第一章 Welcome to my nightmare 4
退屈な午後の授業。
数学教師の黒板に書きつける数字の羅列から目を背らし、近藤愛美はぼんやりと空を見た。
台風でも近付いているのだろうか。黒く垂れ込めた曇り空から、今にも雨が降り出しそうな気配だった。後ろから二番目の窓際の席で、外を眺め続ける愛美には、教師の説く公式も、頭の中を素通りしていくだけだ。
三崎高校の二階にある一年B組の教室は、いつもと変わらないつまらない授業時間の一つに過ぎなかった。そう。誰もがそれを信じて疑わなかった。あの瞬間までは・・・
授業開始から二十分。それは本当に突然だった。
ドンと言う鈍い衝撃音がして、その次の瞬間、教室中の窓が一度に全部砕け散った。粉々になった硝子の破片が、光を乱反射させながら降り注ぐ。まるで映画の一コマを、スローモーションで見ているかのようだった。
全てが緩慢で、妙に現実感がない。
みんな怯えた表情で、何か口々に叫んでいるようだが、何も聞こえない。
音と言うものが、ないのだ。
ああ、やはりこれは映画だと愛美は思った。
昔の古い無声映画なのだ。弛緩した脳でぼんやりと、愛美はその光景を眺めていた。
不意に頭上で何かが弾ける音がして、その瞬間全ての音が戻った。
悲鳴・怒号・恐怖。
これは、映画なんかじゃない、現実なんだ。パラパラと螢光灯の破片が愛美の上に落ちてくる。頭を両腕で庇いながら、愛美の頭は、ようやく思考を始めた。一体何が起きたのだ? 何が・・・
しかしそれは、あの悪夢のほんの序章に過ぎなかった。
(今のは何? ガス爆発なんかじゃないよね?)
愛美の目の端に、何か黒いものが映る。それを確かめるより先に、割れた窓から黒い影が、幾つも教室の中に飛び込んできた。
犬? 犬じゃない。何だかそれは、生きているものという感じがしない。二つの目玉が、赤く不気味に燃えている。全部で五頭。肋骨が数えられる程に、痩せ細った獣達はしかし、決して弱っているふうではない。
(飢えた狼・・・)
愛美の脳裏に、ふとそんな言葉が浮かんだ。突然の闖入者に、いつの間にか教室内の喧騒は収まっている。いや違う、みんなが見ているのは、その犬達ではない?
「この教室から出ることは許さぬ。もし一歩でも出れば、私の可愛い使役神どもが、容赦なくお前達を始末する、覚えておけ」
窓枠の上に、ぴったりとした黒い服に身を包んだ少女が立っている。ここは二階、一体いつの間に・・・・と言うより、どうやってそんな所に上がったのか。少女は、愛美達と同年代ぐらいに見えるが、眉の上で切り揃えられた、前髪の下から覗く目は、驚く程冷ややかだ。
「お前ら全員、人質だ。あんまり騒ぐと・・・」
少女は、そこから先は言わなくても分かるだろう、と言うようにそこで言葉を切ると、教室中を眺め渡した。
少女の視線が、ある一人の生徒の上で止まる。
「貴様が、夜久野真名だな」
少女は、愛美の目をしっかりと見つめたまま、身軽に床に降り立った。
「単刀直入に聞く。〈明星〉は何処にある。隠し立てすると、為にならぬぞ。貴様のクラスメイトを一人ずつ、イヌの餌にしてやる」
「〈明星〉は何処にある?」
愛美に向けて、ショートカットの美少女が重ねて訊いた。
(やくの? あけぼし? 何を言ってるの、この人は)
答えようとしない愛美に、少女は苛立たし気に眉を顰める。
「教える気はない・・・か。夜久野の人間にとっては、他人の命などとるに足らぬものと見える。それならばいっそ、ここで一戦交えるか?」
少女は相変わらず愛美を見つめていたが、それをヒステリックな叫び声が中断させた。
「あなた、さっきから一体何なの。人質だの犬の餌にするだの。頭が、おかしいんじゃない。このクラスに、夜久野真名なんて生徒はいません。それ以上馬鹿な事を言ってみなさい。警察を呼びますからね」
黒板を背にした、教師の三宅が少女を睨んでいる。少女に向けて突き出した指がわなわなと震えている。少女はそれを見ると、堪えきれずに笑い出した。青かった教師の顔に、怒りの為か屈辱からか、ぱっと朱が差す。
「な・・・何がおかしいの!」
少女は一頻り笑うと、真面目な顔に戻り、
「警察は何もできない」
と、見下したようにそれだけ言って、再び愛美の方に向き直った。
「夜久野真名・・・。確か今は、近藤愛美と名乗っているのだったな。貴様の持つ〈明星〉は、元々我らの〈残月〉の対となる物。さあ、返してもらおうか。貴様などに扱える代物ではあるまいて」
(どうして、私の名前を?)
愛美は、自分の名が呼ばれた時、心臓が強く脈打つのを感じた。
「わ・・・私には何のことだか・・・」
「まだ、白を切るつもりか!」
愛美の台詞に少女は激昂した。目を見開いて両手を組むと、口中で何かを呟いた。
「殺れ」