がいかに優れた人物であったのか、自分たちはどんなに素晴らしい存在をなくしてしまったのか。

 その中でやはりビオスネルク伯爵も、悲しみに満ちた面持ちで立っていた。

 彼の隣には娘であるカルセーヌと、彼女の部下である乙女たちと、天子パルギッタとがいる。喪色の黒に包まれた父の背中はなぜかとても小さく感ぜられて、カルセーヌは小さく息を吐いた。父ビオスネルク伯とヴォントワース卿がどれほど親しかったのかも知っている彼女だ。彼の悲嘆は痛いほどわかった。

 よく状況を理解していないパルギッタは、それでもイリュニエールの隣でおとなしくしている。思えば彼女はヴォントワース卿との面識もない。そしてそのとき、唯一パルギッタの知っている「ヴォントワース」であるロシュテンは、棺の傍に立ち尽くしていた。


「ロッソ」


 カイゼルの言葉にロシュテンの目線が動く。やっと眼の端に友の姿を見とめると、ロシュテンは何か言おうとして、けれども喉からは掠れた音だけが出た。


「大丈夫かい。顔色が悪いよ」

「……ああ、昨夜からあまり寝ていなくてね。案外、準備が大変なんだよ、こういうのは」


 舌が回らないのだというようすでロシュテンはとぎれとぎれに答える。寝ていないというのはほんとうなのか、彼の鳶色の眼は少しばかり充血していた。いや、この場合はそうとも言い切れないのだろうが。

 カイゼルは話を続けようか迷ったが、ちょうどそこへ他の貴族たちがやってきた。お定まりの言葉から始まる慰めにロシュテンは力なく頷き、適当に返事をして、同じような目的の者たちをひとりずつさばいていく。カイゼルはそのさまを隣で眺めながら、これもロシュテンの疲労の一因なのではないかと思った。もちろん根本的な理由がもっと違うものであることも彼は知っていたが。


「ごたごた続きで話せていなかったけど、……あの手紙は読んだか」

「もちろん。むしろよくその状況であれを書けたね、きみ」

「こんな状態だからかもしれない。一瞬頭が真っ白になって、そのあとは何もかもがすっきり片づいて見えた気さえした……いや、疲れてるんだろう、僕も」

「当たり前だ。今くらい天子のことは頭から離しておいたらどうなんだい」


 カイゼルのたしなめに、確かにね、とロシュテンは笑うような素振りをした。もちろんほんとうに笑えたわけではない。

 彼の言う手紙とは、ちょうどヴォントワース卿の訃報と合わせてニルヴァー邸に届けられた、差出人さえ明記されていないおかしなものだった。いたずらか、はたまた狂信的拝翼集団からの脅迫かと受け取ったカイゼルは気が気でなかったのだが、落ち着いて読んでみると、簡単な暗号文であることがわかった。差出人はロシュテン。内容は天子のこと。

 ──天子の言動がついに人的範疇を超えた、という報告だった。そして、その結果として初代皎翼天子であるアルエネルにも衝撃的な言及がなされた手紙だった。それゆえ内容が外部に漏れることを恐れたので、こうして暗号を用いて書いた、恐らくきみになら分かるはずだ、と。

 普段のカイゼルなら愉快な手紙だと喜べたかもしれないが、状況が状況だけにそうもいかない。


「葬儀が終わってから話そう。今夜は定例どおり葬送の会食かい?」

「女中の疲労が激しいんで少人数だけどね。きみはビオスネルク伯にでもくっついてきたらいい」

「わかった」


 カイゼルはそっとロシュテンから離れ、そのままこっそりと葬儀会場の講堂を抜け出した。外にはまだ大勢の貴族たちが、ひとりの老人の死に顔を拝むために、列をなして群がっている。ここで知り合いに引きとめられることがないよう留意しながらも、カイゼルの歩調は早まるばかりだった。頭の中をぐるぐると回っているあの手紙の一文のせいだろうか。

 ──初代天子(アルエネル)が生きている?

 そんなことがありえるはずがない。彼女はもう数百年、いや、数千年ほども前の人物なのだ。いくら天子、それも始まりの存在といえど……。そもそもなぜアルエネルなのだろう、歴代の天子は他にも大勢いるというのに、いや、それはこの際問題ではない。カイゼルはうち消すようにかぶりを振る。

 とはいっても、現状のカイゼルには常識以外にロシュテンの意見を否定しきることのできる材料を持ち合わせてはいない。とにかく調べなければならないことが多すぎる。あの賢い親友の新しい解釈はのちほどゆっくり聞くとして、いま若い伯爵に必要なのは天子に関するあらゆる研究の情報、すなわち自宅地下に納められているアビン博士の研究関連書籍だ。必要なものがすぐ手許にあることだけは幸いといえよう。

 これまで目にした資料を鑑みると、アビン博士は天子の弱みを掴もうと死に物狂いで研究に打ち込んでいたらしかった。狂気的な筆致で書き綴られた分厚い研究日誌がそれを物語っている。それはあまりにも恐ろしくて、カイゼルもまだその全容を確認してはいない代物だ。あれになら何か書いてあるかもしれない。

 そう、あれほど天子を憎み、暴いていたアビン博士なら何か知っていたかもしれない。公式に発表していた皎翼の生まれる法則の他にも、例えば天子の出生に関わる極秘事項であるとか。


「おかえりなさいませ。お夕餉はやはり会食へ……」

「ああ。しばらくひとりで考えさせてくれ」


 何も知らない下男が外套を受け取るのを横目で見ながらカイゼルは思った。社会はこれほど天子を重要視しているというのに、肝心の天子のことなど誰も知らないではないか。彼女たちが人間に交わるようになったのはとうに幾千年も昔のことで、そのころなら確かに彼女らの気高い霊性を示してさえいればこと足りたかもしれないが、いまカイゼルはしかしはっきりと疑問を抱いている。アルエネルは何のために地上に降り立ったのか? ほんとうにそれは愚かな人間を救うためだけだったのか?

 神話の時代は終わった。天子はまるで人間のふりをして地上に君臨しているようだ。彼女の存在を遥かに高いものとして崇めさせながら、けれども超常的な面についてはほとんど表沙汰にされることがない。男性を持たない彼女らの種族がどうして絶えることなく続いてきたのか誰も知らない。なぜ翼を失うと生きていけなくなるのか解明されていない。彼女らがどこから現れたのかを伝える文書は存在しない。

 この世界を統治している生きものは何者で、何ゆえ崇めなければならないのか、その疑問を口に出すことはすなわち天子への冒涜なのだとされてきたのだから。



 ●●3


 その噂は瞬く間にあらゆる地区を駆け回った。そして七番区の外れに住んでいたハーシュダンの耳にさえも、二日ほど遅れてはいたもののついに届いた。

 貴族議会(エオレルマ)の長アッケル・ネヒガート・ヴォントワースの突然の変死!

 ハーシュダンはその男がどういった人物なのか、家族構成はもちろん年齢さえも知らなかったが、その男の率いている議会が敬愛する天子の生活に多大な影響力を行使している事実についてだけははっきりと知っていた。そんなことは調べるまでもない。ハーシュダンの心はいつでも天子に沿っている。彼女の抱える苦しみを、ハーシュダンも感じている。

 召集をかけるまでもなく、志を同じくする仲間たちがハーシュダンのもとに顔を出し、そして口ぐちに同じことを熱弁した。今こそ翼を解き放つときではないか、と。ハーシュダンもそれはもっともだと思ったが、彼にとって最大重要なのは皎翼天子の意思だ。

 そこでハーシュダンは仲間とともにあの翼のある部屋へ向かった。

 七番区の西部にある聖ディニア教会ルセディナイエシュクークには大きな塔がある。これは天宮派の教会建築物の特徴で、実際に取り壊されるまでの天宮にはこのような塔が存在し、その姿を模して造られたのが始まりらしい。教会ではこの塔を信徒への相談室として使うのが一般的だ。

 ただし聖ディニア教会には現在管理する人物がいない。数年前に大聖堂で大幅な人事異動を行った際、手違いがあって聖ディニアを含む幾つかの教会への新任牧師がいなかったのである。そのうえ教会は慢性的な人事不足に苦しんでいて、件の人事異動もそのために行われた事業だったのであるが、結果的に「田舎の小さな教会」である聖ディニアの問題は後回しにされてしまった。もっとも七番区は他の居住区に比べても広く、それだけ教会数も多いので住民はそれほど苦にしてはいないのが現状だ。

 むしろハーシュダンにとっては好都合なことこのうえなかった。前々から彼のもとで保護されていたあの『翼』を、相応しい場所で仲間たちに公開したいと考えていた彼は、さっそくこの機に乗じて教会の塔の鍵を入手し、あの翼を広げて飾ることにした。


「天子がそれをお望みなら、翼は朽ち始めているはずだ」

「なんと……」

「わかるか? パルギッタさまが自由になられるとき、翼は再び天子のもとに蘇るということだ」


 仲間たちはほんとうに理解しているだろうか。ハーシュダンは少しばかり不安になったが、その思いを振りきって懐から鍵を取り出す。青銅製の古めかしいが頑丈な鍵だ。頭部の羽根の造形は後からハーシュダンが仲間のひとりの鍛冶屋に頼んでつけ加えたものだが、軸の部分となかなか美しく調和している。

 塔の扉はがりがりと砂粒を削る音を立てながら開いた。

 そしてハーシュダンが一歩踏み入れたとき、塔の内部には黴と埃の臭いが充ちていた。塔は陽光の射しこまない構造をしているのでさして不思議でもなんでもない。が、次の瞬間ハーシュダンが眼にしたのは、天井からぶら下がった赤茶色の物体だった。

 仲間たちが背後で絶句しているのを感じながら、ハーシュダンはそれに歩み寄った。その奇妙な物体があの『翼』だということは俄かには信じ難かったが、確かにそれを吊るす縄はハーシュダンの用意したものであったし、吊るされている位置も高さも記憶にあるとおりだった。それは翼のなれの果てだった。

 ──おお、皎翼天子パルギッタ! 自由を得られるべきお方!


「おまえたちも見るがいい!」


 ハーシュダンは堪らず叫んだ。


「あれが天子の悲鳴だ! 自由を所望されている証!」


 仲間たちは黙っている。


「天子は我らがお迎えに参上するように仰せなのだ。今こそ天子解放のとき! 御命は下った!」


 おおおおお、と雄叫びに似た歓声が塔内にこだました。長い間待ち続けてきた瞬間がやっと来たのだ。ハーシュダンと仲間たちは素早く塔を施錠し、夜明けとともに出立する算段で各々の行動を始めた。鍛冶屋は秘かに溜め込んでいた無数の武器を、パン屋はこの日のために貯蓄していた食糧を配って回った。

 七番区は俄かに活気づき、西の森からは獣の声が止んだ。

 ハーシュダンはすべての準備が整っていくさまを満足げに眺めながら、これから始まろうとする重大な戦いの成功を祈り、天子に歌を捧げた。

 ──曰く、その慈悲の言葉を風に載せ、北は凍えるハザとウリュデの山々へ、南は焼けつくラジアン=ファトバーラの大砂漠に、西は暗いキスパールの森から、東は哀れな(エズレ・)民の住まう(ベスルフ・)名もない海(ソエ・リヴァナキ)まで、この世界がどうかあなたの愛に充ちますよう。天から授けられし愛し子よ、われらはあなたの手足になろう。あなたの代わりに血を浴びて、あなたの代わりに傷つこう。わたしはあなたの翼から散ったひとひらの羽根なのだ。

 歌いきったときハーシュダンは左手を握りしめた。手の甲の羽根の印(スエリ・テカ)が熱くなったような気がした。



→next scene

こんなとんでもないスパンで次話出していいものか悩みましたが、ほっとくと出し忘れそうなので出しておきます。


とりあえず言わせてくれ……最初はこんな話じゃなかったんだ……

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