scene2-5 闇からの声
「これは私の罪なのだ。あの子をここに閉じ込めることが私に課せられた罰なのだ」
(ある高位貴族の言葉、1867年青の月第4日)
○●1
友だちがいた。男の子で、身分のない友だちが。
四番区のはずれにある自邸のすぐ近くに『身分のない人』たちの暮らす地区があった。身分がない、というのは平民以下の貧しい層のことを表す言葉で、あまり良い言葉ではなかった。けれどももっとひどい蔑称もあった。例えば、触ってはいけない、見てはならない、そういう意味の言葉で呼ばれることもあったのだ。
彼らがどうやって毎日暮らしているのはよくわからない。ただ、他の貴族たちに比べたら彼らのことをよく知っていると思う。どんな服を着て、どんな調子で話すのか。
「あんた、なんでこんなとこいんだ。キゾクだろ?」
言葉遣いはひどく乱暴で、着の身着のままの服は垢だらけ。いつもお腹を空かせていて、裸足で小石の剥きだしになった道を歩いていて、そして疲れた瞳で世界を見つめている。貴族の自分を見ると嫌そうにする。ときどき羨望の視線を投げかけられることもなくはなかったが、どう考えても不愉快そうにされることのほうが多い。
「み、見てみたくて、ここのこと」
「へんなやつだなあ。ここはあんたらキゾクの来るような場所じゃないってのに。そのきれいな服だって靴だってみんなよごれっちまうよ」
「どうしてですか?」
「いろいろあんのさ。あんた、なんにもないうちに帰んなよ。ひどいことがないうちにさ」
彼はその中では珍しいほうだった。自分から話しかけてきたし、嫌そうにも羨ましそうにもしていなかったし、なによりこちらを心配しているみたいな口ぶりだった。
確かに随分危ない行動だったのかも知れない。純粋な興味だったとはいえ、たったひとりで貧民街に脚を踏み入れてしまったのだから。そこはまったく無知の世界。なにがあったとしてもおかしくはない。少なくとも政府の統治はほとんど届いていないのだから。
けれどもそんな無鉄砲さを気にいったと彼は言った。
彼には名前がなかった。そこで自分の名前をもじってつけてあげたらびっくりされた。嬉しそうだったけれど、いらないと言われた。気恥ずかしかったのかもしれない。こちらのことも断固として『あんた』としか呼ばないような人だった。
彼と遊ぶのはとても楽しかった。他の貴族の子どもたちと遊ぶよりもずっと刺激的で面白かった。だから足繁く彼のもとへ通った。
しかし毎日のようにどこかへ出かけていき、そのうえひどく汚れて帰ることをさすがに使用人が訝った。そして後を尾行られてしまい、結果として貧民街周辺に入り浸っていることが両親にも知られてしまった。当然かなりの衝撃を与えたらしかった。叱咤されるということはなかったが、貧民街はもちろん彼のもとへ行くのは禁じられ、以前のように自由に出かけることはほとんどできなくなってしまった。もっともそれまでが奔放すぎたといっても過言ではないが。
そうして彼に会えないままずるずると時間が経ち、それでも貧民街に近いこの屋敷にいればまたいつか会いに行けると信じていたある日、それは来た。
大命降下──。初めはよくわからなかったので、お祝いごとだと聞いて喜んだ。けれどもそのために3番区へ行かなくてはならないと知ったときの絶望。もうこの屋敷で暮らせないとわかって、つまりそれが彼にもう完全に会いにいけないことなのだと理解して、気づいたら家を飛び出していた。彼と引き離されてから既に一年以上経っていた。
○●2
カイゼルに促されてロシュテンは地下室へ足を踏み入れた。かなり広く造られた部屋だ。ニルヴァー邸にこんなものがあったとは、幼少からの友であるロシュテンでも初耳だが、カイゼル自身もその口ぶりからすると滅多に利用していないらしい。確かに机などの埃の厚さその他を見ると、あまり手が行き届いていない感は否めない。
いかにも頑丈そうな大型の鍵を念入りにかけたのち、カイゼルは持ってきた燭台を机に置いた。
蝋燭の明かりは不安定に揺れて影を震わせる。黒く巨大な鍵つきの書架からカイゼルが取り出したのは同じく黒の、革製の装丁が施された大きく分厚い本だった。あまりに大きいのでロシュテンもそれを運ぶのを手伝わなければならなかった。机の上で異様なほどの存在感を示す書物には、しかし題名も何も記されてはいない。
「大きいな」
「だろう。一度に何人もが読めるように大きく作ったものらしい」
「ということは教会かどこかにあったものか?」
「いや……逆かな。この屋敷を教会にするはずだった。だから本自体はずっとここにあるんだが」
カイゼルはそう言うと奥の棚から金属片を取り出した。古びた銀色のそれは見た目にもずっしりと重そうだが、表面には風に舞う鳥の羽根のような美しい流線型の彫刻が施されていた。
それはこの書物の鍵であったらしい。恐らくわざとそのようには見えないように製作されたものだろう。書物の側面にあるわずかな隙間にそれを差し込むと、何かをぐっと押しこむような感覚があり、そしてその向こうで何やら金属同士の擦れ合う音がした。
ふたりは書を開く。何十年も封じられていたのであろう禁断の書を。
そして中表紙を目にした瞬間ロシュテンは呻いた。
「カイゼル。これは、トーク……立侯士会のアビン博士の研究書じゃないか」
「そう。今世紀最大の反翼組織が、なんと大昔ここに拠点を持っていたらしい。まあこれは大衆向けに直した写本だが……」
立侯士会。武力で以て領土を得、翼政に従わない、自由主義者の反翼組織である。アビン博士はかつては皎翼研究の第一人者として知られていた人物だが、士会の一員だということが発覚してまもなく行方を眩ませた。今ではアビンは呪われた名前として忌み嫌われている。
アビン博士の研究書はその所在が幾度となく探されてきた怪書中の怪書だ。むろん彼の研究室に残された書き留めや素描から多少その内容を窺い知ることもできるのだが、すなわち皎翼への不敬と見なされる昨今ではそれも難しい。
それがまさかニルヴァー邸の地下に眠っていただなんて誰が信じられるというのだろう。
カイゼルはしかし、落ち着いた様子で頁をぱらぱらとめくっていた。ロシュテンにはそれをただ見守ることしかできない。──そして、カイゼルはふとその手を止めた。
「これだ」
彼が指し示した頁には有名な聖書の一節が記されていた。何の変哲もない普通の文章だ。
ロシュテンは瞬きをしてそれを見つめる。
『牧師はその朝、日付を間違えて種を蒔き、子供達は揃って森の入口を目指すであろう。
海はやがて色が飽和し、空も銀の光を注ぐであろう。
聖なるユフレヒカは街を見下ろして嘆くであろう。』
『粛清の鳥はトーエあるいはケチェスを長とするであろう。
彼等の嘴は尽く同胞を啄み、彼等の脚の鋭利なる爪に、地は割かれるであろう。
陸地の全てを煉獄に変えたのち、銀は星となって水に舞い降りるであろう』
これはいくつかある聖書の章のうち天説という項目に記された予定文である。この章の執筆者はマケロという人物。文中のユフレヒカは山に住む聖者、トーエとケチェスは聖者の従者のことだ。
「マケロの予定終末説じゃないか」
「そうだ。士会はどうやら終末説がお気に入りのようで、ここにある他の書物にもちょくちょくこの文章が引用されている。そしてアビン博士はこれを解読したかったらしい」
「解読? これを暗号か何かだと思っていたってことかい」
「そのようだ」
隣の頁には博士なりの新しい解釈が何通りも書かれていた。牧師はなぜ日付を間違えるのか、そもこの牧師とは何者か、森とは何を暗喩するのか、ユフレヒカとは何なのか。そしてついにはマケロの存在さえも怪しんで、これは意図して書かれたものに違いないとも断言されていた。その意図とはずばり皎翼支配の正当化と絶対権限化で、云々。
そこには皎翼への激しい憎悪と嫌悪が充ち満ちていた。
博士はこう告げる。この牧師とは翼に追従するあらゆる貴族のことであると。そして彼らは過ちを犯し、その子は大いなる悪意によって翼を滅ぼさんとするだろうと。トーエそしてケチェスはいずれも皎翼のことを指し、つまりそのとき初めて翼はその正体を曝け出し、その怒りをして世界を滅ぼすのだと。
すなわち我々シクァトークはその子を如何にしても得ねばならない。それを徹底的に御し、育て、その力で以て皎翼の悪夢を打ち砕き、そしてすべての精算とともにその子を葬り去るべきである、と。
「そしてね、ロッソ。博士は皎翼を悪魔だとも呼んでいる。それゆえに人々を惹きつけることに長けているのだとね」
「ああ……なんていうことだ」
「僕ら貴族の過ちが皎翼の怒りを買い、この世界が滅ぶのだとしたら……僕は士会に属したくはないが、彼らの言うことももっともだと思う。天子に悪気はなくともその力はあまりにも恐ろしい」
「あの純粋無垢なパルギッタさまがそんなことできるだろうか。カイゼル、だめだ、僕にはわからない。わからないが、」
ロシュテンの心は鉛を呑みこんだように重苦しかった。あのかわいらしい世間知らずの少女が、怒りに呑まれて悪魔と化すのを思うと、どうしようもないやりきれなさで胸が詰まるようだった。
「ロッソ。すまない。これを読んだ時点できみは僕の同胞だ。同じものを恐れなくてはならなくなる」
「それはどういう意味で?」
「つまりきみは皎翼天子の負の可能性を知ってしまったわけだから、……盲信的な拝翼主義集団にとっては充分に排除対象だと見なされうる。それも彼らは貴族の中に拠点を持っているから、下手をしたら一瞬で存在抹消、いやそれ以下の扱いを受けることになるだろう」
カイゼルは苦々しげに言った。僕もあまり詳しくは知らないが、とつけ加えたが、ロシュテンにはそれどころではなかった。
なぜならロシュテンは賢かった。その賢さが仇になるほどに聡明だった。カイゼルは最初なんと言ったのだったか──『彼女』の眼に不自然に映らないように、と言わなかったか。そしてそれは彼の婚約者カルセーヌ・ビオスネルクではない誰かで、そして、転居の話に絡んでくるほど天子に近いところにいる女性。
つまり。その人は、守護方女のうちの誰かで。
且つカイゼルの目的が天宮の処分にあるということは、天宮もまた何かを隠しているということではないか。
「大聖堂で司祭官十数名が行方不明になった話は聞いたか」
「ああ、睨下から直接聞いた……まさか彼らもその、拝翼主義者に連れ去られたというのか」
「十中八九ね。そしてまたケオニが騒ぎ出している。これらの関連性もまだわからないが、絶対に何か繋がりがあると思うんだ。十一年前の5番区災害のときも、その前に大量失踪事件が起きている」
「え? それは初耳だ……」
「そりゃそうだろう、貧民街の人口が一時著しく減っただけだからね。伝染病の恐れがあるといって近隣の住民には知らせたらしいが……そのあと5番区であんなことがあった。ケオニが騒ぐ前には必ず何かが起きてるんだ。たとえば10年間行方不明だった天子が発見されたりね」
ロシュテンの首筋を嫌な汗が伝った。カイゼルもまた、不愉快そうな顔をしていた。
ふと疑念がよぎる。ケオニたちはどこで異変を聞きつけて騒ぎ出すのだろう。それに彼らは、一旦浄済されてから再び騒ぎ始めるまで、どうして息を潜めて待っていたのだろうか……。もしそこに何らかの意思が関わるのなら、そしてその意思が外的なものなら──ロシュテンは頭を振ってこの考えを打ち消した。そんなことはありえない。ありえてはならない。
けれども。けれどももし、ケオニを、背後で操る人物がいるとしたら。
それが罪ではないのなら。
○●3
彼女には名前があった。とても美しい名前が。
また、彼女には名前があった。とても陳腐でつまらない名前が。
そして、彼女には翼があった。絹のようななだらかな背に、純白の優しい翼があった。彼女はそれで宇を切り裂くことも宙を抱くこともできたのに、彼女はいつでも閉じ込められていて、そうすることが許されなかった。
彼女には、自由がなかった。
「赦さない」
彼女は訳もわからず叫ぶ。
「私から名前を奪ったあの女を赦さない」
彼女は意味もわからず叫ぶ。
「パル、ギッ、タ、おお、パルギッタ、パルギッタ……」
おまえの翼は私のものだ。
おまえの名前は私のものだ。
おまえの地位は私のものだ。
彼女の呪詛を聞いているものはいなかった。地獄の番人でさえも逃げ出すというほどの禍々しい声音で彼女はそれを呪い続ける。自分の名前を持っているあの人を。自分のあるべき地位を持っているあの人を。薄暗い檻の中で彼女は泣き叫ぶ。
天子は私だ!
けれどもそれを聞き遂げるものはここにはいない。彼女のもとには誰もいないのだ。彼女の名前を知っているものは、ここにはひとりとしていないのだ。
外はごうごうと風が唸っていて、彼女の絶叫さえ無情に掻き消していた。それを止める力が今の彼女にはなかった。ここから出られたら、どうにだってできるというのに、彼女はそんなことをひとりごちる。それもこれもあの女が奪っていったせいだ。
「お母さま、お助けください。あなたのパルギッタをどうぞ救ってくださいませ」
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