scene2-2 拝謁
'
『これは信仰という契約である。
大地の者共に広めよ。我が翼を崇めよ。石で社堂を結び、天の属を祀り、万民にこれを仰がせよ』
,
●●1
“それ”を初めて目にした時、彼女は言葉を失った。
“それ”の表す異常な風貌は、彼女にその在ることの罪深さを理解させるには充分すぎるほど、奇怪で乱暴で、無様で悲痛で、禍々しいものだった。瞬きの刹那、彼女はかすかに恐怖したのを自覚した。もちろんその怖れとは、自らが産み落とした子の負った業の深さに、である。けれども叫びたいのを必死で堪え、ほっそりした白い手で口を塞ぎ眼を瞑り、息を殺した。そうして彼女はこの厄禍の火種となったある男のことを反芻していた。
──恐ろしいことを。
彼女は知らず呟いていた。
──吁、なんと恐ろしいことを。
そう言いながら彼女はかすかに嗤っていた。指の間からすべてが零れ落ちてゆくのが彼女にはよくわかった。彼女は嗤う。鈴を振るような優しい声で。彼女は嗤う。地底から伸び上がるような怖ろしい声で。細く伸びた息の音が、ぎりぎりと扁桃腺まで響くような気がした。
「これまでの恩を仇で返したということになりますね」
彼女はしなやかな裸体に綾織りの薄絹を一枚纏っただけの、ほとんどあらわな白玉の肌を前後に揺さぶり、そして背にいただく聖母の証を震わせて、嗤っていた。それは生々しい歓喜であり白々しい幻滅であった。舞い散った羽根があたりの空気を灼く。
──吁々なんと愚かしいことをしてくれた。
『宴ぢゃ、宴の日が来やるぞお』
そのとき彼女に囁きかけるように、どこからともなく聞こえた嬉しそうな言葉は、男とも女ともつかぬ掠れた声をしていた。彼女は頷いて翼を広げた。
●●2
よく晴れた日の昼下がりのことである。
パルギッタは天然の絹をたっぷり使った高級な衣装を纏い、長い髪を高いところで結い、足の爪先まで綺麗に磨き上げられていた。身に付ける布は薄い灰色で統一されている。真珠色の髪は少し卵色ががっているので、この服装だとより一層美しく波うって見えた。あらゆる装飾品には黒金剛石と白金を使っていて、髪飾りに一粒だけ青金石を入れているほかには、色の石は使っていない。
パルギッタを完璧に仕立て上げた乙女達は一様に漆黒の衣装である。もちろん以前ケオニを狩りに行った時のものとは違い、光沢のある生地に銀糸の刺繍がたっぷり施されている。これが方女の礼服なのだ。頭頂の少し下がったところに小さな帽子を留め、まとめた頭髪をその中に収めている。
普段着よりも重い衣服にパルギッタは少々疲れ気味のようだ。乙女達は苦笑して、手袋をしたまま少女の手を牽いた。
それから馬車に乗ってしばらく揺られ、一番区の中心にある大聖堂へと向かう。道行く数多の人々は、馬車から提げられた翼の御標を見て足を止め、礼をして馬車を見送った。中には轍に触れている者もいたが、そういう者は大抵あまり身分が高くないようだ。
大聖堂に到着すると、法帝の臣下達が一列に並んでこれを出迎えた。
「この日をお待ち申し上げておりました……!」
感極まったらしい、一人がそう言って胸に手を当てた。本来なら天子の傍で許しなく口を開いてはならないが、この日だけは特例として聖職者にのみ開言許可が与えられていたのである。馬車の中でこれを聞いたパルギッタに表情はなかった。
額に手を当てる最高礼に包まれた中、パルギッタは薄絹の面沙で顔を覆って入堂した。
聖堂内部は大理石造り、それはそれは壮麗で、この上なく豪奢であった。一際高い壇上の椅子に腰掛け、やっとパルギッタは一息つく。面沙越しに眺める大聖堂はそれでもやはりきらびやかで、特に天井に拡がる一枚の絵画の美しさといったら、しばらくパルギッタも放心してしまったほどだ。
降天図。文字どおり天子の降臨を描いたものである。太古の荒れた人間世界へ天子が舞い降り、いさかいや争いを鎮めて統一せしめ、世界の守り神と相成る物語が、一枚の天井画に詰め込まれていた。絵画の中の天子は、誰かに似ている。
「……か、あ、さま?」
呟いた瞬間、天子が頷いたような気がした。パルギッタは少し慌てたように周囲を見回す。どうやら少女の呟きには誰も気付いていないようだった。
「わかっています」
きちんと全部、覚えています──。
孤独な壇上でパルギッタは独りごちた。絵画の天子は微笑んでいた。
●●3
現法帝トーキス=ワズリガは齢七十近い上臈の男だが、六尺あまりある背丈と屈強な肉体、鋼鉄すら射抜くと言われる鋭い眼光のため、なかなか老いを感じさせない。深紅の帽子と漆黒の法衣に身を包んだ法帝は、思い入るようにゆっくりと歩を進めた。そうしてかの頂に居る、人ならぬ人のことを眼の端で捉え、その目下までゆく。立ち止まって体面を向かわせる。
そうして頭を気持ち低く保ったまま拝顔を請うた。しばらくひそひそと女の話し声がしたのを、方女であろうな、と彼は思った。やがて許諾の声がして、法帝はゆっくりと面を上げる。
見上げた先の天子と目される人物は思ったよりも小さい。いや、幼いとは聞いていたのだが、それでも彼がはっとせずにいられなかったのにはまた別な理由があった。トーキス=ワズリガがまだ伯爵だった頃、彼はエサティカの母娘に会ったことがあるのだ。
──あれから十年も経って、お変わりなくあらせられるとは。
法帝は、その震える胸の内を誰か悟られはしないかと、微かな不安さえ覚えた。なんという無礼だろうと、彼はそうして己を諫めることのできるほど潔い男だった。
「天子におかれましてはご機嫌麗しう……」
こんな言葉は野暮だろうか、とも思った。恥ずかしくなった。
「本日かようにお目にかかれましたこと、真に光栄至極と存じます」
天子からは返答がなかった。ご機嫌を損ねてしまったのかと法帝は気に病んだ。そうして彼はいつの間にか、十年前に見た子どものことを思い返していた。
──あの聡明な方が本当にお戻りくださったのなら、
また上でこそこそと女の声がした。それに対し、天子は頷いているようだった。面沙が揺れる。まだ天子は顔を見せていなかった。
法帝は天顔拝謁を願い出た。天子はこれに応じ、ゆっくりと薄絹を取り払った。
「私はあなたの第一の僕にございます、皎翼陛下」
「……ありがとう」
天子の澄んだ声を耳にした法帝は深く感激し、頭を下げた。それから二人でしばらく言葉を交わしたが、その間天子は柔らかな微笑を浮かべていて、それにうっとりしているだけで時は過ぎ去った。退がる頃には法帝はすっかり話した内容など忘れてしまい、ただあの微笑だけはずっと胸にしまい込んでおくのだった。
思い出す。天子の母君も笑顔の大変お美しい方であらせられた、と。よく似ている娘だった。間違いなく前天子シェルジット=エサティカの娘だと思った。
──本当にお戻りくださったのなら、この澆季近い世も大安となるに相違ない。私の生きているうちに再びそのお顔を拝謁することが叶うとは、なんとありがたい、なんという慶びであろう……!
不安などとうに消えていた。ただ彼は希望にうち震えていた。……けれども。
「ああ、だが」
忘れてはならないことがある。前の天子、シェルジットの犯した罪を。人知れずパルギッタを断翼し、残された民を省みず、娘と出奔した彼女のことを。
あの光満ちた庭園にはパルギッタしかいなかったという話だが、彼女はあそこに娘を置き去りにしたのだろうか。そしてどこかへ消えたというのか。それは身勝手がすぎるというものだろう、彼女は天子で、この人々が彷徨い嘆く世界を守らねばならない身なのだから。それを思うとトーキスは辛かった。
「何がかの御方を惑わせ申し上げたのかは図り知れぬ。だが、今はあの小さな天子の世なのだ」
彼は法帝として、自分の部下達にそう言い聞かせた。
「今度は決してお惑いなさらぬよう、格別の配慮を心がけねばならぬ」
だからきっと、今彼が法帝の地位にあるのは宿命なのだ。トーキスはいっそ感慨深かった。一体これ以上の誉れがあるだろうか。
けれども彼の部下達の一部は、そんな彼を陰で笑った。あんな小さな娘にどんなことができようか、いやはや御大老の思慮深いのにはまったく閉口申し上げる、と。
しかし、その中の一人を除いた全員がある日、何の予兆もないままふつりと姿を消したのは、また別の話である。
●●4
まだ肩口の痛みが取れないイリュニエールは他の乙女達と共に、聖堂へ向かうパルギッタに同行した。礼服が重いので余計に負担をかけたに違いない。証拠に緩やかな鈍痛は増しているし、額にはうっすらと汗をかいていた。眼鏡は曇っている。けれどもイリュニエールの表情はそれまでと比べても微かに明るく、蒼白かった頬には生気がほんのりと差していた。足取りもしっかりしている。
一連の行事を済ませたパルギッタは、まだ眠そうな瞳をしてイリュニエールの元へ駆け寄り、そうしてがばりと抱きついた。乙女たちはすべからく驚いて天子を伺う。とりわけイリュニエールはその場に硬直したまま、おそるおそるパルギッタを見下ろした。相変わらず背にはあるはずの翼はなく、真珠色の御髪だけが淡い光を撒き散らしている。
小さな主はぎゅうとイリュニエールの服に顔を埋め、震えてかすれた声でこう言った。
「イーリ、ごめんなさい……」
「え、あ……の、パルギッタ様、如何なさいました」
「だってこないだイーリ、パルのせいで、けが、したでしょう?」
イリュニエールはそれを聞いて、黙ってパルギッタの手をとると、目線の高さを合わせるために膝をついた。
「よろしいですかパルギッタ様。私たち守護方女の職務には貴女様をお護りすることも含まれております。かけがえのないお方でいらっしゃるからこそ身を張ることも厭わないのです。既に冒涜者が活発化を見せているのですから、今後こういったことは数えられないほど起きると思っていてください。もしかしたら一人いなくなるかも知れないのですよ」
「いなくなる……」
「そうです。怪我で済むのは良いほうです。しかしながら貴女様は時の皎翼天子でいらっしゃる。いちいち方女の怪我などお気に留めていては成せるものも成せません」
「はい」
パルギッタは行儀よく返答して背筋を伸ばした。はじめて光満ちた庭園で出逢ったときより確かに彼女は成長している。身体もそうであるが、少しずつ仕草や表情が落ち着いてきているようなのだ。ずっと見守ってきた方女たちにはそれがとても感慨深い。
「本日こうして猊下に拝謁を許されましたからには、そういったご覚悟を」
他の方女はかすかに心配そうな色を浮かべているけれど、イリュニエールはもう躊躇わない。
だが、乙女は少し頬を赤らめて、眼を伏せる。
「それから、その、……天子様がご心配くださるなど、畏れ多く存じます。そのうえ謝罪だなんてとんでもございません……」
「パル様、イリュニエールは嬉しかったようですよ?」
「わ、私は真剣なんですソファイアさんっ」
その言葉どおりにイリュニエールは真剣になって怒ったけれど、パルギッタをそれを見つめながら押し黙ったままだった。安堵に似た表情の彼女はまるで蝋人形のよう。その周囲だけ時間が止まってしまったかのよう。
帰りましょうか、と誰かが言った。そうですね、と誰かが答えた。
聖堂の裏通りに馬車を呼びつけ、行きと同じように面紗を被ってパルギッタは乗り込んだ。方女たちも天子のあとに続く。ふと外を見回すと、馬車の周辺には聖職者たちが集まって彼女らを見送る準備をしていた。黒い僧服が暗褐色の外壁に溶け込むようで、そのため赤い帽子が背景に浮き上がって見えるのが面白く、パルギッタはじっと彼らの一挙一動を眺めていた。
かららん、と出立を告げる鈴の音。
馬車は滑らかに動き出した。車両の細かな揺れに身を委ね、方女たちは息をつく。やっと休息が取れたようなものだ。ミコラなどは少しうとうとしはじめている。
静けさに飽きたパルギッタが途中、なんとなく馬車の後ろを振り返ると、黒い僧服の集団が遠くで蠢いているのが見えた。
→next scene.