第一章 Welcome to my nightmare 38
愛美は、路地に作られた九階に行く専用のエレベーターのボタンを押す。白く磨き抜かれたフロアに降りると、扉の前に立った。もう、引き返せない。
この前来た時、紫苑が扉に鍵は掛かっていないと言っていたが、愛美はインターホンに向かう。暫くして応答があった。
「はい」
低く囁くような甘い声、あの男に違いない。愛美は少し躊躇った後、近藤ですと名乗った。この名前を使うのもこれが最後になるかも知れない。
「待っていたんだ、入りなさい」
愛美はそれから数分後、あの日と同じように彼の部屋のソファに座っていた。綾瀬はこの前とは違う三つ揃いのスーツに、アスコット・タイを締めている。そして、やはり濃い色の黒眼鏡をかけていた。
相変わらず高価そうな物ばかり、身につけている。だが、革張りの回転椅子に腰掛けている綾瀬の側には、犬のクラディスの姿はなかった。
この前見た時の様子では、何があっても、ご主人様の側から離れないぞと言う気配を、全身から発散させていたのに。
(どうしたのだろう)
愛美がぼんやりそんなことを考えていると、綾瀬がその解答をくれた。
「悪いが、今日は飲み物は出せない。西川の奴が、巴と一緒にクラディスを、トリミングに連れて行っているからな」
成程、つまり・・・本当に二人っきりと言うことか。東大寺少年について来てもらえば良かったと、愛美はほんの少し思った。それにしても、
「西川・・・? トモエ?」
愛美の呟きに綾瀬が、ああ。と笑った。
「西川は私の秘書で。巴はうちのメンバーだ。それよりも、いいのか? 十二時までには随分あるが・・・」
綾瀬はそう言いながら、シガレット・ケースから煙草を一本抜き出した。慣れた手付きで、ジッポで火をつける。
「一つ教えて欲しいことがあるんです」
愛美の言葉に、男は紫煙をくゆらせながら顔を上げた。
「何なりと、お嬢さん。答えを聞くのはその後でいい」
「私の両親を、友人を奪った者が誰なのか、その人達の狙いが何なのか。教えて欲しいんです」
復讐でもする気かと、綾瀬は乾いた笑い声を上げた。愛美が何も言わずに綾瀬を見つめていると、彼はおもむろに話をきり出した。
「古来、日本には陰陽道と呼ばれるものがあった。中国の陰陽五行説に、日本の土俗信仰がプラスされたものだ。陰陽道は日本の根幹を支えてきたものの、決して歴史の表舞台に出ることはなかった。多くの陰陽師達は、その存在さえ知られていない。何故か分かるか? 禁忌なのさ。陰陽師と言うのは、この国の言わば影だ。そしてその陰陽師の中で、一番の勢力を誇っていたのが上月家と夜久野家だった」
「土御門家と賀茂家じゃないんですか」
愛美が口を挟むと、綾瀬は苛立たし気に煙草の灰を灰皿の中に落とした。黙って聞けと言うことらしい。ちなみに土御門家は平安の大陰陽師阿倍晴明を始祖とし、賀茂家はその晴明の師匠筋にあたる。どちらも歴史上のお話だ。




