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scene2-1 慈愛の使者

『聞こえるでしょう、翼の胎動が』

『日の出と共に。……さあ、お迎えに参ろうではありませんか』

『我らの手で解放して差し上げるのです』


 翼に自由を。法政転覆を。

 すべて我らの意義は、幸福(しあわせ)は、ただ彼女の翼の下にある。

'


 ●●1


 初老にさしかかった色の立派な口髭を蓄えた紳士が、厳格そうな太く淡い眉を微かに潜めたまま、日向の椅子でこっくりこっくりやっていた。彼のまだ年若い同僚は困ったようにそれを見下ろす。癖であろうか耳の裏を掻き掻き、揺れている紳士の肩を叩く。

 紳士はにわかに眼を開き、ああすまないね、と苦笑した。


「すみません、こちらからお呼びしておいて、お待たせしてしまったようですね」

「いや私が疲れているだけだよ。近頃は気を抜くとすぐこうでね……ふふ、私もそろそろ歳かな」

「ご謙遜を」


 紳士は煙管を拭きながら、青年に向かいの椅子を勧めた。毛皮の張られた柔らかな感触に腰を埋め、青年の紳士を見据える眼は海の色で、透き通っていた。


「……何の用だね、カイゼル君。それともニルヴァー伯と呼ぶべきかね」

「どちらでも構いませんよ。……臨時の貴族議会を召集するのにあなたのお力添えをいただきたいのです。議題は言わずともお解りでしょう?」


 それまで穏やかだった紳士の表情は、微かであるが強張った。

 乾いた目尻を擦り、瓶から延びた銀の匙を引いて、煙管に葉を詰め込む。一連の動作はひどく緩慢だった。顔に落ちかかった影に、定めて落ち着こうとしているのが見てとれた。

 青年は片時も眼を逸らさない。紫煙が昇るのを静かに見つめている。

 三回目に煙を吐き出したあとで、相解った、と紳士は言った。



 ●●2


 パルギッタは何故か朝からうきうきしていた。彼女が上機嫌でいると、それだけで邸内がいつもより明るいような気がしてくる。

 普段忙しくていないことの多いカルセーヌも、今日は珍しく朝からずっと居間で読書していた。パルギッタはその隣でこれまた珍しいことに、真剣に読み書きの稽古に勤しんでいた。羽根筆の音も心なしか軽やかである。

 ミコラは感心しながら紅茶を淹れていた。


「何か良いことでもおありですの?」

「ふえ?」

「あ、今日は随分とご機嫌がよろしいので……」


 ぼやかすようにパルギッタは微笑むと、意味ありげにちらりとソファイアのほうを見た。つられてミコラも巻き髪の乙女を伺う。


「……なんなの?」


 訳がわからずソファイアは呟く。

 パルギッタは楽しそうに肩を震わせて、それからカルセーヌをつついた。今日の監督だったのだ。

 本を脇に置いて添削を始めたカルセーヌは、今まで読書に集中していて、二人の乙女達の間に流れているおかしな空気に気付いていなかった。それで二人がちらちら視線を寄越すのを不審に思ったのだろうか、柳眉を潜めて無作法ですよとたしなめた。パルギッタはそれを見てますます面白そうに身体を揺らす。


「パルギッタ様も姿勢が悪うございますよ」

「ごめんなさーい」


 変と言えば変である。

 乙女達が顔を見合わせたその時、玄関から甲高い鈴の音が聞こえてきた。来客のようである。

 この邸には食事を担当する料理師が一人いる他には使用人がいない。そのため応対に出るのはいつもイリュニエールだったのだが、彼女は療養中なのでミコラとソファイアが交互に代わりをしている。そして今日はミコラの番らしい。


「どなたですか?」


 そう尋ねて扉を開くと、そこには身なりのいい青年が手土産を持って立っていた。

 乙女は彼を知っていた──そもそも知らないはずがなかった。が、あまりにも意外な人物であったので、驚いて声が喉につっかえてしまった。しかし青年はそんな彼女に気付かないのか、人好きのする笑顔を浮かべてこんにちはなどど挨拶してくるのであった。


「パルギッタ様はこちらにいらっしゃいますよね。お約束通りお詫びに伺いました」

「は、はいっ、……あの、」

「なんでしょう」


 いや、なんでしょう、ではなくて。とミコラは思った。

 すると奥からひょっこりソファイアが顔を出し、ああ、と青年を見て苦笑する。


「お久しぶりですわね」

「遅くなってしまって申し訳ない。パルギッタ様はお元気ですか?」

「それはもう。そうだわ、立ち話もなんですからちょっとお上がりくださいな」


 これには慌ててミコラが追求に入る。


「待ってくださいソファイア、一体どういうことなんですの」

「……あー、カルセーヌさんとあなたにはあとできちんと説明するわよ。お坊ちゃまにお茶をお出ししてくださる? 一番いいのでお願い」

「一番って……じゃあやっぱりこのお方は、」


 同じ貴族でも、第一等級の家柄の者と次点ではやはり大きな差がある。貴族議会においては一定以上の位が重要な役職を占め、決まった家にのみ招集する権利があり、家ごとに持ちうる票数も違う。位を決定付けるのはその財であり法帝への忠誠であり、それに伴う功労である。

 爵位は公・侯・伯・邑・子・男の六等あるが、公位に当たる役職は法帝のみである。そして侯位にあるのは今のところヴォントワース侯ただ一人であり、貴族議会の議長という重要な役職に就いているため、これまで法帝は伯位の貴族達に歴任されてきた。そうしてたぶん、これからも。

 伯位を貰えば第一貴族と認められる。各々の位は子々孫々へ受け継がれていく。その代わり法帝庁(クルトナム)に一定の税を納め続けなければならない──これを爵帛という。字を見ても分かるように、かつては布で納められていたが、近年では専ら金納である。これが途切れたり一定の額に満たなくなれば、その爵位を奪われるか下げられるかしてしまうのだ。

 家の内では家督を争い、家の外では家位を奪い合う。その渦中で乙女達は、その利用され易い──例えば政略結婚、養子縁組などで──立場故に、強かで気高くあるように育てられてきた。


「僕はロシュテン・ヨエルク=ヴォントワースと申します。あなたはフィッケンベレン邑爵の御令嬢ですよね?」

「あ、はい。ミコラ・ダーチェル=フィッケンベレンですわ」


 彼女の父ユリヒ・エイムナンド=フィッケンベレン邑爵はビオスネルク伯の部下である。管弦楽に優れており、『笛吹きユッツ』と呼ばれ親しまれている。

 ミコラは軽く一礼してその場を離れ、勝手口のほうへ回った。

 一方、上等の客間に通されたロシュテンの耳には小さな足音が聞こえていた。彼の表情は柔らかく緩み、卓に置いた手土産を確かめたのち、さっと姿勢を正した。足音はすぐそこまで迫っている。

 古めかしい銀色の取っ手がくるりと回転した。


「ふきゃああロッテ!」

「ご無沙汰しております」


 扉を開けるなりパルギッタは歓声のようなものを上げた。その後ろにいたカルセーヌもまた、あっと小さく驚きの声を漏らす。


「ロシュテンさんでしたか。お久し振り……ですが、貴方はパルギッタ様とお会いしたことがありましたかしら」

「はい。それが少々予期せぬ形でして、無礼を働いてしまいましたので、今日こうしてお詫びに参りました」

「まあ、貴方のような真面目な方でもそういうことがありますの?」


 カルセーヌは微笑んでいたが、眼はちっとも笑っていなかった。

 そこへミコラが木製の盆に茶器を載せて持ってきた。ソファイアの言いつけ通り、その金箔打ちの商標はどうやら最高級の茶葉と茶菓子のようである。それはたぶん、もともとはパルギッタのために購入された代物であろう。

 ご機嫌な天子はちゃっかりロシュテンの隣に座った。それに小さく苦笑して、ミコラは彼女の向かいに腰を下ろす。その両脇は、ロシュテンの向かいにカルセーヌ、反対側にソファイア、となっている。この並びは階級順でもある。

 ソファイアはことの顛末をきちんとカルセーヌに説明した上で、勝手な判断によって速やかに報告しなかったことに対する反省を述べた。

 天子は法帝をも凌ぐ最高権威であり、信仰の要である。その身に何かあっては世界の存亡に関わるとも言われている。いくらロシュテンが第一貴族の嫡子であろうと、天子に対して尾行するなどという非礼は到底許されたものではなく、一人の守護方女、それもたかだか子位の娘の一存などもっての他。今回はまだパルギッタ直々の恩赦があったのでいいが、本来ならば軽度の逆罪を問われる事件だったろう。あまつさえ報告しなかったとなれば守護方女としての任務不履行ともなる。


「考えが浅かったと存じております。……あんまり近くにおいでだったので、パルギッタ様が雲の上のお方であることを失念していました」

「そうでしょうね。あなたはしっかりしているから私も安心しきっていたけれども、そういう気の弛みがいずれは惨事に繋がるのです。ロシュテンさん、あなたもご自分の立場をきちんと弁えていただかなくてはいけませんよ。侯の子息ともあろう方が、こともあろうに天子様の後を尾けるとは何ごとですか」

「全く、仰るとおりです」


 カルセーヌはひととおり叱りつけたあと、パルギッタを一瞥した。


「……パルギッタ様の御身も無事ですし、お許し下さったそうですから、今回は上に報告しないでおきましょう。次はどうであれ必ず報告しますが」

「あ、ありがとうございます」

「お礼ならパルギッタ様に申し上げなさいな」


 慈悲深いお方で助かりましたね、と少し皮肉めいた口ぶりでカルセーヌは続けた。パルギッタは説教の間ずっと心配そうにロシュテンを見つめていたのである。責任感の強いカルセーヌにしてみれば、そのいじましい姿につい甘い対応をとってしまった彼女自身に、微かな苛立ちを覚えずにはいられなかったのであろう。

 ソファイアはパルギッタに向かい、今一度、深く頭を下げた。


「……それで、どうしてそのような真似をなさったのか、お訊きしても?」


 急に口を開いたのは、それまで静かに紅茶を汲んでいたミコラであった。ソファイアはぱっと顔を上げて乙女を見遣る。それはいつぞや彼女が訊けずじまいだったことだ。


「いえその、特別な理由は……しいて申しますと、この真珠色の御髪に惹かれたような心地でした」

「まあ。そういうことでしたら、多少は仕方ないのかもしれませんね」

「ちょっと、ミコラ」

「あっ、……すみません」


 ミコラは謝りながらパルギッタを一瞥した。やはりその髪は、誰しも惚れ惚れしてしまうほど、美しい真珠色をしている。

 そうだ、これはお詫びの品です、と言ってロシュテンは卓上の箱を指した。開けてもいいの、というパルギッタの言に青年は頷く。


「もちろん。どうぞ」

「わ、ねえこれなあに? お菓子?」

「はい。お口に合うといいのですが……あの花屋の二軒隣にある店のものです」

「食べていい?」

「少々お待ちください、わたくしが味見しますからね」


 流石に何の確認もしないままパルギッタに食べさせる訳にもいかないのである。ロシュテンがいる手前、『毒見』とは言わなかったが。

 ふっくらした鳶色の焼き菓子は小ぶりの丸型をしている。乳白色の滑らかなクリームを、外側がさくさくしていて内側が卵色のふんわりした生地で挟み、少し粉砂糖をまぶした、品のよい菓子である。

 こうした菓子類はなべて女性に好まれる傾向にあるが、ソファイアも例に漏れず甘いもの好きで、優しい生地の歯触りと滑らかなクリームの調和に舌鼓を打った。それを見た他の乙女、そして天子の少女も菓子に手を伸ばす。結果は一様に好評のようであった。それを眺めるロシュテンは、どこか幸せそうな笑みを浮かべている。

 お気に召されたようで何よりです、と言った彼は、この日で一番優しい表情をした。

 それからしばらく、カルセーヌとロシュテンは事務的な話をしていた。会議が開かれるだの、ニルヴァー伯がどうのといった、パルギッタにはなんら関係のなさそうなつまらない話である。暇に思ったパルギッタは始終ぼんやりとロシュテンの顔を眺めていた。──すると急に青年が自分のほうを向いたので、少女は驚いて口を真一文字に引き結んだ。


「これは人づてに伺った話なのですが、猊下が天子に御目通り願いたいと申し上げられたとか。パルギッタ様のご了承がいただけるようでしたらお伝えしようと思うのですが……」


 猊下。それは政の頂に立つ者、法帝の敬称である。生々しいその発言に乙女達はどきりと胸を震わせた。

 パルギッタは名目上、現天子ということになっている。しかし事実上の天子ではない。少女は天子としての役目を全うするには余りに身体や精神が幼いし、何より翼がないのだから。もし翼を取り戻したときに、彼女の抱くそれが純白でなかったら、その時点で天子という位は剥奪されることとなる。そうして他のエサティカ一族から皎翼を持った娘が生まれるのを待つ他ない。エサティカは女子しか生まれない一族である。

 もともと乙女達の役目は冒涜者(ケオニ)討伐ではなく、あらゆる面での天子の補佐であった。そして今はパルギッタが成熟するまでの世話役を担っているのである。彼女らが最初に打ち立てた方針、それは幼い天子の健全かつ高潔な育成であり、パルギッタが紛うことなく天子であると証明されるその日まで、天子という重荷から遠ざけるというものであった。

 法帝が天子に目通る。それは皎翼のエサティカが、天子として迎える最初の行事なのだ。


「どうされますか?」


 今、エサティカには純白の翼がいない。ただ一人、翼持たぬパルギッタだけがその可能性を帯びている。何よりパルギッタの翼が純白であったとの記録はきちんと残っているのである。

 ──歳を経て翼の色が変わった、という報告は未だない。

 視線がパルギッタに突き刺さる。見た限りまだ幼い、そうして精神も容姿に引き摺られた状態の少女は、しばらく考えてから紅梅の花弁に似たくちびるを開いた。


「あってもいいよ」


 それを聞いた誰かが不意に、嗚呼、と小さく声を漏らした。




→next scene.

'


嘘つきました。まだ受験終わってないです。←

しかし「読みたい」というお言葉をいただけて自重する気も失せました。よっ読みたいなんて言われたら、こっちも書きたいってもんですよね……ええ……


しかし更新できてないにも関わらずの1000打ありがとうございます。縁起の良さそうな数字を胸になんとか進路決めてきます。


 曼珠沙華 拝.

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