第二章 March of Ghost 33
那鬼は、床に蹲っている瑞穂を、愛情の破片もない乱雑さで抱き寄せた。有無を言わさず那鬼に唇を奪われた瑞穂は、那鬼の顔から目を背け、可愛そうな人と呟いた。
那鬼の顔色が変わる。しかし那鬼はもう手を上げるような真似はせず、瑞穂を乱暴に突き飛ばすと、帰れと言った。
瑞穂は黙って衣服を整えると、足早に天狼を連れて玄関に向かった。
「ここには、もう二度と来るな。大和に伝えておけ。後一週間期限をやる。後一週間で夜久野の孫から〈明星〉を取り戻せ。山犬神に守られていて近付けないなどと言う、言い訳は聞き飽きた。所詮物の怪。倒せぬことはない」
那鬼の冷酷な声を聞きながら、瑞穂は逃げるように部屋を出た。
あの那鬼相手に我ながら偉そうな口を利いたものだと、瑞穂は今更になって恐くなった。
口中一杯に、血の味がする。頬を殴られて口の中が切れてしまったが、それだけで済んで良かったと言える。
頼まれたって二度と来るものかと瑞穂は思ったが、そんな気持ちとは裏腹に那鬼を哀れだと感じる自分に気付くのだった。
夕闇の中、那鬼が見ていた街路樹を瑞穂は見上げた。梢に止まる鴉の姿は下からは見えなかったが、辺りを威圧するような気配だけは感じられた。
天狼は落ち着かなげに、瑞穂の側を歩き回ってみたり腰を下ろしてみたりしている。
那鬼もマンションの部屋から、鴉の様子を伺っているのだろうか。死んだと思われていた夜久野の孫が、生きていたことを知ってからの那鬼の様子はおかしかった。
四六時中鴉に監視されていることも、起因しているようだ。鴉についてこんな言葉を那鬼が洩らすのを、瑞穂は聞いたことがある。
『十年前の亡霊が、俺を憑り殺す為に舞い戻って来やがった』
「孤独な人。可愛そうに。亡霊に取り憑かれているのは、あなたの方だわ」
瑞穂は、天狼に声を掛けるとその場を離れた。
那鬼はカーテンの隙間から、夜の闇に紛れて見えなくなった少女と犬から目を逸らした。
街路樹から一匹の鴉が、那鬼を嘲笑うかのように飛び立ち、ベランダの手摺りに止まった。那鬼は手にしていた缶ビールを呷り、窓を背にしてズルズルと床に座り込んだ。
「あんたは暇らしいが、俺は上月を大きくする為に忙しいんだ。足掻いても無駄だぜ。あんたの時代は終わったんだよ」
鴉が、抗議するかのように短くグエッと鳴いた。那鬼は疲れた顔をしながらも、乾いた笑い声を上げた。
引き攣った那鬼の狂ったような笑い声が、彼一人の孤独な部屋に響き渡る。




