第一章 Welcome to my nightmare 26
兄はそれを笑って見ている。だがそれは明らかに無理があり、瑞穂は胸が痛んだ。きっとまた何か、あの男に言われたに違いない。幾ら生活の面倒を見ているからと言って、彼女ら兄妹を物のように扱うあの男が、瑞穂は我慢がならなかった。
兄の大和は、今度はストローの上の部分を曲げたり伸ばしたりしている。考えごとをしている時はいつもこうだ。よっぽど那鬼に、嫌なことを言われたらしい。
だが瑞穂の思惑と違い、大和は全く別のことを思っていた。
誰かが大和を責め立てる。
『あの子は、何と言われようと私達の娘だ』
『お姉ちゃんを悪く言うな!』
大和はその声を聞くまいとするが、その声は大和自身の心の中から聞こえてくる。
(なぜそんな目で俺を見る。どうして俺を責める)
声は彼を責め続け、大和はついに観念して目を閉じた。
『近藤のおじさんじゃないですか!』
男はその声に振り返ると、誰だったか思い出そうとするかのように小首を傾げた。知人だった時の為にお愛想の笑みを、うっすらと口元に漂わせている。灰色のスーツに身を包み、いかにも働き盛りのサラリーマンと言った感じだ。中年に差しかかっているものの、今でも十二分な魅力を持っている。
『覚えてらっしゃいませんか』
大和はそう言いながら、男に近付く。覚えているも何も、こうして会うのは今日が初めてだ。
『僕ですよ』
そう言って大和は男の額に、呪符で軽く触れた。男の目がどんよりと濁る。
『ああ、君か。どうだいお茶でも飲まないか』
男は、捉えどころのない眼差しで大和を見た。これでいい。
『ええ。僕が奢りますよ』
そう言って、大和は一人小さくほくそ笑んだ。
それから数時間後。大和は土足のままで、リビングに上がり込んでいる。こじんまりとして、掃除の行き届いた気持ちのいい家だ。男とその家族の、幸せを象徴するかのような家だった。
『思い出したかい。あなたの娘が何者か?』
大和は乱暴に、男の顎を掴み上を向かせた。よれよれになったワイシャツに、血が飛び散っている。男は憎々しげに大和を睨んだ。
『娘は娘だ。昔のことなど関係ない』
強情な男だ。大和は苛立ちを隠せず、舌打ちをした。この男の暗示を解くのに、かなりの時と労力を費やした。瑞穂との約束の時間に、もうあまり時間がない。
大和は、自分の力の足りなさに歯噛みしたい思いだった。
十年。言葉にすればたったの二文字だが、その実途方もなく長い時間だ。その長い年月、かけられた暗示が効力を失わずにいたなど驚嘆に値する。もし大和が暗示を解かなければ、この男は死ぬまで赤の他人を、自分の娘と信じて疑うことはなかったに違いない。
『お前も、あの女のように死にたいのか』




