第一章 Welcome to my nightmare 1
学生にとって、学校生活の中のメインイベントと言えば夏休みである。
しかし、楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るもので、二学期が始まって既に二週間を迎えようとしていた。朝夕は大分過ごし易くなったとは言え、まだまだ残暑は厳しく、日中はかなり気温が上がる。
但し、今日の空模様は、生憎の曇り空だった。網戸にして開け放したままの窓から入ってくる風が、冷たく感じられる。少女は無意識の内に、身体に布団を巻きつけた。ふと、その規則的な寝息が途切れ、夜具の中からそこだけが出ていた目が、ぼんやりと見開かれた。
少女は、頭をゆっくりと反転させ、枕元の時計にまだ焦点の合っていない目を向けた。時計の針は、七時三十五分過ぎを指している。少女は暫く身動ぎもせずにそれを眺めていたが、
「やだ、遅刻!」
一声叫ぶと、ベッドから飛び起きた。少女の名前は、近藤愛美と言う。公立三崎高等学校の一年生で、十六歳になる。
三崎高校は、公立校には珍しく制服が可愛いことで有名だが、七十年近い歴史を持つ県内でも有数の進学校でもあった。少女は、セーラー服に着替えを済ませると、鞄を掴んで派手な音を立てながら階下のダイニングへと下りてゆく。
愛美は、ドアを開いて駆け込むなり、台所にいた母親の背中に言葉を投げつけた。
「もう、お母さん。どうして起こしてくれなかったのよ!」
「あら、起こしたわよ。そのまま寝ちゃったのはあなたでしょう」
ゆっくり振り向いた母親は、文句を言われるのは如何にも心外だと言う感じで、顔をしかめて見せた。
元来、一人っ子でのんびりと育った所為か、何事につけても母親は、おっとりとしている。まあ、それが良くもあり悪くもありだが・・・。
愛美は、テーブルの上で冷めてしまったトーストを一枚口に入れて、牛乳で流し込んだ。勿論、立ったままで。
「女の子なんだから、もうちょっとお行儀よくしたら」
母の小言を聞き流し、愛美はそのまま鞄を手に洗面所へ走る。と廊下で、パジャマ姿の弟とぶつかりそうになった。愛美の家の家族構成は、父と母そして弟の剛を合わせた四人だ。
父親は、家から一時間以上もかかる会社に勤めている為、家には当然その姿はもうない。
「姉ちゃん、寝坊してやがんの。相変わらずとろいんだから」
最近、急に身長も態度もデカくなった! 二つ年下の弟は、今は中学の二年生だ。母親に似て色が白いが、今朝はその頬に少し赤みがさしていた。
「何よ、あんた、また熱出した訳?」
弟は剛とは名ばかりで、小さい頃から病気ばかりしている。最近は、滅多に寝込まなくなったが、やはり季節の変わり目になると駄目らしい。母は母で、子離れが出来ていない為、熱があるとなればすぐに学校を休ませたりする。まあ、後で寝込まれることを考えれば、それも妥当かも知れない。
親離れ、子離れ出来ていないのも困りものだ。愛美は、自分も母親に依存していることは、すっかり棚に上げてそう思った。
「どうせ窓でも、開けっ放しにしてたんでしょう」
愛美はそう言いながら、弟の柔らかい前髪を掻き上げて、額に手を当てた。七度ちょっと、と言ったところか。まあ、この分なら大丈夫だろう。
「やめろよ。俺は姉ちゃんと違ってデリケートなの」
姉の手を乱暴に振り払って、剛は背を向けた。せっかく人が心配してやっているのに、生意気になって、まあ・・・。愛美は怒りを込めて、行き過ぎた弟の後頭部に、一発お見舞いしてやった。
「どうせ私は、丈夫なだけが取り柄よ」
「痛いなあ・・・。そんなのだから彼氏の一人も出来ないんだぞ」
愛美は、ムッとしつつも、今はそれどころではないと思い直す。愛美は、後で覚えてなさいと、胸の内で毒突いた。
洗面所に駆け込む姉の後ろ姿を、剛は少し照れ臭そうな顔で、振り返った。微妙な年頃なのだろう。
愛美は当然そんなことには気付かず、ロスした時間をとり戻そうと必死だった。鏡に向かい、肩下まで伸びた髪を頭の高い位置で一つに括る。ポニーテールは、愛美のトレードマークだ。
人(特に男子)に引っ張られ易いという難点があるにはあるが。自分で言うのも何だが、そんなに顔は悪くない・・・と思う。彼氏だってすぐにできるさ! 愛美は、鏡の中に向かって頷いて見せる。
「あっ、やばい!」
気が付けば七時四十五分ジャスト。いつも乗る電車は七時四十九分発、これはかなり厳しい状況だ。鏡の前で馬鹿なことをやっている場合ではなかった。愛美は玄関に走りローファーに足を突っ込むと、そのまま外へと飛び出した。
「お弁当!」
追いかけてきた母親を振り返りもせずに、愛美はダッシュをかけた。
「購買で買うからいいっ!」
愛美は、足には少し自信がある。だが、必死で走ったところで間に合うかどうか。
母親は角を曲がりつつある小さく見える娘と、右手にぶら下げたお弁当の袋を交互に見て、溜め息を吐いた。
「やだわ。カレーの残りとお弁当の両方、食べたら太っちゃうわ」
玄関のノブに手をかけ、ふと母親は空を見上げた。
「あの子、傘持ってたかしら」
遥か高みでは、黒い雲が矢のように流れている。
母親は、半袖のブラウスから出た剥き出しの腕を抱くようにして、少し身を震わせた。それはただ、風が冷たかったからではなく、何か予感めいたものを感じたからかも知れない。
彼女はそそくさと家に入った。
空は何かを暗示するかのように、曇天が広がりつつある。