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scene2-7 翼のしるし


「天子は民からすべてを奪った。私はそう思っている」


ある士会員の言葉

●●1



 ロシュテンは自室に籠ってじっと考えていた。天子とは何者なのだろうかと。

 自室はというと植物関連の書籍や標本で溢れかえっている。彼はもともと美しいものが好きだったが、その最たるものは花だった。それに加えて、彼の持つ僅かな母親の記憶のほとんどは花に関係するものだった、ということがある。

 母リヨネ──ほんとうはリョルネッテルというのだが、古い名前なので本人がそう呼ばれるのを嫌がったらしい──は、とても短命な人だった。

 顔立ちは整っていたが、生気がなかった。逆にその脆そうな容姿がえも言われず美しいと思わせるようなところがあった。かなり早くに亡くなってしまったのでロシュテンにはあまり彼女の記憶はないが、幼い彼にも「この人を守らねばならない」と感じさせたことはよく覚えている。

 リヨネは花が好きだった。身体が弱いくせに庭師の教育にだけは手を抜かなかった。それを傍で見ていたロシュテンとしては、色とりどりの花のなかでひとり消えそうなほど淡色でいながらも嬉しそうに微笑む母が、なにより美しいものだった。そもそも母の顔をそれくらいしか覚えていない。

 その母の口癖が、天子さまはお花のよう、だった。

 病弱な母でも天子の傍仕えをしたことがあったらしい。母はもちろん方女にはなれなかったけれど、そのころ天子は天宮にいて、母はそこで聖職者として天子に仕えていた。そのころの思い出を語るときにはいつも言っていたのがその言葉だった。

 ロシュテンは誰にともなく頷く。確かに天子は花のように美しくて優しい。

 けれども、その天子が恐ろしい存在になってしまう。誰が彼女を修羅に貶めるというのだろうか。ロシュテンはそのことをじっと考えていた。誰が、何を間違うのだというのか。


「……牧師は日付を間違えて種を蒔き、」


 口のなかでよく知っている一文をあらためて噛み砕く。

 アビン博士は何と言っていたのだったか。──牧師とは貴族のことである、だ。

 誰かが何かの過ちを犯す。それが天子の怒りに触れる。ロシュテンにはパルギッタが怒ることろさえ想像できないのだが。


「日付ってなんだろう。種を蒔く、にも何か意味があるかもしれない」


 博士にはそれもわかっていたのだろうか。だとしたら、なぜあの本に何も書いてくれなかったのだろう。よほど憚られるような内容なのか。

 頭を抱えて考え込むロシュテンだったが、その思考はすぐに扉を叩く音に掻き消された。

 女中の声がする。少し訛っているのでそれが誰なのかもすぐにわかった。父がいちばん熱心に教育している拾い子だ。ミンダ、とかいう名前の。

 許可を出すとミンダはそっと扉を開けて色黒の顔を覗かせた。ぱっちりした黒い瞳が印象的だ。


「坊っちゃま、天子さまがお呼びです。……それから旦那さまが心配しておいでですよ」

「父上が?」

「はい、あの、お屋敷に天子さまがおいでになってから、ちっともお部屋から出ていらっしゃらないので。今日など朝餉も召し上がってらっしゃらないでしょう」


 お身体に悪いですよ、と心配そうにミンダは言った。ロシュテンにとっては考えのまとまらない今パルギッタに会うことのほうがよほど精神に悪いと思ったが、彼女が呼んでいるとなっては抗うすべがない。

 あの小さな天子を曲げてしまうような過ちとはなんなのだろう。

 パルギッタのいる部屋へ向かう道すがら、ロシュテンはなおも悶々と考えていた。カイゼルからあんな話を聞かされるまでは天子が可愛くて仕方がなかったし、実際今でも彼女の顔を見ると頬をほころばせずにはいられないロシュテンだから、それは重大な問題だった。

 パルギッタを預かってからよくわかったのだが、彼女は決して無理なわがままは言わないし、女中たちの多少の粗相は笑って許せる懐の深さもあった。いつもふわふわと微笑んでいて、見ているこちらまでついにっこりさせるような、そういう温かさを持っていた。それに女中相手に気遣いができるような謙虚さもある。

 ひととおりの通史を習ったロシュテンからすると、歴代天子に比べても低い視点からものごとを見ているところがあるように思う。よく言われるような気高さや高潔さとはまた違う気位を感じることもある。

 翼がないというのに気負った調子を見せないことも大きかった。もしかしたらそれで少し遠慮しているのかもしれないと思ったが、それは流石に考えすぎだろうか。

 わからない。あの彼女が怒り狂うような過ちとはなんなのだ。どれほど愚かな過ちなのだ。



 ●●2



 カルセーヌは一瞬絶句した。

 殲滅が終わっても戻らないミコラを探して三人で捜索していたところ、東端の角部屋で彼女は発見された。床に倒れ伏していた。

 怪我らしいものはどこにも見当たらなかったが、彼女はぐったりとしていて意識も曖昧なようだった。ソファイアが駆け寄って抱き起こすと微かに眼を開いた。しばらくうわ言のように何事かを呟いていたが、結局それを他の乙女たちがなんとか聞きとる前にがっくりと項垂れた。

 どうしたものかと考えあぐねながら、カルセーヌはイリュニエールと手分けして室内を探索した。まだどこかにケオニが潜んでいるかもしれないと思ったからだ。

 床にはケオニのものらしき身体の断片。手足の指や骨や毛髪類といった、彼らが食べてもあまり美味くないと判断したらしい部位が多く目立つ。家具がいくつか設置されているほか隠し扉のようなものは見当たらない。天井も同じように調べてみたが同様だ。

 壁には家主らしき肖像画や風景画が数点飾ってあるだけの質素なもので、縦縞の上品な壁紙の上には古い血痕が散る以外に何の特徴もない。それこそ剥がしたような跡などもなかった。

 最後に確認した窓際は分厚く埃が積もっていたが、一部分だけ擦ったように木材が見えている個所があった。削れた面積の大きさと残った形状からカルセーヌはそれを成人男性の手によるものと判断した。

 まだ新しい。これが恐らくミコラを襲ったケオニの手なのであろう、彼は窓から逃げたのだ。ちらと外を窺うと、樹木の陰にふたつ眼光があったような気がした。

 それにしても解せなかった。カルセーヌの知る限り、ミコラはとても厳格に訓練された娘であったからだ。彼女がケオニ一匹みすみす逃がすとは思えない。争った形跡すらないこの部屋を見るにつけ、相手がもしかしたら無傷なのかもしれないと思うと、ますます疑念が膨らむばかりだ。何があったのだろう。

 真実を知る乙女は静かに眠っている。方女でいちばん歳若の、まだあどけなさの残る小柄な娘。


方女頭(メルク)……これは何だと思われますか」


 ふとイリュニエールがカルセーヌを堅苦しく呼んだ。彼女の細い指は窓枠を指していた。

 大陸北方に拡がるこの地方の建築の特徴として、紋入れ枠が挙げられる。窓枠は必ず縦枠も横枠も奇数で組み合うように設計され、かつ中央の枠は他より幅広にするか央部だけ広げて作り、そこに家紋を刻むのである。たとえばカルセーヌの実家のビオスネルク家では翼を広げた鷲と鬼灯(ほおずき)を、母方の実家では枝に止まった鳩と百合の花を刻んである。

 乙女の指さす窓枠はまさしく中央の太い枠で、そこには本来なら前の家主の家紋が記されているはずである。先ほど見た肖像画によれば十姉妹と牡丹らしい。だが、一見してそれが鳥や花などではないということがカルセーヌにもわかった。

 たしかにそこには美しい翼が空を背に拡がっていたが、しかしその翼を持つ人物は──そう、それはヒトのようだった──、両手に心臓の象徴と命の象徴らしい簡略化された図形を抱えていた。

 それは天宮の紋だ。天宮にだけ刻むことの赦された、天子を表す図象。


「イリュニエール、あなたはそれが何か知っていて?」

「いいえ。けれど私にはこれが皎翼天子であるように思えるのですが」

「そうです……これは天宮紋(ティダーツァ)といって、天子を示し、本来は天宮内にしか刻んではならない紋なのですよ」

「それがなぜここにあるのでしょうか」

「わかりません。どうやらこれは前の家紋を削って、その後から彫り込んだようです」


 窓枠を変えたほうが遥かに容易なはず、ということくらいはイリュニエールのほうでもわかっているだろう。ケオニの棲む廃屋に天子がいる。そのことが何より不気味だった。

 ところがイリュニエールの次の言葉でカルセーヌは失神しそうになる。


「これと同じものを、以前にも討伐地で見ました。まだパルギッタさまがおいでになる前のことでしたが」


 乙女の話によれば、それはとある廃教会でのことらしい。カルセーヌは思い出した。六番区と七番区の境にある、今では珍しくなった古い様式で建築された教会だ。最後の牧師が伝染病で死んでから後任が見つからず、やむなく閉鎖されていたのだが、どこからかやってきたケオニたちが棲みついていた。

 イリュニエールはそのときは翼の紋があることには疑問を抱かなかったらしい。なぜならそこが教会で、なおかつ彼女はそれが天宮紋なのだと知らなかったからだ。

 もしかしたら、とカルセーヌは考えた。教会には天宮(ティダ)派という名の一派もいる。ビオスネルク家は代々アルエネル派を信仰しているから天宮派については明るくないが、もしかしたらティダ派の教会には天宮紋を刻んだり、かつティダ派の貴族は自宅にもそれを刻むことがあるのかもしれない。廃教会がティダ派であったかどうかは覚えていないが帰ってから調べればわかることだ。

 問題は、どちらもがケオニの拠点となっていたことだ。偶然にしてはできすぎなのではないか。

 しかも天宮といえば先日カイゼルがとんでもない提案を議会提出したばかりだ。議会には方女全員が出席してカイゼルを睨んだのだが、カルセーヌにはいまいちカイゼルに真剣味を感じられなかったばかりか、結局のところ乙女たちが黙っていてもその提案は却下になった。議会の顔ぶれは揃って、パルギッタに天宮など考えたこともなかったというようすだった。

 まったくカイゼルは何を考えているのだろう。あの提案はどうも、人びとに天宮のことを思い出させるための演出だったように思えてならない。ここはまた時間を作って彼を問い詰める必要がありそうだ。

 カルセーヌが考え込んでいると、イリュニエールが肩を叩いた。ソファイアもこちらを見ていた。


「そうね。長居をするのはやめましょう」



 ●●3



 彼女はその日、まったく何年ぶりかの太陽を見とめた。これまで閉じ込められていた檻は壊されてしまうことになったのである。工事が始まる前に連れ出してしまおうというわけだ。

 慣れぬ陽光の刃がその身に辛くないようにと、あるいは彼女の姿が誰の眼にも触れないようにするためか、特別に幅の広く織られた黒毛の長布で全身をすっぽりと包まれて彼女は運ばれた。彼女としては後者であろうという思いが強い。自分はあまりに特異な容姿をしている、と自覚していたからだ。自分はこの世にまたとない格別の存在なのだと。

 たとえばその背。柔らかく大きな力強い純白の翼。

 たとえばその肌。穢れも傷もひとつとしてない、しなやかな体。

 たとえばその瞳。この上なく深く澄んだ冷徹な碧緑の双眸。

 たとえばその髪。光輝く真珠色をした眩しいほど美しい御髪。

 ──私こそが、世の頂きにおわしますべき天子である。これを見て誰がそれを疑うだろうか?

 しかし現実には彼女は暗い檻の中に長い間閉じ込められてきた。おかしいことだ。パルギッタは彼女以外にありえないのに、侍女から漏れ聞いた噂話では、パルギッタを名乗る女が二番区の方女屋敷にいるらしいではないか。

 彼女はおぼろげな記憶のなかでその女を知っていると思った。あれだ、あの女だ、と思った瞬間から身体の底を憎しみが渦巻くようになった。

 なるほど確かにあの女ならパルギッタを名乗ることも易いだろう。とうに死んだものと、いや、殺されたものと思っていたけれど、そうか、まだしぶとく生きていたのか。

 忌々しい女だ。醜い女だ。そういえば姿もこのとおり美しいおのれとは比べものにならないほど醜かったように思ったが、その点はどうやって誤魔化したのだろう。

 だがそれはどうでもいい。檻から解放された今、その嘘をすべて白日のもとに晒してやるのだ。

 そう意気込んだ彼女だったが、結局のところ彼女は檻から出されたわけではなかった。彼女は別の屋敷に移されてから同じように暗い部屋に押し込められただけだったのだ。待遇はどちらもほぼ同じと言ってよかった。出歩ける範囲はむしろ狭くなった。今までは敷地内なら好きなように歩かせてもらえたのに、今度は決まったいくつかの部屋でしか活動が許されなかった。

 どうやらこの新しい屋敷には彼女の存在さえ気取らせてはならない人物がいるらしい。それは甚だ腹立たしいことではあったが、彼女をここへ呼んだ肝心の父が長い間面会を拒否していたので、文句ひとつ言うこともできなかった。


「お嬢さま、お召しものを交換いたします。立ちあがっていただけますか」


 侍女はお世辞にも美しいとは言い難い田舎者だった。こんな女が傍仕えだなんて、おのれの地位も堕ちたものだと彼女は思った。


「ねえ。お父さまはまだ私に会ってはくださらないの?」

「旦那さまはとてもお忙しくていらっしゃいますからね。また月が伸びればお暇もできますでしょうから、そうしたらお嬢さまともゆっくりお話できますよ」


 のんびりと侍女は言ったが、悠長に待っていられるものかと彼女は内心で憤らずにはいられなかった。けれども侍女に当たっても仕方がないので黙り込んだ。

 今は忍耐するしかない。そしてこの鬱憤を晴らすはあの女の虚言を暴露するときまで我慢するのだ。そのほうが心地よかろう。

 ──いずれ私が奪い返してやる。それまでせいぜい可愛がられていろ、虚構の天子(シェルグ・イ・ティカ)め──。



 →next scene.

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