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scene3-1 落ちていく人びと

「私は天子を憎んでいる

 私の愛するものはすべて天子に殺された

 私の信じるものはすべて天子に壊された

 私の感情はすべて天子に踏みにじられた


 一体どうしてこんな私が天子を愛せるというのか?」


アビン博士の研究書 前文

 ●●1


 冷たい星明かりがむき出しの肌をちくちくと刺す。新しい服を拾えないだろうかと彷徨っていたら眼のいっちゃってる奴に絡まれた。とある最悪な夜のこと。

 喧嘩はそこそこ強いほうだと思っているけど、薬で痛覚を飛ばしている連中の相手はさすがにやっかいだ。いちおうどうにか何も盗られずに済んだ。でもこう身体じゅうがずきずき痛むんじゃ、明日からの稼ぎに影響が出るんじゃなかろうか。そりゃあ稼ぎったって貧乏人同士ですすり合う程度のはした金と可哀想な奴から奪ったものくらいだけれども。

 ここはそういう世界だ。平等なんて言葉とは程遠い世界。

 休める場所を探しているうちに貧民街を出てしまった。幸い外の警備も手薄になりがちな時期なので、警吏にしょっ引かれることもない。いや、もしかしたらそのほうが楽になれるのかもしれないけれど。

 せっかくだ、あの屋敷を眺めに行こう。

 ここからもう少し歩いていくと貴族の屋敷がある。貧民街からほど近くては治安もそう良くはないだろうに、こんな立地を選ぶなんて風変わりな貴族もいたものだ。だからこそ彼女のような子が生まれたのかもしれない。だとしたら、自分と彼女が出逢ったのも、ある種の必然であったのだろうか。

 でもそれは何の意味も持たない発想だ。もう彼女はいないのだから。そんな感傷にいつまでも浸っているなんて、あんまり情けないし、らしくない。

 けれどもこうしてときどき、この屋敷を眺めに来る。恥ずかしながら自分がここを知っているのは彼女をこっそり尾行していたからで、それだけ彼女のことを知りたかったからなのだけど、初めてここに辿りついたときはほんとうに打ちのめされたような気持ちになった。彼女がどんなに遠い世界の人間なのか思い知らされたからだ。とんだ喜劇ではないか。

 もちろん届きようがないひとだってことはよくわかっていた。わかっていたはずなのに、どうしても運命を呪わずにはいられなかった。

 この世界を呪った。こんな理不尽な世界を創ったひとのことを呪った。

 彼女を奪ったひとのことを呪った。自分には身分を与えてくれなかったひとを呪った。

 そしてまた。こうして彼女の屋敷を物陰からそっと見る。あの出窓のついた角部屋が彼女の私室だということも知っているが、もちろん明かりはついていない。ぴったりと閉じられたカーテンには影が映ることもない。そこに彼女がいないからだ。翼があるというそのひとが連れていってしまったからだ──。


「天子をどのような方だと思っていますか?」


 貧民街へ戻るとそれがいた。人間のかたちをしていて、とても優しい声をしたものだった。それは身分のない自分たちがどんなふうに生きてきたのかを尋ね、答えれば真摯に聞いた。それは自分たちに対して深い同情の姿勢を示した。だから身分のない奴らは気兼ねなくぺらぺらと喋ったのだろう。


「天子はすべてを平等に愛すると仰いましたが」

「へえ、そんじゃあなんだってあたしらはこんな汚い街で這いずってなきゃなんないの」

「ほんとに天子がそんなこと言ったのかよ。どうせきれいなおべべ着て、一番区でお高くとまってやがんだろ」

「俺たちは生まれてこのかたいっぺんだって天子を拝んだこたァねえ。なんでかって、あのお方は一度だってこんなスラムにおいでになっちゃいねえからさ」

「そうだ、なにが天子だ! 羽なんか生えてたってなんになるってんだよ」

「なるほどなるほど……あなたはどう考えますか?」


 ふ、とこちらに注がれる視線。意見を求められているらしかった。身体の内にため込んできた呪いの言葉を、残らず一挙にぶちまけてしまえと言われたような気がした。

 そして、自分にとってはそれが、救いだった。

 彼女のことは伏せた。そのわりに自分でも驚くほど饒舌に口が動いた。自分にはどんなに大切なひとがいたのかを切々と説き、そしてそのひとが天子のために自分のもとを去っていってしまったこと、それがいかに辛い別れであったのかを、言葉の限り訴えた。

 きっと自分はどこかで吐き出したかったのだろう。抱えているには重すぎた彼女への慕情のたけを。

 そして、それはこのように結論づけた。


「では、おまえたちは天子を憎んでいるのですね。わかりました。天子冒涜の咎で落刑に処します」


 『ラッケイ』。聞き慣れない言葉。

 騙されたことに気付いたとき身体はもう自由がきかなくなっていた。それは手に持っていた杖のようなものを爪先でかつかつ叩きながら、受難せよ、と言った。それが呪いの言葉だということは教えられなくてもわかった。なぜなら自分が今まで天子に吐き続けてきたものと同じ臭いがしたからだ。

 そして自分はまたひとつ、彼女から遠くなった。



 ●●2


 ロシュテンの表情がずいぶんくたびれていることに気づいたのはなにも乙女たちだけではなかった。明らかに数日は満足に眠っていない様子の彼にパルギッタはいたく心を痛めたようで、ただでさえ相手を見つめる癖のある彼女だが、今日はまた一段と念を入れてロシュテンを見つめていた。

 天子の眼に浮かんだ心配の色に、ロシュテンは眩しそうに眼を細める。


「旧天宮跡の整地が済んだらどうなさりたいですか?」


 との質問にパルギッタは眼をぱちくりさせた。とくに考えていなかったらしい。もっともこれまでは政治にしろ自身の生活にしろ、根本的なところ以外ではほとんど蚊帳の外にされてきたパルギッタに、急に意見を求めることのほうが性急というものだろう。天宮の件も知らない間に決まってしまったのだ。

 パルギッタはしばらく悩みながらくちびるを尖らせていた。何か不服なことでもあるのだろうか。しかしそういった仕草でも愛らしくなってしまうのがパルギッタのパルギッタたるゆえんである。


「あ、墓地をつくってほしいな」


 ところが天子はにこりともせずそう宣った。

 予想をはるかに超越したその言葉には、乙女たちはもちろんロシュテンでもぎょっとした。これはまだ目前に死を見たこともないような少女の発言としてはありうるのだろうか。狼狽を禁じえない大人たちをよそにパルギッタはさらに続ける。


「布を見たお店にいた人たちがね、地価が高くて墓地を買えないと言っていたの。土地が足りないから値段が上がるのだとも言ってたよ。天宮ってきっと広いのでしょう?」

「あ、ああそういえばシュッコー男爵夫人がそんなことを言ってましたわね……そうよね、ミコラ」

「そうでしたね……えっと、ノストル女爵もいましたよ、確か」

「ですがパルギッタさま、天宮跡地は一番区の最高地ですから、墓地として提供したとしても元値がすでに相当な額になりますし、下位貴族には手が届かないかと思われます。それに仮にも天宮のおかれた土地に墓石を並べるわけにもまいりません。貴女さまのご利用になる施設を設営する方向で考えていただくべきです」

「イリュニエール、気持ちはわかりますが言葉を加減なさいね」


 手厳しいイリュニエールの奏上にパルギッタが意気消沈したのを見て、思わずカルセーヌがたしなめに入る。イリュニエールは少し恥ずかしそうに口許を覆ったあと小さくパルギッタに謝罪した。

 和やかな光景にロシュテンは心が温まる思いがした。正直なところ、パルギッタには大聖堂の高みで民衆を見下ろすための椅子や、天宮の寒々しいほどに広い謁見場は似合わない。彼女にはこの安らかな方女屋敷のほうがいい。老醜を晒す高位貴族や聖職者たちに囲まれているよりも、歳の近い乙女たちが傍に仕えているほうがいい。

 ここでこうして笑っているうちは、二羽の鳥にならないで済むような気がするのだ。ロシュテンにはそう思えてならないのだ。

 

「それなら、みんなはどうしたらいいと思うの?」


 今度はその場の全員をくるりと見回して尋ね返すパルギッタ。


「そうですね……」

「急に仰られてもすぐには思いつきませんわね。一本取られましてよ」

「まあ、ソファイアったら」


 乙女たちはその後もなんだかんだと話し合ってみたが、とくにこれといった案は出てこなかった。天宮が広すぎるのと、現在のパルギッタの活動範囲がそれなりに限られていること、またパルギッタ自身があまり土地利用に興味を持っていないらしいことが問題のようだ。この環境ではそれも宜なるかな。

 そのあとパルギッタのたっての希望でロシュテンは天子と一緒に本を読んだ。成長しているのは間違いないけれども、まだまだ幼いところが感ぜられる。もっとも読んでとせがまれたのはそれまでパルギッタが好んでいた絵物語の類ではなく、このところ巷で流行っているらしい地理ものだとか、あるいは過去の事象をまとめた歴史ものといった、多少堅苦しい書物が大半を占めていた。それらは知的好奇心を擽るといって近ごろ評判になっているのだが、ロシュテンはあまり興味を持っていなかったので、これまで勉学以外では積極的に読んでこなかったものばかりだ。

 読み聞かせているとたびたび機敏な質問が飛んでくる。回答に四苦八苦するロシュテンを見てパルギッタは寛容な笑みを浮かべ、ロッテはこのあたり苦手なのね、と痛いところを突いてくるのだった。


「すいません、植物学なら得意なんですけども……そういえばここには植物の本がありませんね」


 ロシュテンがその事実に気がついたのはほんとうに偶然だろう。もしここでパルギッタの相手を務めていたのが、たとえばカイゼルだとか他の貴族だったとしたら、そんなことは気にもかけなかったはずだ。男性貴族で花や植物に興味があるという者はほとんどいない。彼らの多くは、天子や他の貴族の子女の気を引けるような派手な趣味を持ちたがるし、園芸や植物学は前述のような趣味とは言い難い。

 しかし女性なら、一般的に花は愛でる対象に挙げられる。一時など庭師を雇うことが生活区を跨いで大流行したことがあったほどだ。そしてパルギッタも天子という格別の地位を持っている点を除けばごくふつうの女の子なのだから、学者向けの植物図鑑とまではいかずとも、花の絵本くらいは持っていてもおかしくはない。少なくとも貴族の娘であれば、贈られた花の名前くらい答えられるようにと、必ず一冊は持たせられるものであるらしい。

 この屋敷の図書室はパルギッタのために設えたものであるはずだ。パルギッタの趣味嗜好が一面に現れる空間であるはずなのだ。そしてそこに植物関連の書籍が一冊も所蔵されていないというのは、ロシュテンとしては些か不自然にも思える。

 そしてパルギッタは少し考えるようにしてから、そうだね、と答えた。それ以上は何も言わなかった。

 単に興味がないのだろうとロシュテンは納得することにした。花ずきな彼には少々寂しいことだが、なぜかこのことに深入りしてはいけない気がした。それにこの世界を統べる天子に歴史や地理を知ってもらうことのほうがきっと有益だろう。

 私情は振り切ったほうがいいかもしれない。そう判断したロシュテンは気を取り直して、地理誌の頁をびっしりと覆う山岳地帯の解説文を読み始めた。古くから霊的な場所として知られてきた場所、かつて天子が降り立ったと言われる地、知られざる太古の文明跡とそこから発見された見たこともない文字のこと──頭の奥でぼんやりと、こういうのは自分よりもカイゼルが好きそうだと思いながら──。


「ねえロッテ、これを見ていると懐かしい気持ちにならない?」


 岩壁に刻まれていたという、ひびだらけの古代文字をうっとりと眺めながら、パルギッタはしきりにそんなことを言った。生まれて初めて見る未知の図形に懐かしさを感じることは、しかしロシュテンにはすんなりできないことだった。


「ああこれ、恋文なのね」


 パルギッタはそう言ってくすくす笑う。ロシュテンはそれに相槌を打ちながら、どこにそう書いてあったのだろうかと紙上に視線を走らせた。古代文字を模写した挿絵の周囲にはそれについての説明がなく、ならば本文中はどうかというと、右図の文字は、との書き出しで著者の感想が述べられていた。

 ──右図の文字はすでに失われた言葉を書き表したものであり、現存するあらゆる言語と一致しないことが分かっている。だが肝心のその内容は未だ解読されておらず、ある言語学者は生活痕とみて調査を進めているが、云々──。

 ロシュテンの思考は一瞬止まった。そしてしばらくしてから、この現状を上手く納得できるような説明を探し始めた。見つからなくてもいい、ずっと探していたかった。

 確かにパルギッタは天子だ。天子には、人間には真似するべくもない稀有な能力がいくつも備わっているし、一般的に人間よりも長命なことが多く、存在そのものが絶対的神秘であると言われている。そしてこれまでもパルギッタは幼いなりにその聡明さを示す言動を随所に示してきた。彼女は確かにこの世界の頂点に立って政を治めるに相応しい人物であるはずだ。

 だから、では、これは、何か?

 考え込むロシュテンをよそに、屋敷内は急に騒々しくなった。乙女たちがなにか騒ぎ始めたのだ。彼女らは口々にあれはどうのと言いあい、そしてひとりがロシュテンたちのもとに駆け寄ったかと思うと、大変です、と言った。大変です、お父さまが、ヴォントワース卿が亡くなられました、と。

 そのときロシュテンの手から、鈍い音を経てて本が滑り落ちた。



 ●●3


 アッケル逝去の知らせを聞いたビオスネルク伯爵はしばらく言葉を発しなかったという。彼の忠実な下男の言によれば、まるで旦那さまの心がどこかに行ってしまわれたようだった、というほど茫然自失としていたらしい。

 彼らは長年の友だった。あるときは女性をとり合い、政治的な対立さえしたこともあったが、若いころから友に学んで遊んだ仲だったのだ。どちらかというとハーシモスのほうが世渡りが得意で、真面目すぎるきらいのあったアッケルはその後ろから追いかけることが多かった。それでも彼らは学問の成績や家の位に関係なくいつも対等に渡り合ってきた。よき理解者であり、好敵手だった。

 その友が突然の急死ともなれば伯爵の悲嘆も当然だろう。

 しかし、ハーシモスが次にとった行動は、親友を失った男のそれとしては、些かおかしなものだった。

 まず彼は下男にあの黒い箱を持ってこさせた。普段は大聖堂の一室に、それは厳重に保管されている、歴代天子の翼核を収めた箱だ。ところがいざその箱を眼にすると、途端に彼は気分を害してすぐさま大聖堂に返却させた。それからしばらく考え込んでいた。彼がアッケルの葬送への準備に取り掛かったのはそれからずっと後のことだった。

 下男シジはそれを見て、旦那様はひどくお疲れになられたのでしょうね、と語っている。



→next scene.

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