scene2-3 黒い箱
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……私は耐えられなかったのだ。私のお慕いするあの美しい御方に、あの玉の如き肌に、誰かが触れたのかも知れない、ということが。
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●●1
少女はふっと顔を上げて前を見た。彼女のまだ柔い小さな手には、淡い臙脂色をした精巧な造花が幾本か握られている。造花はみんな少しずつ歪んでいたけれど、少女はむしろ大事そうにそれを持って、近づいてくる大人たちを観察していた。
大人たちは珍しいことに簡単な正装をしているようだ。彼らを包んでいるどこか平生とは異なる雰囲気を、素早く察した少女はしゃんと背筋を伸ばす。そうして彼女はなぜか造花をそっと背後に隠した。彼女自身にもその理由はよくわからない。けれど、もしや大人に取り上げられるのではないかという、言い知れぬ不条理な予感がしたのである。彼女の手は少しだけ震えていた。
そうとは知らぬ大人は彼女を認めて微笑んだ。ひとりが彼女の名を呼んだ。
「おめでとう」
唐突に少女は祝福を受けた。
「今朝、とうとう貴女に大命が降下しました。大切な使命ですよ。心を込めてお仕えしなさい」
「いやまったく素晴らしい。貴女は我が一族の誉れです」
「一体これは何代ぶりの快挙だろうね? 今宵は宴を開かねばなるまいて」
大きな手がいくつも上から降ってきて、次々に少女の頭を撫で回した。赤い蝶結びの髪飾りがとれそうだ。少女には大人の言うことがよくわからないが、どうもみんなが喜んでいるようだから、何かおめでたいことがあったのだろう。
ぱきん。どこからか乾いた音がする。
「……お母さまはどちら?」
「ここにいてよ」
少女は途端にぱっと表情を明るくして、母親のもとに駆け寄った。甘い香水の匂いがする。
「これからはクードゥールの悲願というふうに呼ばれるのかしら」
母親はどこか寂しげに、それでも誇らしげにそう呟いて、彼女の柔らかい髪を撫でた。母娘そっくりの美しい紅髪は、白い指の下でくるんと撥ねる。少女は母親の手をとろうとして造花のことを思い出した。まだ手にはちゃんと感触があるけれど、なんだか先ほどよりはしっかりとしていないような気がする。……いいや、気のせいではなくて、本当にぐにゃりとしている。
着替えておいで、と母親が言った。女中が出てきて少女の肩に触れた。
少女はもう動くことができなくなっていた。きっと造花のことが気づかれてしまうと思ったのだ。そうしたら、……そうしたら造花はどうなるのだろう。少女はどうなってしまうだろう。考えれば考えるほど怖ろしくなり、身体は硬直していってしまうのだった。
どうされました?──罪のない女中の声が少女の耳を貫いた。ぽとりと物体の落ちる音がした。
「まあ!」
「これは今朝わたくしが握らせた……」
「なんという……おい、何度目だ」
「責めるんじゃない」
「しかし、今後のお役目はどうするのです。これをどうにかしなければ」
やっぱり造花は、いや、“造花だったもの”は、大人によって少女のもとから取り上げられる。指の間から破片がばらばらと零れ、花弁はいびつな形をして床に転がった。大人はそれを見て深く息を漏らす。先ほどの祝福に比べたら、ずっと重くて苦しげな呼吸である。少女は表情を歪めた。醜悪ななりをした造花の骸が、じっと押し黙ったまま彼女を見つめている。彼を握殺した少女の柔らかな手のひらはかすかに震え、何の怨み言を言うでもない造花に対し、そこには弁明などないのだった。
女中は手早く造花を片づけ、新しいものを少女に渡した。黄色い百合である。布製の花をそっと握らせながら、まだ若いのに疲労の色を浮かせた顔で、女中は少女を宥めて言った。
「じきに上手くなられますから」
少女は泣きたいのを堪えて頷いた。花が軋んだ。
●●2
法帝による天子拝謁から数日ほど経ったのち、まるでイリュニエールが全快するのを待っていたかのように、新たな冒涜者の活動情報が送られてきた。
ケオニは信仰に反した者たちであるから、当然教会は掃討殲滅を主張している。本来それらの処分は天子の行うことだ。しかし大抵の忙しい天子には、世界中のケオニを一掃するだけの長期に亘る行幸は難しかったし、翼のないパルギッタには尚更だった。何よりパルギッタは先日の討伐における様子から、ケオニを自力で清められない可能性があるとされていた。
冒涜者ケオニは救われない魂である。天子にのみその浄済を行え、その補佐として守護方女にはケオニを殺すことのできる四つの武器、つまり方器が与えられる。それでも殺傷はかりそめの浄済でしかない。本当にケオニをなくすには、天子自らが彼らを許してやるしかないのだ。
パルギッタを連れていこうとは誰も提案しなかった。イリュニエールも流石に焦るのをやめたらしい。そこで問題は方女たちが出かけている間、パルギッタをどこに預けるべきか、という点に終始した。なお天子の面倒を見られるのは女だけという不文律があるために、僧侶の多い大聖堂は即刻却下された。それにパルギッタ自身がいやいやをした。
「フィカタ夫人かキロム聖母院にお預けしましょう」
「夫人だけは絶対に賛成できません。そちらの教会は信頼できますの?」
「天子様を丸三日もあんなみすぼらしい寺院になんてとても耐えられません」
「じゃあクエスナ・トッツォ礼拝堂はどうかしら」
「格式はありますけど今は西に僧院が増築されていて……」
ああだこうだと言い合う方女たちをパルギッタは心配そうに眺めている。四人が無事で帰ってきてくれさえすれば、自分はどこでだって待っていられるのに、とでも言いたげな様子だった。
議論に疲れたようにイリュニエールがぼそぼそと言う。
「いっそのことほうぼうから女中を借りてきましょうか」
「それではどんな田舎娘が来るのかわかったものじゃないわね。少なくともわたくしの実家からは提供できそうになくてよ」
「高貴な方の扱いに慣れている人でなければね……それこそヴォントワース邸みたいなお屋敷で働いているような」
「あら、それでしたらカルセーヌさんのご実家でもいいのでは?」
「いくらなんでもお父様と下男にパルギッタ様の面倒を見させるわけにはいきませんよ」
屈託のないミコラの言葉にカルセーヌは苦笑する。父ビオスネルク伯爵と彼女の母親は諸々の事情からもうずっと離れて生活しており、彼女は母親と一緒に暮らしていたので、彼女の実家には女性の世話に馴れた女中がほぼいない。かといって母親の暮らす別宅ではパルギッタを迎えるのには相応しくない。
「ヴォントワース邸みたいに美しくて格式もある立派なお屋敷なんて、一番区にだってそうそうありませんよね。郊外ですけれど」
一度でいいからあの中を歩いてみたいです、とミコラはかなり率直な意見を述べた。彼女のような邑爵程度の娘には夜会や食事会に招かれる可能性だって殆んどないだろう。尚更ソファイアなどはうんうんと強く頷いた。
北部に広がる森林地帯にはいろいろな楽しみがある。湿地帯、季節ごとにさまざまな色合いを見せるいくつもの花畑、湖水地帯には湖や狩猟区などもあるので、貴族たちはよく郊外に遊びに出かけることがあるのだ。そのたび見掛ける侯爵邸の素晴らしさにはやはり誰しもが憧れを禁じえないのである。中には侯爵邸を眺めるために森まで散歩しようという猛者もいるくらいである。
普段あまり家から出ないイリュニエールでさえもこれには相槌を打っていたところを見ると、どうやら彼女にも森林のほうへ出かける用事があるらしい。
「そのうえあのお屋敷にはロシュテンさんがいるのだから、パルギッタ様はさぞやお喜びになられるでしょうよ」
「うん、わたしそこに行ってみたいなあ」
屈託のないパルギッタの発言に乙女たちは苦笑を隠せなかった。
不文律など気にせずにヴォントワース邸に預けておけるならそれがもっとも安心なのだが、とてもそういうわけにはいかないだろう。それくらいよくわかっているのに、あの美しい邸宅にパルギッタほど似合う者も他にいないだろう、と四人とも思わずにいられない。もちろんパルギッタには知る由もないけれど。
●●3
誰かに呼ばれたような気がして老人は眼を開けた。卓上に威圧的な燭台の火がいつの間にか消えていた。眠ったつもりはなかったのに、窓の向こうで太陽は確かに傾いでいる。
最近いやに眠く感じるのは何故だろう、私も歳かな、と彼は自嘲気味にひとりごちた。
背もたれから身を起し、老人は周囲を見回したが、どこにも人影などない。静寂に包まれた彼の書斎であった。普段から家政婦にさえ許可なく出入りさせていないのだから当然だろう。彼の眠る間に誰かが来たはずもない。やはりあれは気のせいだったのだ。なんとなく聞き覚えのある声だったような気もしたが。
老人が立ち上がって脚を伸ばしていたところ、樫材の扉を叩く音がした。少し遅れて家政婦の声がした。
「旦那さま、お客さまがお見えです」
「妙な時間だな。さてはビオスネルクだろう? ここへ通せ」
「かしこまりました」
家政婦の訂正しない様子からして本当にビオスネルク伯であったらしい。
数分後、重そうな箱を抱えた下男とともに初老の男性が現れた。老人の予想どおり来客はハーシモス・ビオスネルク伯爵である。
「中途半端な時間に悪いね、アッケル」
「きみらしくていいと思うがね。わが友ハーシモス」
伯爵は柔らかい毛織の帽子を脱いで礼儀正しく挨拶し、侯爵もまた同じ形式の言葉を返す。けれども互いにすぐ平生の調子に戻って軽く握手をした。ビオスネルクとヴォントワースとは古くから交流のある家柄であり、彼らもまた若きころより親しい仲である。
いちばん大きな机に箱を慎重に置き、そそくさと書斎から出て行った下男を見て、よくしつけてあるじゃないかとヴォントワース侯は笑った。
「今ごろうちの家政婦と仲良くお茶でもしてるんだろうな。若いのはいいことだ」
「ははは、確かにね。それにしても、私がここへ行くと言ったときのシジの嬉しくそうな表情を、是非きみにも見せてやりたかったよ」
「シジ? おかしな名前だな。拾った子だったかな?」
「そうとも。六番区に立派なシジの木があってね、その根元に捨てられていたんで、シジなのさ」
ビオスネルク伯も笑って返す。
「彼女もそういうあれだろう」
「ミンダか? ああ、以前ラカルゾ自治区に行ったときに人間市場で捨て値にされてるのを引き取った」
「ならだいぶ南だね。なるほど、それで少し訛ってるのか。……でもよく夫人が許したなあ、まだそのころは元気だったろう」
「おいおい死んだ妻の話はよしてくれ」
ロシュテンの母にあたるその妻、リヨネ侯爵夫人はかなり若いうちに亡くなっており、それ以来ヴォントワース侯は一度も後妻を迎えていない。そのためミンダとほかの使用人たちが彼の世話をほとんど請け負っている。
侯の様子をいささか不満そうな面持ちで見てていたビオスネルク伯は、持参した箱の上っ面を指で叩いた。
「本題に入ろうか、アッケル」
箱は木製で、何らかの塗料により全面むらのない漆黒に統一されており、蓋にのみ装飾的な彫刻が施されている。大きさは衣装箱をひとまわり小さくしたくらいで、縦横の差が小さい長方形である。側面を囲うように銀箔で何かの文章が押されているが、言葉も文字もかなり古く、専門の学者でもなければ解読できそうにない。
ヴォントワース侯はまじまじと箱を眺めた。質素な箱には異常なほどの威圧感がある。
かなり悩んで手を蓋にかけたのち、侯爵はそれを早々と断念した。とても開けられるとは思えなかった。どんなに己の位が高かろうと、これは許されないのではないか、と。
「なんだい開けるかと思ったのに」
「試したのか? まったく人が悪いな」
「ふふ、どうだろうね。どのみち開けずとも中身くらいはわかるだろう?」
不思議なことに、銀色の文字は躍っているように見える。
「骨だ」
「当たりといえば当たりだが、外れといえば外れだね」
「いや骨だろう」
「そう思えるのかもしれないけれど、あれは正確には骨じゃあない。せっかくだから見てみたまえ」
「よ……やめろ!」
ヴォントワース侯は蒼白になってビオスネルク伯の腕を掴んだ。しかし伯爵はにっこりと罪のない微笑を浮かべ、震えている侯爵の手を自身の痩せた腕から引き剥がした。そうしてその手を箱の蓋に宛がい、鍵を握らせ、蝶番を横から外し、蓋をゆっくりとずらした。中は二重構造になっているが、伯爵はすぐに内蓋も外した。
箱の中にはなにか白っぽいものがいくつも入っている。
侯は恐る恐る箱を覗き、改めて箱に納められた未知の物体を見た。それらの形状は棘を持つ雫型とでもいうのだろうか。まるでヒトの背骨の一部のようであり、またねずみか何かの頭蓋骨のようでもあり、あるいは特殊な鉱物の結晶体のようにも思える代物だった。どれも少しずつ色が異なるが、すべて淡い乳白色を主としている。
かすかに杏子色を帯びたひとつを恭しく示し、ビオスネルク伯は囁く。彼はヴォントワース侯が呻いているのに気づいていなかったのかもしれない。
「この一番新しいものが、かのシェルジット様のお背中に在った翼核だよ、アッケル」
友ハーシモスのこの一言を、アッケルは恨んだ。
→next scene.




