第三章 Fallen Angel 16
(逃げろって、どこに逃げればいいのよ。誰にも頼るなって言ったのは、あんた達じゃない。どこに逃げ場があるって言うのよ。誰が助けてくれるのよ)
愛美は歩道橋の前で一旦足を止めると、荒い呼吸を整えた。横腹が痛い。愛美は、膝に手をついて肩を大きく上下させていたが、一つ大きく息を吐くと階段を駆け上がった。
交差陸橋の上で愛美は暫く俊巡した後、とにかく学校から離れたい一心で駆け出した。
愛美は、50m走では7秒前半の記録を持っている。走るのもまあ早いし、持久力もあるが、全力疾走などそう長くできるものではない。
階段を降りきる手前で、膝がガクンと抜けた。滑るようにして舗道に叩きつけられる。
(逃げたって、どうにもならないのに)
瑞穂によって学校内に張られた結界は、愛美を阻むことはなかった。校門の外に出た途端、空気中の引き締まった感触が消えたので、結界を抜けたことが分かったのだ。
多分、学校から2㎞近くは離れているだろう。いつも向かう駅とは反対方向に走った為、愛美は今自分がどこにいるのか分からなかった。
「大丈夫か、君。もうとっくに一時間目が始まってる時間じゃないのか? 手に持っているのは何だね。それに頬にあるのは、怪我?」
そう声を掛けてきたのは、制帽をかぶった制服警官だった。
(助けて)
愛美はその警官に救いを求めることを考えたが、すぐに気を変えた。
(この人に何ができるのだろう。酔っぱらいの喧嘩の仲裁に入ったり、中高生を補導することはできても、私を助けてくれることはできない)
巻き込まれてまた人死にが出るだけだ。
愛美は警察官の制止を振りきって、再び走り出した。膝小僧からは、血が出ている。
暫く警官は愛美を追ってきたが、やがて諦めたのか足音が消えた。
愛美は足を緩める。路地を曲がると、そこは行き止まりだった。灰色のビルの壁が目の前に聳えている。
愛美は、疲れきってクタクタとその場に座り込んだ。
――何ジャ、ダラシノナイ
耳許に、獣臭い息がかかる。
「右近」
愛美は山犬神の名を叫ぶと、右近の首にひしと抱き付いた。
――何ヲスル。儂ヲ、山ノ神ト知ッテノ狼藉カ
愛美は安心して、涙が出そうになった。愛美が右近の首に頬を押しつけていると、山犬神は更に狼狽して意味不明の言葉を口走った。
右近は威厳も何もない狼狽ぶりで、愛美の腕の中でもがいた。シャンプーの匂いのするクラディスとは違って、右近は日光を浴びた干し草のような乾いた匂いがした。




