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scene2-6 待つ人々


その名の意味を()ってはならない

彼女の言葉を理解してはならない



「マケロの言葉」


_

 ●○1


 またあの姿をごみごみした貧民街で見いだすことはそう容易くはなかった。大したものを食べていないはずなのに背が伸びて、眼もとも少し穏やかになったような印象を受けた。訊けば新しい仕事を始めたという。

 久しぶりに会った彼は相変わらず素っ気なくて優しかった。それが嬉しかった反面、もうこれで最後と思うと胸が苦しくなった。

 大命なんか要らない。大事なお役目なんか欲しくない。なんだってそんなものを自分が受けなければならないというのか、子ども心に謎だった。貴族はたくさんいるのだから、自分よりもっとお役目に見合う子どもがいるのではないか、そもそもなぜ自分が選ばれたのかが、さっぱりわからなかった。同時に否定したい気持ちでいっぱいだった。

 こちらの様子が尋常でないことに彼も気づいたらしい。少し距離を置いて、こう言った。


「帰んなよ。ここはあんたのくるような場所じゃない」

「でも」

「あんた、親いんだろ。そんでしばらくこなかったんじゃねえのかい。なおさら悪いや」


 そう言い捨てる彼でさえどこか寂しそうだった。とにかく事情を、もうこれで二度と来ることはないのだと説明してみたけれど、彼の態度は一貫して変わらなかった。早く帰れと彼は繰り返し言った。そのころには自分も理解していた。それが彼なりの優しさなのだと、そして、寂しさを誤魔化そうとする言葉なのだと。

 親のいない彼。きょうだいのいない彼。自分にとっては弟のような存在だったと言っていい。彼にとって自分が姉のようであれたかどうかはわからない。

 これが最後、と自分によく言い聞かせてから、彼を抱きしめた。服なんか汚れようが破れてしまおうが構わない。ただ彼のことを忘れてしまわないように、そしてできるなら彼のほうでも自分を忘れないでいてくれるように、そんなことを思いながら、彼の温かさを胸の中に収めた。

 意外に彼は抵抗することもなかった。それがどうしようもなく切なかったのはなぜだろう。

 そして、それきり彼とは会っていない。

 あれから自分は長いこと訓練に明け暮れることになった。訓練というのは大命を果たすための武器を使う練習のことだ。武器といってもそれは人間を傷つけることなどできない代物で、子どもでも持てるように随分と軽い作りをしているのだが、毎日それを稽古場で振り回す羽目になったのである。

 いくら軽いといっても金属製品だ。とても楽なことではない。けれどもお役目を放棄する権限などない自分は他にさせてもらえることもなく、ただ毎日の鬱憤を腕に込めて振り下ろす。そんな毎日が続いた。それに慣れるころには同じお役目をいただいた他の子どもたちとも仲良くなり、そのなかでは自分は最年少だったけれども、年頃の娘らしい会話もたくさんした。恋人をつくったこともあった。それはそれで、楽しかった。

 いつの間にか、彼のことを思い出すことが、なくなった。それに気づきもしないで時が流れていった。



 ○●2



 そこに飾られているのは一対の美しい純白の翼だった。

 薄暗い部屋のなかで明かりもないのにぼんやりと光を放つそれは、見た者が皆思わず息を呑むほどに神々しくて、一点の曇りも穢れもなかった。美しいひと、と誰かが言った。美しいひとはまだおいでにならないのかと、悲しそうな声で囁く誰かに、また別の誰かが答えた。我々はただ待たねばならないのだと。

 窓のない壁の上、遥か高い場所に飾られた翼には、何人の手も届きはしない。ただ上空から降り注ぐそれの輝きに人々は身を震わせた。

 そこから少し離れたところで聖書のなかの歌を厳かに吟ずる者がいる。


“ああ、われらのエサティカ

 ああ、われらのいとしいひと

 あなたのつばさはここにある

 あなたの帰りを待っている”

“アルエネルは降りて言われた、

 人よ、あなたがたは私の翼のもとにあると

 ゼノヴァピアは尋ねて言われた、

 なぜ人は翼のもとにも争うかと

 キュスケータは嘆いて言われた、

 なぜ人は翼のもとに抗うかと

 ユエラウェッラは優しく言われた、

 わたしの愛に従いなさい

 そしてひとつになりなさいと”

“わが愛を、幼子よ

 わが愛を、老人よ

 わが愛を、花よ

 わが愛を、土よ

 もろもろの民は従いなさい

 すべて翼のもとにひとつである

 世にある生物(たましい)をいつくしみ、

 その罪を投げ出しなさい、命のために”

“ひとびとは翼のために生きていけるだろうか

 木の伸びる日にユフレヒカは尋ねた

 翌日アルエネルはこのように答えた

 そうあることが救いなのです”


 そこまで読みあげると声の主はいったん口を閉じた。珊瑚色の眼が印象的な男である。彼はそのまま近くにあった椅子に腰を下ろし、置いてあった枇杷酒を舐めるように少しだけ飲んだ。思ったより発酵が進んでいて酸味が強い。

 人々は思い立ったように彼のもとに群がり来ると、それぞれ性急な調子でしゃべり始めた。


「ハーシュダン、我々はいつになったら天子をお救いできるのか?」

「あの堕落しきった教会を陥落(おと)すのはいつになりましょうか?」


 男は手で軽く彼らを制する。案ずるな、とでも言うように。


「焦るな」


 渋い声音で唸るハーシュダンの右の手の甲には羽根を象った刺青がある。彼に群がる人々にも同様のものがある。それぞれ場所は違うが、寸分違わぬ細長い羽根。恐らくは彼らの同胞の証なのであろう。この薄暗い一室に集まって天子を崇め、壁の翼を見上げる集会の。

 その内で代表格であるらしいハーシュダンは、不安げに周囲を見回す人々とは対照的にどっしりと構えている。彼の体格のせいもあるかもしれない。どこで労働しているのかはわからないが、とにかく彼は非常に立派な体つきをしており、強い眼光を放つ瞳と結った長い黒髪がその韋丈夫を際立たせている。

 彼の眼差しは壁に掛けられた翼に注がれていた。温かで健気な眼差しが。


「あの翼を見るといい。おまえたちにも天子の苦しむ言葉が聞こえてこよう」

「おいたわしや……」

「パルギッタさまは翼を封じておられるのだろう。その意思に逆らえることがあろうか? ……あれが解き放たれるときこそ我らの立つとき、意地汚く天子の御光にすがる貴族どもを一掃して真の翼政を立てるときであろうぞ。早まってはならん」


 おお、と人々は頷いた。どれも感嘆と納得の入り混じった声だった。

 満足げなハーシュダンはなおも翼を見つめ続ける。どこか恍惚とした表情で、愛おしげにそれを見つめる。まるで己の恋しい人を見ているときのように。

 そうして彼のくちびるは自然と彼女を湛える歌を口ずさむ。この世でただひとり純白の翼を背に負うことのできる、世界の何より愛おしいその人に捧げられた歌を。彼女が空の高みからこの地上に降りてきたときから今まで変わらずに愛されてきたこと謳う、彼が聖書のなかでいちばん好きな讃美歌を。

 ──天から降りて来た人よ。われらはあなたを愛し、あなたの愛のために生きている。




 ○●3




 パルギッタをヴォントワース邸に預け、方女たちはケオニ討伐のため出立した。今度もまた5番区で、貧民街の傍にある廃墟にかなり湧いているという話だ。

 ケオニは群れる。いつか共食いするためだ。だから討伐の際にはたいてい大人数を相手にせねばならないが、方女たちはもう慣れっこだ。いつもどおり黒い制服を着て馬車で5番区へと向かう。道中で実家への挨拶も忘れない。今日は守らなければならないパルギッタがいない分、乙女たちは以前より気が楽そうな様子である。

 やがて目的地が近づくと馬車は停まった。ここからは方女たちだけで向かわなくてはならない。

 問題の廃墟は5番区にあるものとしてはかなり巨大だった。普通、位が高くて財力のある貴族は番号の若い地区に邸宅を構えるものだが、時折こうして貧民街の傍や中層貴族向けの立地で屋敷を建てる人物がいたりする。その名残なのであろう。5番区は既に閉鎖された廃墟区である。

 どこから聞きつけたのだろうか、窓からケオニたちが顔を覗かせていた。方女たちはそれをきつく睨む。


「陣形は前回と同様です。必ず遂げよ」

「諾」


 その掛け声とともに方女たちは四方に拡がる。そしてそれぞれ扉や窓を破って建物内へと侵入を始めた。

 ミコラは己の方器(メメル)を握りしめて大窓を叩き割っていた。彼女のそれは直刀の類で、柄には碧緑の糸が編み込まれている。一振りに見えるがその実、軽い刃が幾層にも重ねられており、彼女が振り上げるたびにそれは形を変えるのだ。一般にはかなり使い辛い代物だが、長い鍛錬のすえミコラはそれを使いこなせるようになっている。

 埃を吸いこまないように口許を袖で覆いながら、まず彼女は内部を見まわした。誰もいない。それが一層のこと不気味であった。音を立てないように気を遣いながら次の部屋へ向かう。するとそこにはケオニが数人転がっていた。けだるそうな瞳でミコラを見つめていたが、襲いかかってくることはない。恐らくまだ食人まで進んでいないのだろうが、とりあえず今後のためにと、彼女はそれらを殺しておいた。

 彼女にはちょっとした決めごとがある。それはできるだけ一撃で仕留めることだ。出逢うケオニは皆その罰に苦しんでいるのだから、せめて殺すときには苦痛をを与えたくない、というのがミコラの考えだった。ケオニもかつては人だったのだから。


「来世には翼のご加護あらんことを願いなさい」


 そう告げながらケオニの喉を切り裂く。ケオニたちは泣きながら彼らの終わりを受け入れる。ミコラには彼らの疲労の色が見えたので、たぶんこれでいいのだ、と納得した。これで彼らも輪廻に還ることができるだろう。

 それにしても。これで何人目だったかわからないケオニを殺しながらミコラは思った。どうしてこんなにたくさんケオニが生まれてしまうのだろう。正直な話、ミコラは今まで──少なくともパルギッタと出逢うまでに──何度も翼を否定している。といっても、翼がどうしてそんなに特別なのか理解できない、という程度のことなのだし、もちろんそれを積極的に人に話したこともない。けれども皎翼否定は皎翼否定だ。そんな彼女がケオニになるどころか立派に守護方女として生きている。

 どんなに翼を憎めばケオニになるのだろう。それがいまいちよくわからない。

 ケオニになった人に何があったのだろう。少し興味をひかれたが、今はそれどころではないのだった。上の空になりかけた自分を軽く叱咤してミコラは討伐を続ける。本当はパルギッタが浄済しなければいけないのだが、今はパルギッタも幼いし、当分は自分たちの代行でも仕方あるまい。

 次の部屋。朽ちた扉を退ける。そこにはひとりしかケオニがいなかった。というより、恐らく当初は何人かいたのだろうが、既に食べられてしまったらしい。床に布切れや欠けた歯が散らばっている。食べ尽くして仕事のないらしいそのケオニは、窓辺に佇んでぼんやりと外を眺めているらしかった。ミコラは彼に声をかけようとして、ふと、そのケオニの服装に、既視感を覚えた。ぼろぼろの服。垢で薄汚れてしまった服。

 彼女は彼を知っていた。彼が誰なのか──否、誰だったのかを知っていた。

 彼女は彼の名前を知っていた。なぜならそれは、かつて彼女自身が名付けたものであったから。


「……あなた、ミケール?」


 振り向いた顔はミコラのよく知った少年の面影を遺していた。確かに彼だった。10年前、貧民街で出逢った「身分のない」少年だった。あれから随分と背が伸びているが、やせ細って今にも倒れてしまいそうなほどで、立ち姿もどこかふらふらしているようだった。

 彼はくしゃりを顔を歪めて、それが微笑みか哀嘆かはわからないけれど、言った。掠れた低い声だった。


「だからもう来るなって言ったのに。へんなキゾクだよなあ、あんた」


 それから彼はやっぱりどこか寂しそうな調子で、けれども笑うように、頭を揺らした。

 ミコラは掌に嫌な汗を感じた。もちろんこんな形で再会するとは夢にも思っていなかった。それに、どうして彼がケオニなんかになってしまう必要があったのだ。彼はただ生きていただけではないか。

 彼を、ミケールを失ったその日から、ミコラは彼女の方器とともに生きてきた。生命のもっとも汚れた領域にまで堕ちたケオニたちを(きよ)めて殺すことだけが、当時まだ天子の見つからない教会での彼女の職務だった。そしてそれはパルギッタがいる今でもさして変わることはなく、それに疑問を持つこともなく、ただそうやって暮らしてきた。そのように訓練されたのだから。

 けれども。彼女の持つ直刀が小刻みに震えていることに、彼女自身が気づいていないはずもなかった。

 ミケールは動かない。彼は自分の立場をよく理解しているらしい。よくぞ思考や言葉を失わずに生きてこられたものだとミコラは思った。たいていのケオニは罰が進むにつれて、つまり空腹が強くなるに従ってその理性を手放す傾向にあるのだが。確かに思い返せばミケールはとても冷静な少年だった。

 ──共食いに進むほど長く苦しんでいるのなら、早くその業を終わらせてあげなくてはならないのに。

 ミコラの理性的な部分はそう言っていた。それはわかる。ミケールの土気色をしたぼろぼろの顔はとても痛々しくて、まだスラムにいたころのほうが健康そうに思える。正直言って見ていられない。早く殺してあげなくては。彼がじっとしているのも、こちらが動くのを待っているからなのだろう。

 それなのに、手に、力が入らない。

 腕がまるで自分のものではないように動かない。足などがくがく震えてしまって立っているので精一杯なほどだ。軽いはずの方器が重すぎて持っていられない。落としそうになって大勢を崩す。そして、そのまま座り込んだ。床の上に散らばっていたケオニの爪が太ももに突き刺さった。


「……へんなやつだよなあ、あんたって」


 彼を殺すことが、できない。




→next scene.

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