scene2-8 空になった鳥篭
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「黒い翼を持った使者は賢しく、
白い翼を持った使者は厳しく、
赤い翼を持った使者は激しく、
すべてを持ったならば、どうして正さずにいられようか」
『マケロ=聖イスタート覚書』より引用
●●1
何事もなくパルギッタは帰っていった。二日前のことだ。
肝心の少女にはとくに変わったところはなかった。滞在中の観察で得られた彼女の情報はずばり、容姿をと成長速度を除けばごくごく普通の女の子である、ということだけだった。
むろん危惧されている怒りの表出もない。まだ「牧師の誤ち」は起きていないのだろうか。それとも、それらはこちらが思っているほど性急に展開するものでもないのだろうか。あるいは──ロシュテンとしてはそう思いたいのだが──終末の天子はパルギッタではなく、もっと後の代の天子なのかもしれない。
わからないことが多すぎて胃が痛かった。自分にできるのはただパルギッタを見守ることだけだ。
ケオニ討伐は怪我人をだすこともなく無事に完了し、もちろんこれに大いなる語弊があることはロシュテンも承知しているが、方女たちは彼女らの屋敷に戻った。その翌日にパルギッタは帰った。滞在中の気苦労を思うとロシュテンは安堵を抑えられなかったが、そうする間もなくカイゼルから連絡が入った。
天宮は取り壊されることになった。広大な敷地がどのように処分されるのかまではまだ決定していないらしいが、ここ数日パルギッタのために貴族議会を休みっぱなしだったロシュテンには正直どうでもいい。それよりカイゼルの目論見は果たされたのであろうか。焦らしずきの彼のことなので具体的には教えてくれなかったが、そのうちお呼び出しをくらうんだろうなとロシュテンは安易に構えた。
ところが夕方になってカイゼルのほうから訪問してきたのである。
カイゼルは機嫌が良さそうに微笑んでいたが、前回会ったときより少しやつれたように感じられた。ロシュテンの気のせいだろうか。
いつものように本題そっちのけでぐだぐだと世間話という名の惚気話を挟んでから、カイゼルは癖毛を掻きまわして、そうして何気ないことのようにその言葉を口にした。
「そういやさロッソくん。天子がふたりいる、ってどういうことだと思うね?」
話題を振られたロシュテンはというと、あまりのことに口をぽかんと開けたまま絶句した。
「……よかった。叫ばれたらどうしようかと気を揉んでいたんだよ」
「な、い、いま、何て」
「天子がふたりいる、と言った。きみの意見は?」
「ありえない」
「だろうね、うん、もちろん僕もはじめはそう思ったさ」
カイゼルは僕も、の部分を妙に強調した。それから続けて小声で話しだした。
「順を追って説明するとつまり、天宮の処分が決定したその日の晩に誰かが『天宮から出ていった』そうだ。適当な護衛をつけて駕籠入りでね」
「それがもうひとりの天子だと?」
「いかにも。可能性としてはそうだな、じつはシェルジットさまが御存命で、ひっそりとご隠居してらしたとか。あるいはパルギッタさま以外に皎翼を持ったエサティカがいたが、政治的な理由で隠されていたとか……かな」
「待てよ、カイゼル。シェルジットさまは亡くなってるはずだろう」
「断翼されたからかい?」
「そうだよ。根元から翼を断ち切られた天子は長くは生きられないと聞いてるし、それに」
「それに?」
「パルギッタさまが発見されたときは楽園におひとりだったと……もしシェルジットさまが生きているなら、まだ幼い自分の娘を楽園に放って逃げたりするのか?」
天子のことを学ぶ。それは貴族の嗜みでもあった。
たとえば美しい翼は彼女たちの生命力そのものであること。それを断ち切ってしまえば、個人差はあれどすぐに弱ってしまうこと。そのため天子は、他ならぬ天子自身が罪を犯したとき、その地位を新たな天子に継承して自らはその身を断翼台に横たえるのであると。
断翼台のひとつはヴォントワース家の敷地内にあって、ロシュテンも幼いころ、本物のそれを見たことがあった。断翼台は恐ろしい装置だ。黒い革帯がいくつもついた、必要以上に大きくて醜い機械。重そうな刃に身震いしたこともよく覚えている。どういう仕組みで翼だけを切り落とせるのかはよくわからなかったが、できれば知らずにいたいとも思った。
それなのに、あれはロシュテンがまだ筆記の訓練を終えていない少年だったある日のこと、敷地内の断翼台で天子シェルジットの断翼が行われたのだ。
ロシュテンの部屋と断翼台とは敷地の端同士ほどに離れていたにも関わらず、微かに天子の悲鳴を聞いたときには背筋が凍る思いがした。同時に敷地内の森にいた動物が一斉に騒ぎ、羽のあるものは逃げるようにして飛び去り、そうでないものは地に伏せた。ロシュテンの眼には植物さえ震えていたように映っていたし、手にしていた羽根筆は紙と一緒になって無残な形に曲がってしまった。それくらい凄惨なできごとだった。
断翼にどれほどの痛みが伴うのかはわからない。それでもあの日を思い返すたび、あの絶叫を思い出すたび、シェルジットはあのとき死んだのではないかとさえロシュテンは思う。彼女が生きているはずはない。
「パルギッタさまはあれでもお元気のようだけどね。もうひとつの可能性についてはどう思う?」
「ほかに皎翼の天子がいるはずもない。パルギッタさまが皎翼だっていう記録があるなら、前例がないよ。……もっとも前例を無視してもいいなら、ほかにも可能性はあるんじゃないかい」
「たとえば?」
「僕もすぐには思いつかないけど……そうだな、パルギッタさまに姉妹がいたとか」
理のひとつとしてエサティカは増えない。一族は総勢二十四人で、必ずそのうちのひとりが皎翼を持って生まれてくる。パルギッタの翼が純白であるとの記録は今でも聖堂に残されているし、他のエサティカも一覧によれば茶斑や薄い橙などが主流で、皎翼が生まれたという記録はない。
不思議な力でも働いているのか、天子の系図には一定の周期があった。それは皮肉にもあのアビン博士の発見した法則である。家ごとの天子輩出が同じ数列を作りだすというもので、そしてその周回予測によれば、このあとシェルジットの家からニ代続いて天子が輩出されることになっている。だから少なくとも計算上はパルギッタが天子であるはずだ。
もうひとり天子がいる。十二分に異常事態だと言っていい。
「ねえロッソ。何か嫌な言葉を思い出さないか」
「カイゼル……まさか、アビン博士の言っていたことが……?」
あらゆる前例を無視してロシュテンとカイゼルは考えた。それはとても恐ろしい発想だった。
天子がもしも、もうひとりいるとしたら。ふたりいるとしたら。それは、まさしく終末の引鉄となる二羽の鳥のことではないだろうか──? つまり彼女らは、マケロの言うところのトーエとケチェス。対になる二羽の従者。ユフレヒカの遣わせた鳥たち。
ならば、ユフレヒカとは誰なのだ。
●●2
あの日のことをミコラはあまり口にしようとはしなかった。何か思いつめている節はあるのだが、誰かが尋ねると彼女は微笑んでうやむやにしてしまう。そして、ケオニを取り逃がした件について謝るだけだった。
一方ヴォントワース家から戻ってきたパルギッタは以前よりも落ち着きのある子になった。このごろでは滑舌も向上したので、ますます天子としての威厳がついてくるというものだ。はきはきとものを言うパルギッタの姿に乙女たちはひどく癒された。そして、言葉にすることこそなかったものの、翼への期待を膨らませていった。
この調子なら、次の討伐には御出立願えるかもしれない。
ここ最近でぐっと背が伸びたパルギッタのために、何着か新しい衣装を設えることになったのも、もしかしたらそういった気持ちが後押ししていたのかもしれない。パルギッタ自身の指名した二番区にある布問屋には多忙な方女頭を除く三人の乙女が随行した。賑やかな外出を天子はたいそう喜んだ。
衣装は性格を映す鏡である。乙女たちの薦める布は、ソファイアなら薔薇色の本繻子、ミコラなら紺碧の天鵞絨、イリュニエールなら茶鼠の唐縮緬といった具合だ。パルギッタはすべてをお気に召したので、それぞれ用途別に購入することになった。そのあと仕立屋で採寸を済ませると時刻はもう昼過ぎであった。
邸宅に戻るとすでに居間には食事の用意がされていた。
今ではパルギッタも順序良く手元の食器を扱うことができる。口許を汚さないように小さく切ってから口へ運んだり、うっかり落とさないように考慮するようになった。
「すみません、遅れてしまって」
「あら、おかえりルシ―。大丈夫よまだ食べ始めたばかりなの」
パルギッタはおっとりと返して、カルセーヌに隣の席を勧めた。続けて、今日は少し冷え込んできたから、そのかわりお料理が温かいのね、など。
「よい布は見つかりましたか?」
「うん、三人が素敵なのを見つくろってくれたから。ルシ―も楽しみにしていてね」
「これは有難いお言葉、いたみ入ります」
「来月の頭までにこちらに届くそうですわ。そうそう、パルギッタさまは随分と背がお伸び遊ばしてたんですよ」
「まあ……、それは喜ばしい限り」
乙女たちの朗らかな笑みが食卓を彩る。
今日は採寸のときに邪魔にならないよう慮ったのか、パルギッタは髪を後頭部で半月型に結っていたので、喉許がすっきりと露わになっていた。それを見たカルセーヌはふと考える。女中を置かないこの屋敷であるから、おそらく髪結いはミコラの仕事だったのであろう。あの子は手先が器用だ。
あれから落ち込んでいる様子の乙女のことを、果たして天子は気にとめてくださっているだろうか。ミコラは年齢もパルギッタにほど近いし、イリュニエールにほどではないにしろ、パルギッタもよく懐いているように思うのだ。
何か、聞き出してはいないだろうか。
まるでカルセーヌの思案を杞憂だとでもいうかのように、このときミコラは上機嫌だった。それが余計に気にかかるのは方女頭としての矜持がそうさせるのかもしれない。他の乙女はどうだろうと視線をやってみると、ソファイアといえば相変わらず饒舌に世間話をしていて、イリュニエールは通常どおり真顔で聞き役に徹している。
ああ、パルギッタだけでなく乙女らも成長していたのだ。カルセーヌは複雑な気持ちになった。昔はみんな幼くて、少し顔色を覗っていればだいたいの事情が読めたものだけど、今では上手に隠してしまえるようになってしまっている。
「ああ、そうだ、今日はきっとロッテが来ると思うの。支度しておいて!」
「うふふ……ほんとうにパルさまは、ヴォントワースの令息さまのことがお分かりでいらっしゃるのね」
「からかわないでソフィ。法帝が来たってわかるのよ」
「はいはい」
わからなくなってしまっている。あの笑顔が本物か嘘かも見抜けない。
●●3
久方ぶりに父を見た。大きかった背中はもう随分と小さくなっていたが、彼女としては別段それに感慨その他を抱いたわけでもない。ただ、矮小だなと、それだけ思った。所詮は小さな生きものなのだなと。
そして自分は、あの矮小な生きものの血を、引いてしまったのかもしれない。
(いや、私はこれほど美しいのだから、あんな醜い生きものの子であるはずがない)
父は居間の長椅子に腰を下ろし、拡大鏡のようなものを使って本を呼んでいるところだった。何の本かわからなかったがどうだっていい。問題なのは背後に自分がいることにさえ気づいていないということだ。どうしてこんなに愚鈍で愚かな生物が存在するのだろう。母は何のためにこれを創ったのだろう。
わからないことばかりでうんざりだ。面倒になったので、父に声をかけてみる。振り向いた初老の男は自分の姿を目に留めて、声にならない声で悲鳴した。
「なぜ、ここに、」
「『お父さま』が『お呼びになった』のではなくて?」
「そうではない、ああ、あ、なぜ、見張りは、鍵は、門番は、」
「私にあんなもの要らないわ。出ていくのを邪魔してきたから少し眠らせておいたのよ……ねえ『お父さま』、どうして『会いに来てくださ』らなかったの? 『お忙しい』って聞いていたけど、見たところこうやって本を読む時間はあるようね。それとも私は『お父さま』にとってそんな薄い本以下の存在だったということかしら」
意地悪くそう言ってやると父は面白いくらいに狼狽した。そして何かしきりに弁解の言葉を並べているようだったが、どうしてもそれは彼女の知っている言語のようには聞こえなかった。それが彼女には非常に許し難いことのように思えた。
なぜこの男は私の御前にひれ伏そうとしないのだ。
「うるさいわ、『お父さま』……そんなことより、私は欲しいものがあるの」
「そ、そうかね。よし、任せなさい、なんだって手配してあげよう」
「だめよ。あなたじゃ用意できないような代物なんだから。問題なのはね『お父さま』、私がそれを手に入れるのに、どうしてもあなたの存在が邪魔だってことなのよ。残念だけど」
彼女は言いながらゆっくりと翼を広げた。左右合わせて十尺はあろうかという巨大な翼は、いま初めて開放された空間のなかで羽ばたくことができた。心地よい感覚に彼女はうっとりしながら、しかし冷徹な瞳で父を見下ろした。父はそれでも頭を伏せることはしない。
「何をするんだね、────……?」
そして父はあろうことか、彼女をあの醜く平凡な名前で呼んだ。
「『お父さま』。それは私の名前ではないわ」
「だが、」
「あら口答えするの? ……そう、私をこれ以上愚弄するんじゃないよ、人間風情が」
すべては一瞬で片づけられた。
彼女は翼を小さく折り畳んでから、適当な上着を手に入れた。そうして足早にそこから立ち去った。もう二度と戻ってくることのない、彼女にはもっとも不必要なこの空間を、いま永遠に後にしたのである。檻から逃げた小鳥が戻ってはこないのと同じ原理がそこには働いている。
そしてしばらくののち、下女がふらつく足を引きずってどうにかこの部屋に辿りついた。彼女はそして現実を目の当たりにし、あらん限りの力を振り絞って彼女の主のもとへ馳せ、そして助けを求めて叫ぶ。
部屋には、鳥の羽根が散らばっていた。
≫next chapter.
あけましておめでとうございます! 連載開始から何年目なのか考えると悪寒がする実アラズです。
年内に終わらせられたらいいとか、思うのも虚しいので、やめました。←あ
こんなんですが、今年もよろしくお願いします。
追記
お気に入り登録というやつをしてくださってる神、いや天子さまがいらっしゃるようですね。もう……その寛大さを崇めてもいいですか……。
すいません、頑張ります。そしてありがとうございます。




