第二章 March of Ghost 32
「そんなにあの鴉が気になるの?」
カーテンの隙間から、眼下の街路樹に潜む黒い鳥を眺めていた男はビクリと肩を震わせて、後ろを振り返った。
薄暗い室内に、ブルーデニムと男物のぶかぶかのダンガリーシャツを着た髪の短い少女が立っていた。少女を守るかのように、その隣に前足が一本しかない犬がつき従っている。
「私の気配にも気付かないなんて、よっぽどね。電気ぐらいつけたら」
腰に手を当てて胸を反らしている少女の横を、男は無言で通り過ぎ、壁の明かりのスイッチを押した。
「俺の部屋に、そんな汚らしいものは入れるなと言っただろうが」
吐き捨てるように言った男の言葉には、強い憎悪がこもっている。少女は一瞬怯えたような表情を見せたが、唇を噛んでいっそう強硬な態度をとった。
「天狼は私の大事な仲間よ。いつも一緒だわ。突然呼びつけられて、私はわざわざ来てあげたのよ」
男の右手が、少女の頬の上で弾けた。バシィッと容赦ない音が響き、少女はフローリングの床に転がった。
天狼と呼ばれた片足の犬は、少女の側に駆け寄ると、低く唸って男に牙を剥いた。しかし男がひと睨みしただけで、犬は尻尾を巻いて壁際に跳んで逃げた。
「瑞穂。貴様、いつからそんな口が利けるようになった」
男はキッチンに向かうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一息に飲み干した。片手で缶をぐしゃりと握り潰すと、再び冷蔵庫を開けてビールを取り出した。
「新しい式神なら、与えると言っただろう。そんな死に損ないを連れているから、いつまでたっても〈明星〉を取り戻すことすらできないんだ」
男はソファに座ると、今度は味わうようにビールを飲み始めた。しかし、男には余裕が感じられなかった。濃い疲労の影が、男を老け込ませている。
「那鬼様、お聞かせ願えないでしょうか?」
瑞穂の口調にはこれっぽっちも、尊敬の念など込められていないが、那鬼は咎め立てする気力もないらしく軽く頷いただけだった。
「あなたは一体、何者なんですか。上月家とどのような繋がりがあるんですか。それに、なぜそこまで夜久野にこだわるの? あの鴉に怯える理由は何?」
矢継ぎ早に出された質問のどれにも、那鬼は答える気はないようだった。しかし那鬼は黙ってビールを飲みながらも、決して窓の方だけは見なかった。
「お前と大和の両親が死んだのは、誰の所為だ。施設からお前達を引き取ってくれた養母を殺したのは誰だ?」
那鬼は、瑞穂の問いかけを問いかけで返した。瑞穂は下を向いたまま、唇を噛み締めて呟いた。
「夜久野です」
「分かっているなら、それでいい。お前は余計なことには首を突っ込まず、黙って俺の命令に従え」




